John Okada 「NO-NO BOY」旬報社

昨年末に川井龍介の新しい訳で出版された版。
第二次世界大戦直後のシアトル。自分の日本人としてのアイデンティティに基づいて徴兵を拒否した日系2世イチロー・ヤマダの物語。
 
「この小説が、日系アメリカ人の文学作品であるという前提は、極端に言えばなんら本質とは関係がない。」と
あとがきで川井が書いているのは正しい。
本作は、特定の時代や国民性を超えた普遍性を獲得している。
誰かが誰かを嫌悪し差別し社会が階層化されること、の悲しさ。
 
1957年、東京のタトル書房がこれを発行した時はほとんど評価されなかった。
直近の英語版の前書きを書いているRuth Ozaki によれば本作は bad English で文学ではないと評されたそうだ。人々は戦争のことを自己の体験としてはっきり記憶していて、他人の体験に共感できる余地のない時代だった。
しかし、時代は変わった。
時代は変わって、明らかに次のサイクルに入っている。新しい、でも、同じことの繰り返しの。
これは読んでおくべき本。
 
 

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クロード・ランズマン「ショアー」作品社

初版1995年。
「ショアー」という1985年のフランス映画を文字に起こした書籍の日本語版。

映画は日本公開されていて、現在はDVD等を購入することもできる。
ただ私は、予告編(動画バージョン。日本語の公式サイトでは静止画バージョンだった。)の映像の力に身がすくんでしまって、本編動画9時間半を見続けることはできないと思った。
どうしようかと考えていたら、この書籍を見つけることができた。
 
500ページ近い厚い本だけれど、インタビューが詩のような形式の改行で記載されているから余白が広く、文字数的にはそれほどは多くない。1日で読むことは可能。
ナチスのホロコーストでどのようにユダヤ人が処遇されたのか、生き残ったユダヤ人、それに関わったドイツ人ら、収容所の近くで生活していたポーランド人などなどが証言している。インタビューはそれぞれのインタビューイーの言語、英語・ドイツ語・ポーランド語・イーディッシュ・ヘブライ語で語られている旨の注記がある。
 
各々のインタビューイーが自身の体験を語り、それをつなげることで観る者が客観的な状況を理解することができる構成になっている。
語られる過去の記憶は、必ずしも正確で真実とは限らないけれど、訳者高橋武智の解説(下記)は同意できる。
「各証言者が心のひだの奥深くに刻みこみ、事あるごとに反芻していた記憶は、少なくとも当人にとっては、文字通り肉体化したかけがえのない事実である。100%同一でなく、むしろ大筋において一致する複数の証言が共存することこそ、それぞれの記憶と証言された事実の真正性を証し立てるものではなかろうか。」本書462ページ
 
<メモ>
ルドルフ・ヴルバ:英語版ウィキ ルドルフ・ヴルバ
ヤン・カルスキ:関連日本語最新書籍「ユダヤ人大虐殺の証人ヤン・カルスキ
チェルニアコフ:日本語版ウィキ アダム・チェルニャクフ
 
下記は2015年3月の動画で、英語だけで関係情報を得ることができる。
ランズマンの紹介に続いてランズマン自身による説明、そして、長い沈黙を破ってショアーで語ったヤン・カルスキについての英語字幕と未公開部分映像。
 
 
私が知りたのは「今」というときであって、それが過去から連続してるという点においてすべての過去を知りたいという気持ちはあるけれど、それが不可能なのだとすればもっと情報に近い別の人に精査を任せたい。
ただ、知らなかったという責任放棄の場所に自分の身を置くことはしたくない。

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スコセッシ「沈黙」

日比谷のスカラ座で。
良い音響と大きなスクリーンは心地よかったし、土曜日午前11時の回はとても空いていた。

予想を大きく上回る素晴らしい映画だった。
たまたま日本が舞台の映画だけど、それはあまり関係ない。
ほとんど最下層の人々を、こんなに美しく愛おしく映画にすることができることに感動した。
これはキリスト教とは直接関係がない部分だろう、どれだけ人を愛してきたか愛そうとしてきたか、それが画面に表れているだけだろう。

ふしぎな160分間だった。
常に静かな緊張感があった。
観客たる私は第三者的なカメラの視線で映画を見る。
カメラの位置は、いくつかの場面で神の視点を意識させはしたけれど、新規な印象はない。そして当然に悲壮な場面が多い。
しかし、俳優の演技を超えた優しさと慈しみが画面にたたえられていて、予想していたような残虐さは皆無だった。
原作を知っていると、あまりの落ち着きはらった描かれ方に一瞬軽く肩透かしを覚えるほどで、しかしその壮絶なはずの場面は、丁寧に描かれることで悲しみの感情だけが深く突き刺さってくるものに昇華していた。
こんなことができるなんて、私は少しも知らなかった。

俳優は、2人ほどを除いて特筆すべきを感じなかった。
それは必ずしも悪いことではない。
この映画では俳優はうまく演じることが求められてはいないのではないだろうか。
特定の人物や出来事ではなく、普遍的な人たるものの存在を描くためには、俳優が俳優として存在してはいけない。
この映画は、あえて言うなら、登場人物としては出てこないイエスを描いた映画なのだ。
出てくるのは、稚拙な宗教画、踏み絵のすり減った磔刑図、言葉も真にイエスのものなのか定かではない、しかし、これほどにイエスの存在を近くに感じられる映画。
私はイエスを思って泣いた。

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ブループラーク

ロンドンのフランシス・ベーコンのアトリエあとにブループラークが付けられるとのこと。
だから、扉にペンキを塗っていたの?

大雑把には、私にとってのフランシス・ベーコンがなんであるのか、ケリがつけられたのであった。
ガラスのゆがみに気づき、ガラスが先にあったこと、でもこれがオリジナルであること、彼の目指したもの、画風の変化、ベラスケスとゴッホとピカソに彼が見たもの、不在の存在、悪魔的な題材、同性愛、マゾヒズム。なぜイギリス的なるものが彼を受容したのか。
彼を触媒にして世界を考えているときに感じたあの瞬間は、きっと彼と同じ瞬間だったのではないかと、なかば確信している。
さてと。

「リスボンへの夜行列車」は結局日本語版を読み始めてしまった。
作者パスカル・メルシエの思考に同調はできない。そもそも、話の核になっている人物アマデウが天才的な神的部分を持ち合わせていると設定されているのが、私の趣味にはあわない。ただ、本作のストーリーと直接関係しない部分の「描き方」が、わたしには興味深い。
たとえば110ページ、
「自分という人間を確かめる最良の道が、他者と知り合い、他者を理解することだというのは、あり得るだろうか?」
と主人公は自問している。57歳の十分哲学的な思考を経験してきた主人公が。
こんな、当然のことを自問していることが理解できなかった。が、当然と思うことを顕在的に登場人物に経験させることが必要なのだ、それが小説というものなのだ、そう考えることはできた。
なるほど、と。

これは、この本が特別なのではなくて、私のほうが変わったから、そういう読み方ができるようになったのだと思う。
いままでずっと、私にとって世界は探し物をする対象だった。何を探しているのかが把握されないまま、探さなければいけないという強迫観念にも似た内なるものに私は支配されていた。
本を読むときも、楽しむことや対話より、むしろずっと飢餓・渇望の感覚が強かった。強すぎる渇望は、かえって吸収・理解を妨げるし、結果、飢餓感はさらに強くなってゆく。
探し物をやめたとか、ぐるっと回って帰ってきたとか、そういうおとぎ話的結末ではなく、ごく自然に私という認識主体が時間の経過により変化したに過ぎない。
時間。主観的な認識であるところの時間。

若い時のベーコンは魅力的だったと、改めて思う。

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東京芸術大学卒業・終了作品展

東京芸術大学卒業・終了作品展に行った。 
強烈に面白く、一日中上野で楽しく過ごしてしまった。
特に気に入ったのは、
久保万理子(漆という素材だからできる観念的な奥行き感が斬新に表現されていた)、
仲間一晃(身近な人々の存在を立体にくりぬいた面白さ)、
赤池龍星(画もいいし、スケッチを手に取らせる見せ方も、素朴なようで新鮮だった)、
三上晏子(ほかに類のないふしぎなリアルさ)、
中垣拓磨(小さな立体、ここに住みたいと思わせる魅力があった)、
佐々木敬介(既視感はある、でも新しくて心地よい)、
齊藤可那子(一番気に入ったかもしれない 笑)、
等。
 
作家が会場にいるのも良い。好むと好まざると彼・彼女の代表作となる彼・彼女自身の顔を見ながら制作を見るのは、やや悪趣味かもしれないけれど楽しい。
 
来場しているのは高校生や学生が多かった。
「(自分の表現方法を模索して)これだと思ってしばらくすると、10年前にかならず誰かがやっているんだよね。」と会話しながら歩いていた学生がいた。
なるほど、独自性を模索するとそれは獲得されず、類似性を探し求めると独自性に行き着くのか。当たり前のことが再度当たり前として認識しなおされる今日この頃。

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ロンドン、リスボン

PetShopBoysのLondonは私の中に深くしみこんでいた。
そして、ベーコンの画を受け入れるイギリス(=かつてチューリングが自殺した国)を垣間見たかった。
ロンドンに高くそびえるバベルの塔は、短い滞在でも体感できた。
語学学校によると、ロンドンでは300種にも分類される言語が話されている。
そして、シティと呼ばれる地域にいる人と、地下鉄でほんの少し外れた場所で出会う人では、身長や体形、歩き方や使う言語が異なった。

でも、そんなロンドンの空気は私にとって呼吸がしやすかった。
修辞的にではなく、空気は軽やかで、水道水は口当たりなめらかだった。
ロンドンの空気は基本構造がシンプルだと心身で感じていた。
 
ここでは、バベルの塔があるという事実が、まずはシンプルに認識されている。
そして、さらに重要なのは、そこで止まらずに話が展開することだ。
私は私、あなたはあなた。あなたと私は違う、そういう厳然たる認識があって、違うから憎むなのか違うから愛すなのか、それは大問題だけど、とにかくあなたと私は別の人格だというところから話が、始まる。
これはつまり、根本にフィクションがないという「誠実さ」を使って社会を見ているということで、それは「神」から来る誠実さだろう。万能の神からみれば、人は誰もが原罪を負う不完全な存在で、人は神のわざを誠実に受け止めるしかあるまいてという心情は、神が今いようがいるまいが思考背景にあると思う。
法と神の前での平等というのは、つまり、いつも我々は神や法の前にいるわけではなく、ユージアルな場面で人は不平等だという生の強烈な事実を受け止めることが前提なのだ。そういう事実を受け止めることのできるタフな精神がなければ主体としての個人になれない。
 
そう、ロンドンではなんとなく引っかかっていたことにケリをつけることができた。

人生は舞台ということば。
修辞的なオシャレな表現だと思い込んでいたけれど、地下鉄や街角で隣り合う市井の人々、ここは劇場ですかと思うような発声の良さ(笑)、表現力の豊かさ、強烈な個性を感じさせた。日本では芝居はかなり芝居がかって見えるけど、なのでロンドンの演劇は逆に日常っぽく感じた。
そして、空の色。
イギリスの多くの風景画の空は美しい。ガーリーなピンクに似合うスゥイートなブルーをしている。こんなチャーミングな空が描けるなんて、イギリスの画家は素敵な人格の持ち主なのだと思っていた。でも違った。雨上がり(これはしばしば遭遇する事態)、風景の奥のほうに見える空は画のとおりのスゥイートなブルーだった。本物の空自体がチャーミングだったのだ。なんだ見たまま描いただけかよと、この美しさを描きたくなる気持ちはわかるものの、すこしがっかりした。
 
加えて、ロンドンは論理と別の次元での共感も求める街だった。
たとえば、人がバイオレンスを愛する部分があるのは、破壊への連関とそこに感じられる嘘のなさと共感の容易さからだ。外部からの刺激が自己の感覚器官に痛みをもたらすことを人は知っているし、ほかの人も同様に知っていることを知っている。痛みは、実際に神経細胞で感じなくても、映画で視覚的に見せられるだけで、作り手と鑑賞者および鑑賞者同士で共感できる。論理思考は大切、でもそれは過度に信用してはいけないとドイツ人の多くの論文からも痛感させられる(最も説得的なのはミヒャエル・クンツェ「火刑台への道」)。
ベーコンの画を受容したいと願ってそれを成功させたイギリスには、そういう論理・神・法・慣習などなどオーサライズされた手法を過度には信用するまいとする個人主義を感じる。
 
結局。
私はリスボンではなくロンドンに行ったわけだが、ロンドンでも人が不平等で個々別々だということがデフォルトで、そこから対話が始まっているのが美しかったです、
ということでした(この美しさというのは、人は個々別々でもそれは孤独とは違うと感じさせるという意味です)。

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「リスボンに誘われて」

先に私はこの映画のタイトルがナンセンスだと書いた
それは、タイトルの主語は主人公だと認識していたからだった。「スイス人高校教師の私は、偶然の出来事からリスボンに誘われて、云々・・・」というような。
しかし、よくよく考えてみるとこのタイトルは秀逸なのかもしれないとも感じている。
原作とは明らかにテイストが異なるこの映画を、原作とは異なるタイトルにするのは正しいのではないかと。

気になる場面があったので、入手できる日本語版と英語版の原作小説でその個所を確かめてみた。
本作はドイツ語が原作なのだが、ドイツ語版はにわかには入手できなかったし、ドイツ語は読めないので、諦めた(悲しい)。
日本語版も英語版も、ドイツ語の原作を翻訳している。

映画では、主人公は訪れた眼科医で問題の本について熱っぽく語るのだが、眼科医は(なんと)自分の伯父が本の著者を知っていると言って主人公を案内する。フェリーに乗り、その伯父と初めて会ったのは老人ホームのパブリックスペースだった。
2人はソファーに座り、お茶を前に話し始める。
ポケットから出された老人の手は、独裁政権による拷問のためにパーキンソン病者のように震えて、なみなみと注がれたカップを取り上げることができない。
「カップに半分で良かったのに」。
テーブルの反対側に座る主人公は、わずかな躊躇をみせるも、思い切ったように老人のカップに手を伸ばし、一気に半分ほどを飲み込み、素早くカチャリとソーサーに戻した。
老人は瞬時目を見開き、「こんな風にされたのは初めてだ」とお茶を味わい、そして過去の誰にも話してこなかったであろう話を始める。

私はこの場面で激しく心が動かされた。魂が溶けるような共感でもって、私のなかの孤独の概念が根源から変化したのを感じた。
このゆさぶりと変化の理由は言葉で説明できるけれど、しかし必ずしも他人と共有できる感覚ではないだろう。

脱線するけれど書いておくと、まれ人がきっかけとなって特定の場所の文化や慣習を破壊する類のストーリ(日本の演劇では「叔父の力」とも呼ばれるジャンルがあるように)があるけれど、そういうお芝居なり小説が苦手だ。
本書の日本語原作では上記の登場人物は伯父と表記されていて(丁寧に父の兄とも書かれているが、英語版では単に father's brotherなのでここはドイツ語版をいつか確かめたい)、その辺も面白い。

さてこのような、個人的に狂おしい感覚を得た場面は、文字媒体でどのように記載されているのか、そもそもこのお茶ごっくんのエピソードは存在するのだろうか。

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東京国立近代美術館「endless 山田正亮の絵画」

今年から選り好みせず展示を見ることにした。
本展では219点の山田の油彩等が展示されている。
山田は56冊の制作ノートに克明に作品のことや日常の出来事を記載しており、その一部も展示されていた。

本展は副館長の中林氏が企画したものだが、氏は生前の山田をご存知のようで、この展示はどこか人の体温が感じられる印象があった。
展示の仕方ももちろんだけれど、デザイン性の高いフライヤや会場ガイドがかなり楽しくわかりやすいのは、作家を知っているからできることだろう。
図録にISBNがついているのも珍しい(図録が一般の流通に載るということの意味はしらない)。

山田の画がほぼ時代ごとにまとまって展示されているのだが、最も初期の1948年ごろからのいわゆる静物画、それが抽象化され、四角、ボーダー、升目状、ワントーン、と変ってゆくのは、自然な流れに見える。
数的にボーダーが多い。それらは、色彩が違うだけではなくひとつひとつ描き方が違っていて、線の見せ方を試行錯誤している。ずっと見ていると、山田が左から右へと太い筆を走らせる姿が見えるような気がする。
良いと思ったのは、抽象と具象の間ともいえる、青系の、極端に抽象化された身体がひしめき合っているような画。忘れかけていた自分の個人的な経験を思い出した。
数年前の冬の日、その季節初めての本格的な寒さの日、地下鉄の通勤客は皆オーバーコートを着ていたのだが、ふと、列車が大きく揺れて、私はバランスを崩し床に仰向けに倒れてしまった。黒いオーバーコートの人々が起立しているなかに、私の横たわった身体分の空間がひらいていて、そして私のいる床はとても静かだった。シュールな、でもふしぎな幸せな感覚があった。そういう個人的な体験を思い出したのは、画がひしめき合いつつ静かな印象をもっていたからだろう。

自分のペースで画を見ることはとても楽しいことだ。

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黒い本

やっと届いた画集。
本の形状自体にすでに存在感があって、その存在感を感じながらめくると、美術館で見たあのときの胸のざわめきが沸き起こってくる。
これはなんという。
耽溺してしまいそう。
こんなに魂が打ち震えることがあるとは。
世界はあまりに演劇的すぎる。これが世界か。

この画集を知らなかった私と知ってしまった私。

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ヴィクトル・ストイキツァ「影の歴史」平凡社

ストイキツアは面白い。
圧倒的な情報量が思考を豊かに自由にし、読み物としてちょうど良い頃合いのポジティヴな明るさにつながっている。
そんな明るで、「影の歴史」(A Short HIstory of The Shadow 1997)は絵画作品(写真やその他もいくつか含まれているが)における影の描かれ方とその意味を述べている。

見ることは光を感得することだから、絵も写真も光があってこそ成立する。
しかし、光には波長と別に強弱があり、また、光源が遮られれば遮蔽物の形に倣った影がおちる。
光の弱さや欠落は対象物の存在自体とは関係がないけれど、光で・視覚で認識することをデフォルトとしている世界においては、光の存在こそが対象物の存在として認識されやすい。
そういった人々の認識をベースに、絵画作品のなかに描かれた影に託された意図を探ってゆく。

キリコの例の「街路の憂鬱と神秘」やボルタンスキーの影絵、デュシャンの手法、悪魔に影を売った男の話の挿絵等々、古今の様々な作品が述べられてゆくのだけれども、私が最も興味深かったのはなんといっても印象派の部分だ。
ルノワールの「デザール橋・パリ」の下部に描かれた影は「絵画外の世界から絵画の領域内への侵入を示す」ようなものと分析され、モネが睡蓮を「水と反射の風景」と手紙で記していることにつながり、ナルキッソ神話に循環するのだが、自己投影の絵画史的再帰は自己愛ではなく世界への愛情だと述べられる。

Photo

印象派に関しては、本書全体350ページのなかの9ページ分でしかない。
ここだけをもっとたくさん深く読みたいと思った。

そもそも本書を読んだのは、口絵にベーコンのゴッホの肖像画のための習作が掲載されていたからだ。
ベーコンは、ゴッホの影を明示的にとらえて、色濃い死の影があるから描くべき生があるのだと認識していた旨が記載されていた。1ページ分のみ。

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