東京国立近代美術館「endless 山田正亮の絵画」

今年から選り好みせず展示を見ることにした。
本展では219点の山田の油彩等が展示されている。
山田は56冊の制作ノートに克明に作品のことや日常の出来事を記載しており、その一部も展示されていた。

本展は副館長の中林氏が企画したものだが、氏は生前の山田をご存知のようで、この展示はどこか人の体温が感じられる印象があった。
展示の仕方ももちろんだけれど、デザイン性の高いフライヤや会場ガイドがかなり楽しくわかりやすいのは、作家を知っているからできることだろう。
図録にISBNがついているのも珍しい(図録が一般の流通に載るということの意味はしらない)。

山田の画がほぼ時代ごとにまとまって展示されているのだが、最も初期の1948年ごろからのいわゆる静物画、それが抽象化され、四角、ボーダー、升目状、ワントーン、と変ってゆくのは、自然な流れに見える。
数的にボーダーが多い。それらは、色彩が違うだけではなくひとつひとつ描き方が違っていて、線の見せ方を試行錯誤している。ずっと見ていると、山田が左から右へと太い筆を走らせる姿が見えるような気がする。
良いと思ったのは、抽象と具象の間ともいえる、青系の、極端に抽象化された身体がひしめき合っているような画。忘れかけていた自分の個人的な経験を思い出した。
数年前の冬の日、その季節初めての本格的な寒さの日、地下鉄の通勤客は皆オーバーコートを着ていたのだが、ふと、列車が大きく揺れて、私はバランスを崩し床に仰向けに倒れてしまった。黒いオーバーコートの人々が起立しているなかに、私の横たわった身体分の空間がひらいていて、そして私のいる床はとても静かだった。シュールな、でもふしぎな幸せな感覚があった。そういう個人的な体験を思い出したのは、画がひしめき合いつつ静かな印象をもっていたからだろう。

自分のペースで画を見ることはとても楽しいことだ。

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黒い本

やっと届いた画集。
本の形状自体にすでに存在感があって、その存在感を感じながらめくると、美術館で見たあのときの胸のざわめきが沸き起こってくる。
これはなんという。
耽溺してしまいそう。
こんなに魂が打ち震えることがあるとは。
世界はあまりに演劇的すぎる。これが世界か。

この画集を知らなかった私と知ってしまった私。

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ヴィクトル・ストイキツァ「影の歴史」平凡社

ストイキツアは面白い。
圧倒的な情報量が思考を豊かに自由にし、読み物としてちょうど良い頃合いのポジティヴな明るさにつながっている。
そんな明るで、「影の歴史」(A Short HIstory of The Shadow 1997)は絵画作品(写真やその他もいくつか含まれているが)における影の描かれ方とその意味を述べている。

見ることは光を感得することだから、絵も写真も光があってこそ成立する。
しかし、光には波長と別に強弱があり、また、光源が遮られれば遮蔽物の形に倣った影がおちる。
光の弱さや欠落は対象物の存在自体とは関係がないけれど、光で・視覚で認識することをデフォルトとしている世界においては、光の存在こそが対象物の存在として認識されやすい。
そういった人々の認識をベースに、絵画作品のなかに描かれた影に託された意図を探ってゆく。

キリコの例の「街路の憂鬱と神秘」やボルタンスキーの影絵、デュシャンの手法、悪魔に影を売った男の話の挿絵等々、古今の様々な作品が述べられてゆくのだけれども、私が最も興味深かったのはなんといっても印象派の部分だ。
ルノワールの「デザール橋・パリ」の下部に描かれた影は「絵画外の世界から絵画の領域内への侵入を示す」ようなものと分析され、モネが睡蓮を「水と反射の風景」と手紙で記していることにつながり、ナルキッソ神話に循環するのだが、自己投影の絵画史的再帰は自己愛ではなく世界への愛情だと述べられる。

Photo

印象派に関しては、本書全体350ページのなかの9ページ分でしかない。
ここだけをもっとたくさん深く読みたいと思った。

そもそも本書を読んだのは、口絵にベーコンのゴッホの肖像画のための習作が掲載されていたからだ。
ベーコンは、ゴッホの影を明示的にとらえて、色濃い死の影があるから描くべき生があるのだと認識していた旨が記載されていた。1ページ分のみ。

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解釈

クメールルージュの生き残りの人たちは、目の前の人間が信じられるかどうかを見抜く能力が極めて高いのだと、どこかのドキュメンタリー映画で言っていた。
ベーコンの素描は「永遠」を感じさせる価値がある。それは、著名な作家であるベーコンが描いたとか、経済的価値があるとか、そういうことではなくて、線が違うから。

このような評価が、なぜなされるのだろう。
これらの情報は、なぜこれらの判断をなさしめるのか。
ここを媒介する部分が「解釈」なのだと、改めて認識したのがこの正月。
とりあえず、ディルタイ、ガダマ、ヤウスとイーザーを並行的に読み始める。
大学1年生のような心地。

解釈に行き着いたのは、ストイキツアが「絵画をいかに味わうか」で2行ぐらいヤウスについて触れていたから。
解釈という言葉は知っていたつもりだったし、毎日その周辺の作業をしている。
でも、この解釈を独立させて精査することは私の思考次元にはなかった。
解釈に関する基本的な書籍はどれも、私のような思考次元の者への断り書きを冒頭に記載している。
たとえば2000年のイーザー「解釈の射程」は次のような序文から始まる。

本書は、解釈を精査する試みである。解釈という活動は自然に生じるものであるという意見が広まっていることが、とりわけこのような試みをする理由である。自然に生じないのが解釈の形なのである。
・・・
解釈とは、かつてと違い、もはや解釈学とは同一視されるべきではない。解釈学とは、理解へと開かれたテクストを基本的に扱うひとつの顕著なジャンルでしかない。しかし、文化、エントロピー、あるいは場合によっては同じ基準では測れないもののように、テクストでもなければ筆写されたものでもない何かを解釈するとなると、解釈の手続きが必ずや変化する。その変化に焦点を合わせるのが、以下の諸章の基本的意図である。

イーザーの見解を100%理解したとしても、なぜベーコンの線が特別なのかを論証することができないのは判っている。ベーコンも If you can talk about it, why paint it? と言っている(Andrew Sinclar Francis Bacon 1993)。
ただ、私にとっては思考のブレイクスルーが心地よかった。それだけの話。
いままでバラバラに私の思考の中に散在していたことどもが、有意な位置関係にあるのかもしれないと感じられたのは、個人的には大いなる楽しみだ。

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映画「リスボンに誘われて」

邦題はナンセンス。原題Night train to Lisbonのほうが硬質にミステリアスで良い。
ふしぎな面白さの映画。
なにがふしぎなのか。画面に描かれていない部分が説得的に描かれているという矛盾する状態が成立しているというふしぎ。
たとえば、主人公の高校教師は偶然1冊の古書を手に入れて、そこに挟んであったチケットでスイスからポルトガル・リスボンに向う。古書の著者を電話帳で探して会いに行き、すでに故人となっていた著者に関係する人々ひとりひとりから話を聞く。
ストーリーは偶然の出来事が積み重なってつながってゆく。
これがハリウッド映画だったら、ご都合主義にうんざりさせられたにちがいない。でも、ドイツ・スイス・ポルトガル合作の本作では、これら偶然の連鎖は描かれていない何ごとかによって必然に起きているのだと感じさせる。
これは素晴らしい技じゃないか。
巧みなシナリオと役者の演技と深い表現力あるカメラ。

たしかにセリフでも「偶然性」が語られるし、それら偶然性はすべて人を介在して展開してゆく(たとえば偶然古書を手に入れるのも、本屋で本を見つけたのではなく、投身自殺しようとしていた?女性を助けて、彼女が残していったコートのポケットから見つける。たまたま人と衝突して眼鏡を壊して・たまたまかかった眼科医の叔父が問題の中枢人物。など)のは、偶然性をそれとして語っているのではなく、その背後に「ある」ものを確実にかたっているから偶然性が必然として説得力を持つ。


この偶然性の基盤として登場人物は全員英語を話す(原作では逆に主人公が言語学の素養を持つ)。
英語が公用語でないスイスの学校やリスボンで英語が話されるのは、映画を見ている観客の便宜のためではないのだ。

主人公を演じるジェレミー・アイアンズやシャーロットランプリングの英語もいつもの英語とはどこか違う、のが私には理解できない(悲しい)。
でも、たぶんここで話される英語はバベルの塔が無かったら、というおとぎ話としてのえいごなのだ。EU統合の是非とは別に英語は一つのおとぎ話に説得力を持たせている。

本作については様々なことを語ることができる。ポルトガルの独裁政権や革命、それを知らなかった私の無知を含め。

しかし、本作中で語られたことを語ることは重要ではない。

語られなかったことが雄弁に語られていることを語るべきだ。

フランシスベーコンの絵画における背景の消滅、削られた顔面、描かれた穴。描かれるべきが描かれないことで、描かれている次元と別の次元を想像させその存在を確信させることができるのは稀有な能力だ。この能力を我々は共有するために語る必要がある。

ところで。

ニュースによると、ポルトガルの元大統領マリオ・ソアレスが92歳で亡くなった。

これも本題と関係ないが、去年のロンドン旅行のカード利用等の整理も終わって、改めていろいろなことがあったと考えていた。
最も美しい思い出はピアとの会話だったように思う。
お互い英語が拙くて、でもこのひとと話をしたいという気持ちが強かった。
私が彼女がドイツのなかでもベルリンに住んでいると聞き、ベルリンにあこがれている気持ちをつがえたかったけれども、歴史的な部分を適切に表現できる言葉を持っていなくて、
「ヴィムベンダースの天使の映画、日本ではベルリン天使の歌というタイトルの映画は印象深かった。ドイツには行ったことがないけれどベルリンは私にとって特別な場所だ。」という話をした。
言語的にはたいした情報は伝えられなかったけれど、ピアは何かを感じてくれてベルリンは素敵な街だと教えてくれた。そして、ソフィアコッポラのロストイントランスレイションを見て行ったことのないトーキョーが好きになった、とも話してくれた。

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謹賀新年

今年もよろしくお願いいたします

振り返ると、去年は私の人生の分水嶺になるのかもしれない。
京都もロンドンも、まるで遠い出来事のようにも思えるけれどつい先年の出来事。
あれから連続する今年は一体どうなるのか。
こんな楽しみな気持ちで新しい年を迎えられたのは幸せなことだ。

元旦は朝からベーコンの論文を読んだ。
改めて近代美術館の保坂健二朗氏のは実証的なアプローチが良い。ロジカルに詰めてゆく論述に好感が持てる。
ただ、論理を詰めていっても最後の評価部分の説得の力がほんの少し物足りないのは、氏がまだ比較的若いからなのだろうか。
この点、ドゥルーズ(「フランシスベーコン 感覚の論理学」)は抽象論を書いているようで理詰めで説得されてしまう。ドゥルーズ個人を超えた歴史ともいえる時間の重みによって私の認識はねじ伏せられてしまう。

昨夜、テレビを見ていたら、マタイ伝の「いと小さきもの」について映画監督スコセッシが話していた。
日本で一般的に述べられているアプローチとは全く違っていた。
ずっとわからなかった小さきものの意味が初めて腑に落ちた。小さな稲妻に打たれた。
遠藤周作は日本のキリスト教は何なのかとずっと考えて自分なりの答えを出していた。遠藤は正しいのだろうとやっと評価できた。

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ダリ展、禅展

半月前に見に行って、すでに何を見たのか忘れている。
ダリは本当に天才なんだなあ、と思ったけれど、これをお金を出して買いたいかと問われればノーサンキューと答えるだろうというところ。
脳の中のかゆいところに手が届く感じの画は、「ダリの時代」には鮮やかに見えた。でも、いまやCGで何でもできて、ダリ的な画面も飽きるほどに私たちは見てしまっていて、本家のダリを見てももうそこにアートといえるほどの力を感じない。
単に好き嫌いの問題なのか?
上の動画は会場でも流していたもの。ディズニーとダリ。ステキな出会いw。

東博の禅展、青磁のお茶碗が見たくて行ってきました。
銘「鎹(かすがい)」は愛知県のマスプロ美術館の所蔵で、ずっと見たいと思いつつ、気づいたら10年ぐらい経ってしまっていたのでした。
本展示の最後のほうにケースの端に置かれていた鎹は、繊細に美しくヒビも綺麗に入っていて、全体として深い趣があったような気がしました。
写真では東博の持っている馬蝗絆(バコーハン)よりもずっと良さそうに見ていたのですが、リアルでも鎹のほうが上品でまさに命名のとおりのように思えました。
そもそものお茶碗の形状が最も大事とはいえ、これらの青磁の場合には、そのひびの入り方と修復のされ方、そして伝来の経緯が相まっていまのお茶碗の姿を作っているわけで、2つを並べた展示でその違いを確かめていみたいものです(本展示のマスコミ向け記者会見でも並べて見せたらしいのに、なぜ会場では展示してくれないのか・・・?)
禅展全体については、あまりに展示数が多いと感じました。

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国立西洋美術館「クラーナハ展」

クラーナハの画というよりも、クラーナハという人とその時代の雰囲気、そして西洋美術館の演出の仕方とかが興味深い展示でした。

クラーナハの画自体は諸星大二郎に似ていると思いました。
女性の表情や姿勢、画面全体の作り方、観る者との距離感の取り方、といったところが諸星っぽい。
諸星は日常のなかの不安を捉えるのがうまいのですが、クラーナハは聖書や歴史の中のエロスを捉えるのがうまい。どちらも表面的に見えている部分から一歩内側をのぞき込もうとしていて、さらに、両者、画の中の登場人物が観るものにアイコンタクトしてきたりして共感を持たせる画面作りができる。
諸星大二郎がクラーナハや中世・ルネサンス絵画を学んでいるということもありうるのですが、この相似性は自然発露なのだろうと思います。
基本に画の技量があって、そこに超自然的題材と観る側の大衆化という時代背景が関係しているのではないかと感じます。

本展覧会のポスターになっているユディットは修復後の初公開ということでした。
たしかに、以前の画像を見ると髪の毛がパッサパサのすすけたユディットでしたが、今回来日した彼女の髪は光輝いていて若々しさがありました。
修復技術、すごいですね。

来年はルターの「95論題」が公開されて500年の節目にあたるということで、500年というのをキャッチーに使っていますが、クラーナハと500年は直接関係ないです。
およそざっくり半千年紀前の画ですよ、という意味しかありません。

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クラウドアトラス

映画版はたぶん、予備知識のないまま見たほうが面白いと思います。
私はAmazonFireTVをチェックしてて、ウォシャウスキ監督ということだけで期待せず見たのでした。2013年に公開されていることも知りませんでした。
映画を見てからネットでの情報に触れたのですが、ロジャー・イーバートの評 は良かったです。たしかにこの映画は言葉にならない、わからないままでいいのだと感じます。予備知識があると、そういう混沌感が十分に味わえません。

アマゾンの紹介文:
『マトリックス』3部作のウォシャウスキー姉弟がトム・ハンクス、ハル・ベリー主演で贈るSF超大作。19世紀から24世紀まで6つの時代と場所で6つの人生を生きる男を主人公に、500年間の6つのエピソードを圧倒的な映像で描く。

ちなみに、ウォシャウスキは現在は姉妹になっています。

原作はデイビット・ミッチェルの小説(河出書房新社刊あり)です。
映画と小説では、物語の進行の仕方も違いますし、ストーリー自体がそもそもかなり違っています。
映画は小説をとてもうまくエンターテイメントに仕上げたのだなあと感心しますが、あまりにハリウッド的なステロタイプなのは、あえてなのかどうかよくわかりません。
映画のストーリに疑問を持ったときには小説を読むと納得できると思います。

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7 Reece Mews, London SW7

7 Reece Mewsは画家フランシス・ベーコンのかつてのアトリエ(動画)があった場所。
内部のアトリエはダブリンに移転され(2001年BBCニュース)、いまはベーコン財団のオフィスになっている模様。
建物の外観を眺めてベーコンが歩いた街並みをたどるだけでも、とグーグルマップを見て行ってみたらこうだった。

Greendoor

扉等が深い緑色に変わっていた。
いや、実は写真を撮る直前まで、2人の若い男性がペンキを塗っていたのでした。
ベーコンがらみであれば、何がしかがあるであろうとの予感があって、それが実現されたような気がしています。

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