CITIZENFOUR シチズンフォー|スノーデンの暴露

やっと足を運んだイメージフォーラム。
もうたいして目新しいこともないだろうとユルい気持ちでシートに身を沈めていたら、大間違い、すごい映画だった。

たしかにドキュメンタリー映画なのだけれど、いわゆる取材ものとは全く違う。全く。
それはたとえば、
ある日、あなたの端末にイエスという人から連絡が入る、
じつは私は国家から追われる身になる、ついてはあなたにその一部始終を世界に伝える役を担ってほしい、
あなたはイエスに会うために長い旅をし、彼の長い言葉・短い言葉、彼の視線、彼の髪の乱れ、彼のため息、それらすべてを記録する、
そして、あなたの記録した情報は世界に伝えられ、世界を変えるひとつの力になる、
そんな一連の出来事の記録の記録。

水野和夫「資本主義の終焉と歴史の危機」によれば、スノーデン事件は資本主義の終わりのひとつの象徴だという。16世紀から続いた資本主義がいま崩壊を始めている、というのが事実ならば、スノーデン事件はイエスの磔刑に匹敵するイベントといってもそれほど大げさではない、
ということがこの映画を見ると実感できる。

ネットではヒドラの法則が適用されて、僕がもしいなくなってもほかの7人が立ち上がるんだよ、とスノーデンが言っていて、実際そうなのだった。

Jacob Appelbaum
Um, so you guys are actually in a sense the canaries in the coal mine. Right, because the incentives are all lined up against you. Anybody see on the subway, "Link your MetroCard to your debit card," right? Like, auto-refill? This is a concept which is key to everything we'll talk about today. And it's called linkability:

Ladar Levison
I believe in the need to conduct investigations. But those investigations are supposed to be difficult for a reason. It's supposed to be difficult to invade somebody's privacy.Because of how intrusive it is. Because of how disruptive it is. If we can't... if we don't have our right to privacy, how do we have a free and open discussion?

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変わってゆくから愛おしい

言いたいのは、それだけ。

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エイミー・ベンダー「レモンケーキの独特なさびしさ」

菅啓次郎の翻訳が好ましい。

ローズは、9歳の誕生日ケーキを食べてから、味覚の中に食材やその調理過程の記憶を認知できるようになった。

まるでそれまでは自分の深いところに埋もれていたセンサーが潜望鏡を上げてまわりを見わたし、何か新しいものを発見したと私の口にむかって警告を出しているみたいで、材料の良さ--上等なチョコレート、新鮮なレモンーーが何か、より大きくて暗いものを隠していて、下に隠れているものの味がそのひと口を通じて浮かび上がってくるのだ。(14ページ)

戸惑い。
日常に隠れた複雑さ。
9歳の女の子が成長してゆくということ。その母が年を重ねて行くということ。父が家庭での居場所を確保しようとすること。そして、兄の欠落への過程。

久しぶりに読んだ純粋な小説。
なんて面白い!

50歳を過ぎて、それでも私は私の中に9歳の自分をはっきり覚えている。
根本的には何も変わっていないとさえ思う。
彼女は、9歳の私は、よくやっていた。
子供とはそういうものだ。
よくやっている、存在。
本書のローズも頑張っている。
子供がんばれ。

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ジュリア・マーガレット・キャメロン展@三菱一号館美術館

優雅。

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キャメロンは1815年生まれ。井伊直弼と同じ年(笑)。
48歳で、当時の先端技術だった写真撮影技術を手に入れた英国貴族夫人。
よく目にする日本の幕末の志士たちの写真と比べても明らかなように、彼女の作品は驚異的にアート。キャメロン自身と被写体の作る世界がそこには厳然と現れている。
内なる偉大なものを表現しようと明確に意図し、それが成功した痕跡が、彼女の写真。
優雅。
これこそが優雅というものなのだろう。

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写真は本当に不思議な媒体だ。

キャメロンは、それほど身長は高くなく、しかししっかりした体躯の持ち主で、かなりエネルギッシュな女性だったらしい。
どんな女性だったのだろう。
展示には彼女の手紙も展示されているけれど、流れるような筆記体はほとんど読解不能。
解説によれば、「それにつけてもカネの欲しさよ」的な手紙を書いている。貴族とはいえ世知辛い。
そんな彼女の写真アート。

彼女の被写体となった女性たち。

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9月19日まで。
金曜と第2水曜は20時まで開館で、第2水曜夜は女性割引あり。

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レイナルド・アレナス「夜になるまえに」

久しぶりに文学系を読む。小説ではなく、小説家の自伝。
1943年生まれのキューバ人。極貧生活、社会主義革命、同性愛、投獄、アメリカへの亡命、エイズ、死。
彼の半年が私の一生に匹敵するのではないかと思うほどのディープダイヴな人生。
暴力的で混沌とし泥にまみれた(彼の最初の味の記憶は土なのだという。空腹に耐えかねて土を食べていたのだと。)そのなかに、真珠の粒のように真実が言葉によって現されるのはあまりに美しい。これが、これこそが、人間の生だと思わずにいられない。
刑務所の場面。

悪臭と暑さは耐えがたいものだった。便所に行くのはもう大事(おおごと)だった。便所は一つの窪みに過ぎず、そこでみんなが用をたした。足やくるぶしが糞まみれにならずそこまで行くのは不可能だったし、おまけに洗う水もなかった。かわいそうな肉体。そんな状況では魂は肉体のためになんにもしてやることができない。(249ページ)

世の中の因果関係、たとえば本書に偶然出会ったことには意味はないけれど、読んで感じたことは得難いことを得たことであって、さかのぼって本書との出会いを祝福しても過剰な感情移入にはならないだろう。

ずっとキリスト教の本を読んだり、最近は先生と話をしたりして、少しかの世界の状況が分かってきた。
千年単位の期間をかけて人々が考えてきたことはおおよそのところどんなだったか、蓋然性としてそこには私個人が数十年考えたよりも真実に近い部分があるだろう。
キリスト教は愛の宗教といわれていて「神と私」に閉じない第三者を設定しているのだと思う。人との関係性こそが大事。それがキリスト教なのではないかと思っていて、だとすれば世界を良くするヒントがそこにはあるのではと考えている。

追記:いまググったら、なんだ本書は映画化されているんだ。しかもジョニディが少し出ているらしいから、メジャーなんだ。

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文月

今年も半分が終わってしまった。
早いのか遅いのか。
とにかく冥土の旅の一里塚をひとつづつ超えている。

楳図かずお「わたしは真悟」を20数年ぶりに読んだ。
楳図かずおは才能あるし好きなのだが、長編を書くほどの体力がない人だったことを思い出した。真悟も前半は素晴らしいが後半は失速する。プロットは良いのだけど、たぶん構想が広がりすぎて画を描きこみすぎて、そこに時間が費やされてしまって余裕がなくなってしまうのだろう。
エルサレムのシーンが東京タワーほどの緊張感をもって読むことができたら、と思わずにはいられない。
いや、とはいえ楳図は素晴らしいのだ。がしかし、カズオ・イシグロを読んだりしてしまうと、イシグロのは完ぺきに近いので、読み物とはすべからくかくあってほしいと思うわけである。

テレビをつけたら、大変に若い石橋蓮司らしき俳優が時代劇に出ていて驚いた。鬼平犯科帳(1971年製作)だった。
実際に石橋蓮司だったわけなのだが、これはとんでもなく面白かった。
良いモンと悪モンに分かれての太刀まわり、ここで負けるということは死ぬということなのだという、そこには良いモンと悪モンの差はないリアルを説得する力があった。演技もうまいのだが、演技とはいえない俳優や作り手自身のひととなりが、もう今とは格段にちがう。
蜷川幸雄が演出家としてできたころの演劇のちからが垣間見えたようだった。

弥生美術館で谷崎文学に出てくる衣装の再現をする企画展があった。
要はむかし着物の展示なのだが、存外にお客さんが多かった。こういう、いわゆる「おきもの」ではない自由な、でもちょっとオシャレな生活の中にある着物に関心がある人が多いということだろう。
でもこれはかぶいた着物の世界なのだから、これをまねて現代の日常に着ると「それはちょっと」の人になってしまうことに注意してほしいことであることよ。

手品を習いに行った。
これは面白かった。
心理学というか。

そう遠くもない親戚に、生まれて初めて会う。
これは人生で記念すべき出会いだった。

その前の週に、友達と明治神宮に行ったのは書いたっけ?
これもスゴイ経験だった。
その時に撮った写真をもらったのだけど、私の宝物になった。

書き出すときりがない。
たまにはブログを書かなくてはと思う。

ではまた。

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京都・大阪

京都のホテル2泊目。
京都で親戚と話し込み、翌日は大阪でセミナーを聴講し、そのあと懇親会2時間ほど。
こちらに来ると知人は勿論だけど、全く未知の人との一期一会の会話も多く、とても楽しい。
楽しい人生を送るためには楽しい日常が必要だと思う。

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あさはか

ダニー・ボイルの「Sallow Grave」を観た。
胸くそ悪くなる映画、であった。

冒頭のスタイリッシュな画面に引き続き、ジャーナリストと医者と会計士がフラットをシェアしてて、4人目の住人を選ぶべく面接をしている。
3人の利己的で拝金的な態度が展開し、そんな彼らと価値観をいつにする、自称小説を書いている男が同居人に選ばれる。
しかし、その4人目の同居人は引っ越してくるなりドラッグの過剰摂取で死亡。ベットの下に残されたトランクいっぱいの札束が3人の生活を変えてゆく・・・、というおはなし。

スタイリッシュなカメラワーク、印象的な色使い。オシャレな画面は唾棄すべき3人の生活を映す。
札束を手に入れた3人はやがてお互いが信じられなくなり、心理戦はついにはリアルな殺し合いに至る。その最後に笑った彼が、その後、幸せな生活を送ったと考えるのであれば、それはもうその観客は狂気に足を踏み入れているということだ。

狂気の3人はサッチャリズムの勝ち組の象徴で、途中、小さく労働者階級に仕返しされたりもする。
しかし彼らは悔い改めることはない。
とてもとても邪悪な映画。
こんな恐ろしい映画はあまりない、ただ匹敵する現代日本の現状があるだけだ。

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「エリック・ホッファー自伝」作品社

何冊かホッファーを読んだ中で最も面白かった、私には。

本書のオビに、「かくも波乱に満ちた生涯があろうか」と書いてあった。
突然の失明とやはり突然のそこからの回復、季節労働とか港湾労働とかから一躍時代の寵児的な学者、等々というところをもって波乱というのかもしれない。
しかし、この人生の振り幅は格別とはいえまい。たとえば戦争が起きれば多くの人がこの程度の振り幅を余儀なくされる。
彼の格別さは、ずっと自由にパワフルに考え続け書き続けてきたことだ。
港湾労働者らがいかに博識で問題解決能力があるかについて書いている箇所がある。彼は世界のすでにある価値観に捕らわれることなく、自身の判断でそう記していることが分かる。こういう自由さは得難く素晴らしい。

youtubeでインタビューが見れたりして、彼の本からは同時代的な身近さが感じられる。
けれど、彼が自殺未遂後に季節労働者として生活していた1930年代はダストボウル時代でまさに「怒りの葡萄」の生活をしていたのだろう。
あの中で、あえて労働者であり続けた彼の判断を私は理解することができない。
彼は何をもとめて、用意された研究の道ではなく農作業をすることを選んだのだろうか。

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ホロコースト サバイバー

イスラエルではホロコーストサバイバーが高齢化し、貧しく孤独に生活していて自殺者も多い、という記事を読んだ。
若い世代には、アウシュビッツとかもういい、聞きたくない、という風潮があるらしい。

最近、ブログが書けないのは、いまの私にとっての関心が文字では表すことができないことばかりだからだ。
人と会って、本を読んで、それらはイベントではなく、私に侵食しているものであって、くくりだして名詞や形容詞や動詞で表すことはできない。
〇〇の「△△△」という本を読んだ・・・読んだ??読んだこと自体は何の意味もない。そこに起こる化学変化に意味があるのだけれど、私は体験者であり観測者でありしかも唯一のサンプルであり、他者に伝達するべき情報を提供できないのだ。

レヴィナスが書いている死についての文章は本当に恐ろしい。これを正面から受け止めることは、現代日本人にはたぶんできないほどだ。
ただ、自分のキャパシティの向こうに死があるのだと確信することは、なぜか大いなる平安を感じさせてくれる。
恐ろしさと平安さ。

人、のみならずたぶんすべからく命は、合理化を施しながら生きている(高い位置にあるブドウは常に酸っぱい)。
合理化は文化だったり宗教だったり大義名分だったりと称されるけど、要は複雑な思考を中止させ今ある目の前の現実を受け入れ自己肯定化させるデバイス。見る前に跳べ、生きろ、と叫ぶ(ただ、原初のキリスト教には自殺禁止は見つからないのだけど)。
しかし、マクロな視点で判断できたとき、合理化には「エラー」が見つかることがある。
このエラーをどう受け止めるか。
多くはそもそも認識しない(このことを最大の問題と考えるのが、哲学なのかな、と思う)。
そう、人とは神でなく、卑しい存在なのだ。

・・・などという抽象的な話はこの私の生にはあまり役立たない。
ちょっとした平安を傍らに置けるとしても、目の前の命にどのように対処するかはまた別の問題だ。
合理化によって楽をしたいと思わず、しかし、恐怖のみに捕らわれるのも避けたく、逡巡しながら安逸な都市生活を送る私。

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