こんにちは、自分。

ヴィヴィアン・ウエストウッドの自伝が非常に面白い。
箱のように巨大な本なのだが、どんどんページをめくってしまう。
Tシャツを破いて安全ピンでとめるというファッションは、彼女もしくは彼女の周りで始まったことらしい。あれはあっという間に日本にも来ていて、妙な衝撃的さがあった。
犬のような生活。
追記:
最近、ブログがうまく作成できないのです。ソフトが不調?

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読んだ本

木原善彦「実験する小説たち」彩流社
:「物語るとは別の仕方で」表現する17の小説が詳しく、加えて数十が概要、紹介されている。とっつきにくい実験小説を読んでみる気にさせてくれる非常に良い本。
著者が翻訳しているハリ・クンズル「民のいない神」は私のお気に入りの小説で、これも概要が紹介されている(「クラウド・アトラス」と同様のサンドイッチ構造の小説として)。もうちょっと詳しく、翻訳者がこの小説をどう感じたかの手掛かりになるようなものを読みたかったのだけれど、自分が表現過程に関わっているがゆえにあえて触れないのかもしれない。
なお、「クラウド・アトラス」はストーリーがつまびらかにされていて、あの上下2巻を読まずとも読んだ気になることもできるほど。でも読書としての面白さを体感するには読まないとだめだけどね。
この木原の本を読んで、個人たる人が物語を創作することで何かを表現しようとか他人に伝えようとかするのには、もう私はあんまり興味がないのだなと思った。

ノーマン・ドイジ「脳はいかに治癒をもたらすか」紀伊國屋書店
:同じ著者の「脳は奇跡を起こす」講談社インターナショナルの直近情報版。2冊とも、脳の可塑性について様々な症例を上げて実証しようとしている。
もちろん可塑性の根拠となる成功した症例しか紹介されていないので、例えば脳卒中による身体不随が訓練によって確実に回復できるものかは読者には評価できない。ただ、従来、脳の機能は局所的に既定されていると理解されていたものが、必ずしもそうではなくて、かなりの高齢になっても(65歳のペドロ・バキリタの症例等)脳というものは必要な機能を新たに担う準備をしているのだな、とは了解できた。
これは私にとっては非常に興味深い情報で、脳が変わるとは人が変わることだといえるだろうから、つまり、高齢になっても人は良くも悪くも変わるのだということだ。また、使わない部分は脳の機能も失われてそれが固定化するので、変わり続けることで可変的な柔軟性を保つのが必要なのではないか。変わるということに脳が慣れている状態にしておくべき、ということを考えたりする。
この辺の本はよく読むのだけれど、ジュリア・ショウ「脳はなぜ都合よく記憶するのか」講談社は珍しく読むのが無駄と思った本だった。単なる読み物。

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ジョルジュ・ディディ=ユベルマン「イメージ、それでもなお」平凡社

今年に入って目を通したもしくは眺めた本は、数字的には200冊を超えている。
そのなかで最も読み返したいのは標記である。
先に標記書籍を読んで、私は自分がフランスの戦後というものを全く知らないことを知った。その後、細々と背景情報を構築しつつある。
たとえば、映画「ショア」を見た。もう一度、本書中のショアと映画「ショア」についての記載を読んだときには、きっと何かが有機的に合成されるだろう。
いま私のテーマは「イメージ」だ。
イメージとはなにか。
言葉にできないこと、具象化できないこと、それを取り出して指し示すことができないこと。
ベーコンの画が、ある種の共感を持ちうるとするなら、それはイメージの力だ。
言葉の存在が再構築されている。
1944年9月4日にレジスタンスに渡った写真フィルムとメモ。
メモの最後。「われわれの考えでは拡大した写真はもっと遠くにまで届くはずだ。」

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John Okada 「NO-NO BOY」旬報社

昨年末に川井龍介の新しい訳で出版された版。
第二次世界大戦直後のシアトル。自分の日本人としてのアイデンティティに基づいて徴兵を拒否した日系2世イチロー・ヤマダの物語。
 
「この小説が、日系アメリカ人の文学作品であるという前提は、極端に言えばなんら本質とは関係がない。」と
あとがきで川井が書いているのは正しい。
本作は、特定の時代や国民性を超えた普遍性を獲得している。
誰かが誰かを嫌悪し差別し社会が階層化されること、の悲しさ。
 
1957年、東京のタトル書房がこれを発行した時はほとんど評価されなかった。
直近の英語版の前書きを書いているRuth Ozaki によれば本作は bad English で文学ではないと評されたそうだ。人々は戦争のことを自己の体験としてはっきり記憶していて、他人の体験に共感できる余地のない時代だった。
しかし、時代は変わった。
時代は変わって、明らかに次のサイクルに入っている。新しい、でも、同じことの繰り返しの。
これは読んでおくべき本。
 
 

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クロード・ランズマン「ショアー」作品社

初版1995年。
「ショアー」という1985年のフランス映画を文字に起こした書籍の日本語版。

映画は日本公開されていて、現在はDVD等を購入することもできる。
ただ私は、予告編(動画バージョン。日本語の公式サイトでは静止画バージョンだった。)の映像の力に身がすくんでしまって、本編動画9時間半を見続けることはできないと思った。
どうしようかと考えていたら、この書籍を見つけることができた。
 
500ページ近い厚い本だけれど、インタビューが詩のような形式の改行で記載されているから余白が広く、文字数的にはそれほどは多くない。1日で読むことは可能。
ナチスのホロコーストでどのようにユダヤ人が処遇されたのか、生き残ったユダヤ人、それに関わったドイツ人ら、収容所の近くで生活していたポーランド人などなどが証言している。インタビューはそれぞれのインタビューイーの言語、英語・ドイツ語・ポーランド語・イーディッシュ・ヘブライ語で語られている旨の注記がある。
 
各々のインタビューイーが自身の体験を語り、それをつなげることで観る者が客観的な状況を理解することができる構成になっている。
語られる過去の記憶は、必ずしも正確で真実とは限らないけれど、訳者高橋武智の解説(下記)は同意できる。
「各証言者が心のひだの奥深くに刻みこみ、事あるごとに反芻していた記憶は、少なくとも当人にとっては、文字通り肉体化したかけがえのない事実である。100%同一でなく、むしろ大筋において一致する複数の証言が共存することこそ、それぞれの記憶と証言された事実の真正性を証し立てるものではなかろうか。」本書462ページ
 
<メモ>
ルドルフ・ヴルバ:英語版ウィキ ルドルフ・ヴルバ
ヤン・カルスキ:関連日本語最新書籍「ユダヤ人大虐殺の証人ヤン・カルスキ
チェルニアコフ:日本語版ウィキ アダム・チェルニャクフ
 
下記は2015年3月の動画で、英語だけで関係情報を得ることができる。
ランズマンの紹介に続いてランズマン自身による説明、そして、長い沈黙を破ってショアーで語ったヤン・カルスキについての英語字幕と未公開部分映像。
 
 
私が知りたのは「今」というときであって、それが過去から連続してるという点においてすべての過去を知りたいという気持ちはあるけれど、それが不可能なのだとすればもっと情報に近い別の人に精査を任せたい。
ただ、知らなかったという責任放棄の場所に自分の身を置くことはしたくない。

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スコセッシ「沈黙」

日比谷のスカラ座で。
良い音響と大きなスクリーンは心地よかったし、土曜日午前11時の回はとても空いていた。

予想を大きく上回る素晴らしい映画だった。
たまたま日本が舞台の映画だけど、それはあまり関係ない。
ほとんど最下層の人々を、こんなに美しく愛おしく映画にすることができることに感動した。
これはキリスト教とは直接関係がない部分だろう、どれだけ人を愛してきたか愛そうとしてきたか、それが画面に表れているだけだろう。

ふしぎな160分間だった。
常に静かな緊張感があった。
観客たる私は第三者的なカメラの視線で映画を見る。
カメラの位置は、いくつかの場面で神の視点を意識させはしたけれど、新規な印象はない。そして当然に悲壮な場面が多い。
しかし、俳優の演技を超えた優しさと慈しみが画面にたたえられていて、予想していたような残虐さは皆無だった。
原作を知っていると、あまりの落ち着きはらった描かれ方に一瞬軽く肩透かしを覚えるほどで、しかしその壮絶なはずの場面は、丁寧に描かれることで悲しみの感情だけが深く突き刺さってくるものに昇華していた。
こんなことができるなんて、私は少しも知らなかった。

俳優は、2人ほどを除いて特筆すべきを感じなかった。
それは必ずしも悪いことではない。
この映画では俳優はうまく演じることが求められてはいないのではないだろうか。
特定の人物や出来事ではなく、普遍的な人たるものの存在を描くためには、俳優が俳優として存在してはいけない。
この映画は、あえて言うなら、登場人物としては出てこないイエスを描いた映画なのだ。
出てくるのは、稚拙な宗教画、踏み絵のすり減った磔刑図、言葉も真にイエスのものなのか定かではない、しかし、これほどにイエスの存在を近くに感じられる映画。
私はイエスを思って泣いた。

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ブループラーク

ロンドンのフランシス・ベーコンのアトリエあとにブループラークが付けられるとのこと。
だから、扉にペンキを塗っていたの?

大雑把には、私にとってのフランシス・ベーコンがなんであるのか、ケリがつけられたのであった。
ガラスのゆがみに気づき、ガラスが先にあったこと、でもこれがオリジナルであること、彼の目指したもの、画風の変化、ベラスケスとゴッホとピカソに彼が見たもの、不在の存在、悪魔的な題材、同性愛、マゾヒズム。なぜイギリス的なるものが彼を受容したのか。
彼を触媒にして世界を考えているときに感じたあの瞬間は、きっと彼と同じ瞬間だったのではないかと、なかば確信している。
さてと。

「リスボンへの夜行列車」は結局日本語版を読み始めてしまった。
作者パスカル・メルシエの思考に同調はできない。そもそも、話の核になっている人物アマデウが天才的な神的部分を持ち合わせていると設定されているのが、私の趣味にはあわない。ただ、本作のストーリーと直接関係しない部分の「描き方」が、わたしには興味深い。
たとえば110ページ、
「自分という人間を確かめる最良の道が、他者と知り合い、他者を理解することだというのは、あり得るだろうか?」
と主人公は自問している。57歳の十分哲学的な思考を経験してきた主人公が。
こんな、当然のことを自問していることが理解できなかった。が、当然と思うことを顕在的に登場人物に経験させることが必要なのだ、それが小説というものなのだ、そう考えることはできた。
なるほど、と。

これは、この本が特別なのではなくて、私のほうが変わったから、そういう読み方ができるようになったのだと思う。
いままでずっと、私にとって世界は探し物をする対象だった。何を探しているのかが把握されないまま、探さなければいけないという強迫観念にも似た内なるものに私は支配されていた。
本を読むときも、楽しむことや対話より、むしろずっと飢餓・渇望の感覚が強かった。強すぎる渇望は、かえって吸収・理解を妨げるし、結果、飢餓感はさらに強くなってゆく。
探し物をやめたとか、ぐるっと回って帰ってきたとか、そういうおとぎ話的結末ではなく、ごく自然に私という認識主体が時間の経過により変化したに過ぎない。
時間。主観的な認識であるところの時間。

若い時のベーコンは魅力的だったと、改めて思う。

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東京芸術大学卒業・終了作品展

東京芸術大学卒業・終了作品展に行った。 
強烈に面白く、一日中上野で楽しく過ごしてしまった。
特に気に入ったのは、
久保万理子(漆という素材だからできる観念的な奥行き感が斬新に表現されていた)、
仲間一晃(身近な人々の存在を立体にくりぬいた面白さ)、
赤池龍星(画もいいし、スケッチを手に取らせる見せ方も、素朴なようで新鮮だった)、
三上晏子(ほかに類のないふしぎなリアルさ)、
中垣拓磨(小さな立体、ここに住みたいと思わせる魅力があった)、
佐々木敬介(既視感はある、でも新しくて心地よい)、
齊藤可那子(一番気に入ったかもしれない 笑)、
等。
 
作家が会場にいるのも良い。好むと好まざると彼・彼女の代表作となる彼・彼女自身の顔を見ながら制作を見るのは、やや悪趣味かもしれないけれど楽しい。
 
来場しているのは高校生や学生が多かった。
「(自分の表現方法を模索して)これだと思ってしばらくすると、10年前にかならず誰かがやっているんだよね。」と会話しながら歩いていた学生がいた。
なるほど、独自性を模索するとそれは獲得されず、類似性を探し求めると独自性に行き着くのか。当たり前のことが再度当たり前として認識しなおされる今日この頃。

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ロンドン、リスボン

PetShopBoysのLondonは私の中に深くしみこんでいた。
そして、ベーコンの画を受け入れるイギリス(=かつてチューリングが自殺した国)を垣間見たかった。
ロンドンに高くそびえるバベルの塔は、短い滞在でも体感できた。
語学学校によると、ロンドンでは300種にも分類される言語が話されている。
そして、シティと呼ばれる地域にいる人と、地下鉄でほんの少し外れた場所で出会う人では、身長や体形、歩き方や使う言語が異なった。

でも、そんなロンドンの空気は私にとって呼吸がしやすかった。
修辞的にではなく、空気は軽やかで、水道水は口当たりなめらかだった。
ロンドンの空気は基本構造がシンプルだと心身で感じていた。
 
ここでは、バベルの塔があるという事実が、まずはシンプルに認識されている。
そして、さらに重要なのは、そこで止まらずに話が展開することだ。
私は私、あなたはあなた。あなたと私は違う、そういう厳然たる認識があって、違うから憎むなのか違うから愛すなのか、それは大問題だけど、とにかくあなたと私は別の人格だというところから話が、始まる。
これはつまり、根本にフィクションがないという「誠実さ」を使って社会を見ているということで、それは「神」から来る誠実さだろう。万能の神からみれば、人は誰もが原罪を負う不完全な存在で、人は神のわざを誠実に受け止めるしかあるまいてという心情は、神が今いようがいるまいが思考背景にあると思う。
法と神の前での平等というのは、つまり、いつも我々は神や法の前にいるわけではなく、ユージアルな場面で人は不平等だという生の強烈な事実を受け止めることが前提なのだ。そういう事実を受け止めることのできるタフな精神がなければ主体としての個人になれない。
 
そう、ロンドンではなんとなく引っかかっていたことにケリをつけることができた。

人生は舞台ということば。
修辞的なオシャレな表現だと思い込んでいたけれど、地下鉄や街角で隣り合う市井の人々、ここは劇場ですかと思うような発声の良さ(笑)、表現力の豊かさ、強烈な個性を感じさせた。日本では芝居はかなり芝居がかって見えるけど、なのでロンドンの演劇は逆に日常っぽく感じた。
そして、空の色。
イギリスの多くの風景画の空は美しい。ガーリーなピンクに似合うスゥイートなブルーをしている。こんなチャーミングな空が描けるなんて、イギリスの画家は素敵な人格の持ち主なのだと思っていた。でも違った。雨上がり(これはしばしば遭遇する事態)、風景の奥のほうに見える空は画のとおりのスゥイートなブルーだった。本物の空自体がチャーミングだったのだ。なんだ見たまま描いただけかよと、この美しさを描きたくなる気持ちはわかるものの、すこしがっかりした。
 
加えて、ロンドンは論理と別の次元での共感も求める街だった。
たとえば、人がバイオレンスを愛する部分があるのは、破壊への連関とそこに感じられる嘘のなさと共感の容易さからだ。外部からの刺激が自己の感覚器官に痛みをもたらすことを人は知っているし、ほかの人も同様に知っていることを知っている。痛みは、実際に神経細胞で感じなくても、映画で視覚的に見せられるだけで、作り手と鑑賞者および鑑賞者同士で共感できる。論理思考は大切、でもそれは過度に信用してはいけないとドイツ人の多くの論文からも痛感させられる(最も説得的なのはミヒャエル・クンツェ「火刑台への道」)。
ベーコンの画を受容したいと願ってそれを成功させたイギリスには、そういう論理・神・法・慣習などなどオーサライズされた手法を過度には信用するまいとする個人主義を感じる。
 
結局。
私はリスボンではなくロンドンに行ったわけだが、ロンドンでも人が不平等で個々別々だということがデフォルトで、そこから対話が始まっているのが美しかったです、
ということでした(この美しさというのは、人は個々別々でもそれは孤独とは違うと感じさせるという意味です)。

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「リスボンに誘われて」

先に私はこの映画のタイトルがナンセンスだと書いた
それは、タイトルの主語は主人公だと認識していたからだった。「スイス人高校教師の私は、偶然の出来事からリスボンに誘われて、云々・・・」というような。
しかし、よくよく考えてみるとこのタイトルは秀逸なのかもしれないとも感じている。
原作とは明らかにテイストが異なるこの映画を、原作とは異なるタイトルにするのは正しいのではないかと。

気になる場面があったので、入手できる日本語版と英語版の原作小説でその個所を確かめてみた。
本作はドイツ語が原作なのだが、ドイツ語版はにわかには入手できなかったし、ドイツ語は読めないので、諦めた(悲しい)。
日本語版も英語版も、ドイツ語の原作を翻訳している。

映画では、主人公は訪れた眼科医で問題の本について熱っぽく語るのだが、眼科医は(なんと)自分の伯父が本の著者を知っていると言って主人公を案内する。フェリーに乗り、その伯父と初めて会ったのは老人ホームのパブリックスペースだった。
2人はソファーに座り、お茶を前に話し始める。
ポケットから出された老人の手は、独裁政権による拷問のためにパーキンソン病者のように震えて、なみなみと注がれたカップを取り上げることができない。
「カップに半分で良かったのに」。
テーブルの反対側に座る主人公は、わずかな躊躇をみせるも、思い切ったように老人のカップに手を伸ばし、一気に半分ほどを飲み込み、素早くカチャリとソーサーに戻した。
老人は瞬時目を見開き、「こんな風にされたのは初めてだ」とお茶を味わい、そして過去の誰にも話してこなかったであろう話を始める。

私はこの場面で激しく心が動かされた。魂が溶けるような共感でもって、私のなかの孤独の概念が根源から変化したのを感じた。
このゆさぶりと変化の理由は言葉で説明できるけれど、しかし必ずしも他人と共有できる感覚ではないだろう。

脱線するけれど書いておくと、まれ人がきっかけとなって特定の場所の文化や慣習を破壊する類のストーリ(日本の演劇では「叔父の力」とも呼ばれるジャンルがあるように)があるけれど、そういうお芝居なり小説が苦手だ。
本書の日本語原作では上記の登場人物は伯父と表記されていて(丁寧に父の兄とも書かれているが、英語版では単に father's brotherなのでここはドイツ語版をいつか確かめたい)、その辺も面白い。

さてこのような、個人的に狂おしい感覚を得た場面は、文字媒体でどのように記載されているのか、そもそもこのお茶ごっくんのエピソードは存在するのだろうか。

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