プリーモ・レーヴィ

レーヴィの「溺れるものと救われるもの」は、やはり読まざるを得なかったのだった。
本書はここ数年、読めない、本だった。
何が書いたあるだろうかは解る、しかし、レーヴィの絶望の影が必ず落とされているであろう本書を私は読むことができなかった(1986本書発行、1987レーヴィ没)。
私はまだ楽しく日々を生きていたかったから。

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最近出た「反共感論」という本を読んでいたら、そこに気持ちを動かされる一文があって、引用文献一覧を見たらレーヴィの本書が記載されていた。
この反共感論も、趣旨としては興味深く、共感という言葉がマジックワードとして珍重されている現状を否定しているのは理解できたけれど、しかし、もう一つ奥の段階の考察がなされるべきだろうに、そこまではなかった。
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とにかくレーヴィを読まなければと、とはいえ購入することはまだできなくて、図書館に行った。
すでに手に取ったことのある本の表紙を初めてめくった。
レーヴィが体験したこと、しかし記憶に基づくことのおぼつかなさ、ハンス・マイヤーの死の意味。
生物という根源的部分での、とうてい一人個人では抱えられない、これは絶望と言ってよいものだろうか。
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山種美術館で桜の企画展をやっていた。
吉野や京都や東京の桜、場所ごとに分けられた日本画が美しい。
でも、私にはもう無理なのだった。
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そのレーヴィの本を読んでいたら、最後のあたりの一文にシャープペンシルで震えるようなラインが付されていた。
公共の財にわたくしの痕跡を記すのはまったく許容できないことなのだけれど、この細いラインには救われた感覚があった。
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ヘッダ・ガブラー

イプセンの作(英語)をシス・カンパニーが寺島しのぶのヘッダで。初日。
定評のある役者と演出家のオーソドックスな舞台。じっくり味わう楽しさ。
ただ、演出の意図はつかみかねた。
なぜヘッダは死んだのか。
彼女の死が直前のブラック判事の脅迫による突発的なもののように見えてしまって、それまでの、ヘッダのキャラクタの描写と有機的に結びつかない。
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若くて美しい女性の魅力というのは、彼女がまるで永遠に変わらないような硬質さを呈していることにある。
彼女の自分に訪れる変化を認識しない強さは愚かさゆえでもあり、その愚かな彼女が真実を受容する過程が普遍性を伴うならば、それは演劇的で描くに足りるテーマとなる。
しかし、舞台の上で起きる構造転換が、たんなる不安定な精神の発露で必然性を欠くものならば、それは彼女だけの問題で観客は理解することができない。
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本作では段田安則演じる判事が主役だった。
最後のセリフ God, people don't do such things. が判事のものでシナリオ上も判事を主役に持ってくることは可能であるし、それと、くわえて幕間に私のうしろの観客が「この芝居は段田さんが7役演じ分けてできるわね」とこっそりおしゃべりしてたのも頷けることだった。観客は段田演じるブラック判事を理解することができた。
判事はヘッダの死で跳躍していた。彼は彼のゲージから脱出した。
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というのが初日の感覚だったけれど、芝居は生き物なので回数を経ることで変化してゆくわけで、主役が変化する予感もある。
シンプルにヘッダが主役となるバージョンを夢想してみるのは楽しい。
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70歳近いイプセンは神を信じていたのだと感じる。

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アラン・アルダ 全米最高視聴率男の「最強の伝え方」 青土社, 2018

「個」の時代ということなら、本書は役立ちそう。

週刊東洋経済 2018年3月10日号の書評欄でタイトルを見て、日経とかビジネス系出版社の本かと思ったら青土社だった。
著者アルダは83歳になった俳優で、アメリカのテレビドラマM*A*S*Hに11年間出演し続けた人。
全米最高視聴率男、というのはそのM*A*S*Hが11シーズン続いた最終回での77%という視聴率が、いまもなお破られていない歴代最高ということからついたらしい。
けど、ちょっと見当違いかな(この見当違いがビジネス書っぽい所以)。

本書ではM*A*S*Hはほとんど関係なくて、PBSの「サイエンティフィック・アメリカン・フロンティア」という番組でアルダが司会をしてゆく中で、科学者たちの偉業と、それに比べるとあまりに彼らの情報伝達能力が低いことを知り、これは一肌脱がねばということで、科学的視点を入れて伝達力・コミュニケーション力の重要性とそれを獲得する方法を探ってゆくというもの。

本書中、私が一番興味をひかれたのは、「ストーリー」がいかに共感や説得の際に有効かという部分。
アルダはストーリーにおける「目的」と「障害」が共感を引き起こす力だという。
その説明として講演の時に、聴衆の一人に空のコップを持たせ舞台を上手から下手に横切らせる。コップを持たされた人は恥ずかしそうにニヤニヤしてしまう。
こんどは、下手から上手に進む。
その際、コップに水を満たして「慎重に運んでください。1滴でもこぼしたら村人全員が死んでしまうことになります。」と声を掛ける。
観客のだれもが、そんな村など存在せず誰も死んだリハしないことを知っている。しかしこの設定は、観客の注意をコップに引き付けるに十分なほど強力だ。コップの側面を1滴でも水がこぼれ落ちれば、観客の溜息が聞こえてくるだろう。」
たしかにそうだろう。
物語は私たちを引き付けて、時を超えて伝達させる力がある。
それはアルダによれば目的と障害という要素が共感を呼ぶからで、さらに言えば、障害があってもそれを克服する意欲があれば共感を呼び、共感は協力の基礎となり、障害を乗り越える契機となりうる・・・ということではないだろうか。
面白い。

また、アルダはコミュニケーティング・サイエンスという活動もしていて、そこで2012年から始まったフレームチャレンジも本書で取り上げている。
「炎」って何?という素朴な子供の疑問に応えるための企画からはじまったコンテストで、初年度優勝作品はフレームチャレンジのサイトで確認できる。
原子をレゴブロックで見せて、化学反応のタームを歌にしてしまう、こんなプレゼンをする人だったら一緒に仕事をしたいとも思わせる。

アルダが本書中で引用していたハース兄弟「アイデアのちから」は、さらに分析的に説得や共感の要因を述べている。
こちらもお薦め。

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イーストウッド「15時17分パリ行き」

お買い物をしていて時間があったので鑑賞。
一緒に行った配偶者は、途中2度ほど寝落ち。
でも、私は面白かった。
この映画は、たぶんメインのタリス事件は周知という前提で、そこではなくて若いアメリカ人男性たちの普通の日常とその現象面での飛躍との連続性を描いている。

とはいえ、映画では、AK47の銃口を向けられたスペンサー君が、最初の一発が発射されなかったから犯人を取り押さえることができたシーン、あそこがたぶんハイライト。
でもあれは、どういうことなのか、スペンサー君は軍隊の訓練等で弾が出ないことを知っていたの??
2年前の事件のときに一躍時の人になった彼ら3人は、今回の映画化でも再度マスコミに呼ばれて、トークショウ等で話していたのだけど、どこかの番組でスペンサー君が「a bad primer だったからラッキーだったよ」と言っていた。
え~、そうなのか、たまたま不発だったっていうことなの?それともカラシニコフはそういうプライマーが最初はいっているものなの?
とにかくラッキーだったわけだ。
スペンサー君は I kind of took a leap of faith at him. とも言っていて(テロリストに飛び掛かってみた、の意味で)、これは彼らがキリスト教徒だからなのか、それとも若い人でもごく一般的に言う言葉なのか、私にはわからない。
とにかく、この映画と事件と彼らのメディア露出、過去と現在と虚構と現実とが混然一体となって興味深い現象を見せてくれている。
世界は舞台、我々は皆役者、ということを、シェイクスピアとは逆の方向性から、観客の方向から現している感じがする。
ザ・シェイプ・オブ・ウオーターの感じ。こういうのなんて言うんだろう、パラダイムシフト???

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個の時代

ザ・シェイプ・オブ・ウォーターのアカデミー賞、ケンブリッジ・アナリティカの手法の暴露、トランプ文書のリーク。
今年は一つの分岐点で、時代は個に回帰するような気がする。

※ ※ ※

ザ・シェイプ・オブ・ウォーターの主題、それは「個」なのだと思った。
ホイト将軍のセリフ、部下のストリックランドに任務遂行を促すシーン。

 Our universe will have a hole in it with your outline.
 And you will have gone on to an alternate universe.
 A universe of shit.
 You will be lost to civilization.
 You will be unborn. Unmade. Undone.

 この世界にはお前という人型のぶんの穴ぼこができる。
 お前は別の世界、クソな世界にまで行って、
 英知のない、生まれず、創造されず、なされなかったものになる。

画面を見ながらワケわかんね、と思ってた。
要は、仕事しないと地獄に落ちるぞ、という意味なんだろうなあと。
映画の本編中にはshapeという単語は出てこない。
でも、この将軍の言う outlineという単語はshapeと同じだよね。
不定形な世界とか水とかの中で、わたしたち有機体は輪郭を持っていて、その分、世界や水はアナボコ状の形を保つことになる。
ザ・シェイプ・オブ・ウォーター=あなたの姿。
くわえて、最後の詩みたいの(12世紀のペルシャ詩人サナーイーの作を監督がアレンジしたらしい)。
これがこの映画の源泉なのかな。

 “Unable to perceive the shape of You, I find You all around me.
  Your presence fills my eyes with Your love, It humbles my heart, For You are  everywhere.”

 あなたの姿が見つからなくても、いつもそばにいるのがわかる。
 あなたは愛でわたしをみたしてくれる、
 あまねくあなたはいてくれる、だからわたしの心は穏やかに。

※ ※ ※

内部告発者によれば、ケンブリッジ・アナリティカはフェイスブックで複雑に絡む人間関係から大量のユーザの個性を判別して、それに合わせた情報を個々人に送り込む手法をだった。交差点で大声で話すのではなく、ひとりひとりにささやく手法。
イギリスのメディアによれば、情報の取得も個々のターゲットに合わせてカネ・女の子・弱みを握るという方法で、CAの形跡が残らないようになされたらしい。
個から仕入れた情報で個を類型化して個ごとの情報を送る。
広告としては、技術的にマスではなく個々に焦点を絞ることができるようになり、それが世界を動かす、そういう時代。

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ザ シェイプ オブ ウォーター

R15+。ぼかしが1か所、それのないアメリカ公開版はR18+レベルらしい。よくわからない基準だ。

だがとにかく、これは結構大人の映画だ。
恋愛映画と思って軽い気持ちで見に行くと、思いがけずバッサリやられる。
オープニング。主人公の女性の夢の中なのだろうか、漂う家具、漂う彼女。
もうそこからどっぷりと物語の淵に落ちいる。
物語の世界に浸って、するすると滑るように目の当たりにする彼女の日常。
距離感を保ちつつ、つまり個人としての節度を保ちつつ、観客は彼女の内面を深く知る。
科学研究所の清掃の仕事をしているイライザは、アマゾンから連れてこられた半魚人と恋に落ち、命がけで彼を助ける。
イライザの深く強靭な内面。半魚人の存在、彼らの恋・・・これらが驚くべき説得力をもって描かれてゆく。
一つ一つのセリフが詩のようであり、かつ、力強い。
各々の登場人物がその瞬間まで生きてきた、その生命力が言葉になって具現化している。
そうかな、とは思ったけれど、ゲーリー・ウエストファルによれば、出てくる名言の類は監督の自作らしい。レーニンが「死んだ魚は価値がない」とか言ったというセリフが出てくるけど、レーニンはそんなこと言ってないらしい。いろいろいろいろ、権利関係やらそういう点もあるのだろうけど、もう徹底的に物語を語ってやる、という映画になっている。
物語は1962年が舞台。この時代背景が分からないと理解できない部分があるだろう。
最後の古き良きアメリカ。半魚人映画が流行って、たぶんそれは原爆とかの恐怖が影響していて、人種差別があって、キューバ危機があって。
国家や社会やらのフィクションに頼って生きている登場人物達は、おのおの複雑で悲劇的な最後になる。
ここから何を導くことができるのか、そういうことはさておきの、生きること、物語ることの力を感じさせる映画。

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The bank job

1971年9月、ロンドン・ベーカー街の銀行から800万ポンド相当が盗まれた事件を描いた映画。

日本の3億円事件(1968年12月)と殺傷のない点でも似ていて、犯人側に感情移入できる事件なのだが、では、この映画に描かれているのがどこまでが事実なのか、はたまたほとんど都市伝説なのかがよくわからない。
銀行の隣の隣の店舗から、地下にトンネルを掘って貸金庫の現金等を奪った犯人は、映画では超法規的に海外に逃げおおせる、という痛快な結末になっているけれど、事実としては主犯格5人のうち1人は捕まって250万ポンドは取り戻されたらしい(補助的役割の2人も捕まっている)。
オハナシとして魅力的なのは、貸金庫には政治家や王室の秘密の写真が隠されていて、それらをめぐる政府から犯人へのコンタクトがあったという部分だけれど、これが100%都市伝説とも言い切れないらしい。
この映画の脚本家は秘密のニュースソースから情報を得ていてMI5が絡んでいると信じていると言っていて、それは宣伝のためなのか真実なのか私にはわからない。そしてさらに、本事件の主犯格の一人がその後、別の犯罪で捕まったのに存外に軽い刑で、何か裏があるのではないかというのがたしかに払拭できない。
とにかくこんな事実と空想を融合させたリアルに面白い映画はなかなかない。
テンポがとても良くて、70年代ファッションはかっこいいし、非常によくできた映画。
クレジットされていないけれど、ミック・ジャガーが出演していて、これもなかなか効果的で楽しい。

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木村凌二「多神教と一神教」岩波新書967

木村のローマの本は読んだことがあるが、これはタイトルに惹かれて読んで存外の収穫をもたらしてくれた。

ジェインズ(「神々の沈黙」)のバイカメラル・マインドを、木村はたぶん正しいと感じていて、そのうえでそのなぞ解きをしている(!)。
木村は、神々が我々の内から失われたのは、前1000年ごろの生活環境の過酷さが内なる神の声を聴く精神的余裕を奪い至高の唯一神への懇願へとシフトしたからではないか、そしてそれが成ったのは、同時期のアルファベット=書き言葉の発明が人々の精神構造に絶対的な変化をもたらしていたからではないか、と言う。
これは大変に興味深い説だと思う。
もちろん、詳細には検証できていなくて、あくまで仮説であるという前提で慎重に記載されているのだけれど、書き言葉の獲得による人間の精神構造の変容、これはたいへん説得力があるのではないだろうか。
我々の脳構造としては神の声をナチュラルに聴くことが可能であること、新たなリテラシの獲得によって精神活動が根本的な変容を受けること。
面白い。
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本書では、旧約の唯一神の源泉はエジプトの太陽神(アテンなりラーなり)の記憶ではないか、とも記している(99ページ)。
出エジプトの前の記憶。
面白い。

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BBC「The Grammar Gameshow」

BBCの英語レッスンのプログラムが面白い。
クイズ番組を舞台にした文法のレッスンで、基礎的だし特別に役立つプログラムとは思わなかったのだけど、司会役のお兄さんの嫌な人っぷりが魅力的で数回見ているうちに目が離せなくなってきている。
さすがイギリス、さすがシェイクスピアの国。

英語のレッスンとしても、文法の基礎の確認をして、わかっていても瞬発力がない(読解できても会話では使えない)というところを訓練できる構成になっている。
しかも、回を追うごといつの間にかの思わぬ展開は、演技の力だけで不思議な世界を作り上げていて、文法の瞬発力の必要性が危機的に感じられるようになっている。うーん絶妙w。
そして、たぶんイギリス固有の皮肉的表現が時々出てくるけど、これはあえてセリフにしているのだろう。意味が理解できなくても、ニュアンスは推し量れて、ふんふんと思う。
BBCの英語の番組はユーザーに媚びずに日々進化している。それは、わからないという状態自体を保持したままに次に進むという、「イギリス経験主義」っぽくて愉快なのよね。
にしても、いったいどんな展開となるのか、オチはつくのか。
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承前。
絶望が鍵だとする私の発想は、たぶんコルベ神父の存在に起因する。
ポーランド人の神父(カトリック)で、政治犯としてアウシュビッツに収容され餓死刑に処せられた人。
彼の逸話として重要なのは、彼がほかのポーランド人の身代わりとして自ら望んで餓死刑に処せられ、その際ほかの9名とともに地下牢餓死室を祈りの場と変えて静かに死んでいったことだ(同じ状況の多くは錯乱死なのだという)。
私は曽野綾子や遠藤周作の本でコルベの存在を知って、どこまで真実かは知らないけど、こういう人がいてもおかしくないし、そういう人の存在こそが「奇跡」というものなのだろうと考えていた。
(ただ、これらの逸話が本当ならば聖人になっているはずなのに福者であるのは、一部検証されていないからならなのかな、とも考えていたのだが、のちに、列聖されて命を助けられたガイオニチェクもヴァチカンに招かれたのを知る。)
絶望から始まるなにものか。
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数日前、西部邁が死んだというニュースを見た。
彼がなぜどういう経緯で死んだのかは全く知らない。
知る由もないので、可能性を考えて感慨に浸るだけだ。
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コルベについては、彼はある種の幻影を見ていたのだろう。幼い時からマリアの声を聴いていたとか、日本に布教に来ていた時にマリアからの確信を得たとか、そういう話も伝わっている。
そういう内なる主観的存在との関係性に私は関心があるのだが、とにかく、彼は自身の死によって絶望を乗り越えたという事実があって、それこそが「奇跡」と呼びうるものだった。これはひとつの確かなことだと感じている。

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サスカインド「プロフェッショナルの未来」朝日新聞出版

2015年の著作で、昨年10月に翻訳が出た本。
現状を踏まえた将来予測が記載されていて、目的的に読めば得るところは大きい。
というか、本書は英米の現状をかなりしっかり踏まえて、たとえば2050年にはこうなっているだろう、というようなことを書いていているのだけど、アメリカの数年遅れで日本もそうなる、という分野はあまりに多いわけで、そういう分野においては詳細に書かれているアメリカの現状こそが日本の近未来へののぞき穴のようなもので、まさに宝の地図のような本。
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さて。
今年は変化の年になるだろうと、なんとなく直観的に思って年賀状に書いたりしていたけれど、年初早々人生が複雑になって負荷がかぶさってきた。
心身疲労するものの、ここまでネリネリしてきた自分のセオリーを実験的に検証することができるわけで、その点では喜々としている。

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マルコとマタイによる、イエスが十字架の上で最後に言った言葉(我が神、我が神、なぜ私を見捨てたのか)は謎めいている。
そもそも、神はイエスを見捨てたのか、もしそうだとすれば、なぜ神は見捨てたのか。
この言葉のあと、イエスは「大声を出して」死ぬ。
なお、ルカによればこの謎の言葉の記録はなくて、「父よ、私の霊をあなたの手にゆだねる」と叫んで死んだとあるし、ヨハネでは聖書の言葉の実現として「私は渇く」「成し遂げられた」となっている。
さて、考えよう。
これより先だった捕縛の場面で、イエスは「父に頼めば助けてくれるが、聖書の言葉を実現するために起こっていることに従う」旨を述べてお縄になったとある(マタイ)。
ここからロジカルに理解できるのは、聖書の言葉が実現されてゆくリアルな世界と、これを任意に書き換えられる父たる神の世界の2つがあって、イエスはリアルに存在しつつ神の世界へのチャンネルを持っていると認識していた、ということだ。
これが最後の謎の言葉とつながるのだとすれば、イエスは十字架の上から今こそ父に助けてくれと頼んだのにそれがかなわなかったのだ、とも解釈できる。
だとすれば、神はイエスを見捨てたということになり、なぜ見捨てたのか、その答えとしては一般に人類の罪を背負うための通過儀礼として必要だった、ということになっている。
イエスの説いてきた愛は一対一の救済であって、イエスは多衆を救うことはできていなかった(だから民意で十字架に張られた)。
一対一を多衆にパラダイムシフトするためにイエスの絶望が必要だったというのだ。
ここで安直に、イエスが人類の罪を引き受けるための生贄になってくれたのだから我々は手放しに無罪なのだ、というのは違うだろう。
神の世界の作用として人類の罪が白紙にされたとすれば、あまりに神と人が接近しすぎる、神と人は依然峻別されていて、ただ体現者たるイエスは白紙化されたのだと理解すべきだと私は思う。
そのうえで、人において死にも等しい絶望だけが罪を開く道なのだという可能性の示唆こそがイエスの人類救済者たる所以だと理解したい。
キルケゴールは絶望は死に至る病だと言ったそうだが、良薬口に苦しということかと。
なお、死自体はそんなに意味ないですよ、というのが復活概念によっても示されている。

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