幼年期の終わり

 

本を読んでおくと、マイルストーンになって楽しい。
同じ本を30年ぶりに読むと、当然印象が変わる。同じ本を別の人が読むと、あまりに違う受け止め方をしていて驚く。
世に言う名作はそれなりの価値があると理解できるのも、こういう縦横の比較がなされてからだ。

SFの古典を読んでみたいと思う。
昔、魂を吸い込まれるように読んだあれらは、いったい何だったのか。

さて、書きたいのは、こどもっぱさは大変にへきえきするということ。
チャイルドリッシュとプリミティブは全然違うわけで、その相違は要は神という装置の有無に起因していると私は思っているわけです。
「ミスターロボット」は何が面白かったかといえば、自分という概念を新しくとらえて、自分の中の多様性に可能性を見いだして、その見いだし方が社会と同期していたというところ。だから、その装置の縁由なんてどうでもよかったのかもしれない。

ブラックスワンについてフィールドワークしてみよう。

「ネット階級社会」、ベン・ブラウダー「国際指名手配」

駆け込み投稿。

 

2019年「ネット階級社会」は、2017年「インターネットは自由を奪う」の文庫版。
ハードカバーの方は日本語タイトルが凡庸だったため読んでいなかったが、同じ本だと知らず手に取ってみたら一気に引き込まれた。
いくつもの知りたかったことが、納得できる形で記されていた。

インターネットの歴史をこれほど明確に記載した本はこれまでなかった。
よく、軍事用に開発されたとか、いやアカデミズムからの萌芽だったのだとか、抽象的な話は聞いてきたが、著者キーンの1940年から1991年に対する洞察は素晴らしい(話はそんなに単純ではなく、複合的な要因で現在に至っている)。
また、グーグルのビジネスモデルについても、卓越した技術があり、なにがしかの哲学があり、だからこそ生まれたのだということが、本文と原注から理解できる。
その他もろもろ、こういったイベントを動的な流れの中で把握できるのは、彼が歴史を学んできたからなのだろう(ロンドン大学でロシア・東欧を専門とする教授の下で学んでいる)。
卓越した書籍だ。
英語版はPDFで無料公開されている。

 

ベン・ブラウダーはDoNotPayのジョシュアの父だから興味を持った。
ベンについてはニュース記事で目にして投資家としか認識していなかったのだが、本書を読んで刮目させられた。
この内容は、すでに絶版の書籍を入手しなくてもニューヨーカーの記事でも理解できる。

さて、今年も本日のみとなりました。
今年は、ひとつキャリアを積んで、人とも話して、自身を客観化することが少しだけできました。
世界は過酷ですが素晴らしいところではあります。
人はここで自分を主人公とする物語しか人は語ることができないのだとするなら、その物語をいかに説得的で面白いものにするか、それしかやれることはないのです。
ということで、来年も引き続き物語を紡いでゆく所存です。

「ユダヤ人を命がけで救った人びと」河出書房新社

ユダヤ人を命がけで救った人びと」河出書房新社

書店で平済みになっていたのを、いったん買うのを控えて、後日、再度出会って購入した本。
タイトルのままの内容が、20数名へのインタビューで構成されている。
キリスト教がかなり色濃いが、むしろ、宗教を超えた領域に到達していると言ってよい部分が本書の本質。
休日の朝、3時間ぐらいで読んで、うち2時間半ぐらいは号泣した。
ユダヤ人の迫害なので人が死んだりする場面が多いから、ということではなくて、魂が激しく揺さぶられて。

なかでもフィリップ・ハリーの話は、深く私の魂に刻まれた。
本書に出てくる彼の著作「罪なき者の血を流すなかれ」も読んでみたところ、たしかに彼の話がより理解できたように思う。
我々は人であって、それ以上でもそれ以下でもない。
ただ、我々は良き人を目指すべきで、その美しさを持たない人は(生死のぎりぎりの段階では)同胞ではない。

この本はとても特別なものだったけれど、これは個人的な問題であって、あまたあるユダヤ人迫害の記録の一冊である。

 

ジョン・ウィック:パラベラム…良い

キアヌ君の映画、見てきた。
実は全然ストーリーを知らず、どうやらガンファイトものだというぐらいしか知らずに見に行った。
最初の15分ぐらいで、激しく後悔した。あまりに人が死んでゆく、グロい。
しかし、友人を誘われてきた都合上、ひとり席を離れるわけにもいかず、目を伏せたりしつつ、まあとりあえず見ていた。
そうそう、肝心のキアヌ君は画面にはもちろん映っているけど、あんまりカッコよくないです、子汚い。

しかし、そのうちどんどん引き込まれていった。
麻薬とかそういうのは全然やったことないけど、ま、そういう不思議なケミカルな反応で引き込まれていった。

一番メインのバトルのはじまり、建物の中なのだけど、そこで流れたのがなんとまあビバルディだった。
しかもオーソドックスな弦楽器の、アレンジしていないものが1楽章流れた。
いやもうまさにトリップした感じだった。
クラシックを映画で使うのは結構難しい。2001年ぐらいのハイエンドなスピリットでないと音楽が浮いてしまう。なのに、あそこでは本当に自然に、バロックが画面に溶け込むように流れていた。クラシック音楽に違和感を抱かせない程度に映画の精神性が堅牢という証左であるとともに、あの瞬間、ビバルディはまさに生きてそこにいた。ああなんて素晴らしい。

さて、映画自体は完全に続編アリという、マトリックスと全く同じテイストで終わる。
ここに至ってすでにストーリーは論外で、途中でいつのまにか犬が生き返ろうが、日本語が死ぬほど不自然であろうが、もうそれらの不条理のてんこ盛りはどうでもいい、ああキアヌ君の映画を1本見ちゃったわあ、という確かな手ごたえを感じつつエンドロールを眺めていると、わずかな時間、例のビバルディの電子的にアレンジされたバージョンが流れる。
もしかすると、これを本編で使う予定だったのをやめたのかな、などと考えてその英断をも勝手に賞賛したり。

劇場が明るくなって、ふらふらと洗面にたどり着くと、同じ回を見終わった観客の会話が聞こえてくる。
それはこれまでないぐらいに、個々人がポジティブなエネルギーを発散させていて、単に饒舌とかいうのではない、何か明るい未来を予感させてくれるエネルギーを拡散していたよ。

この映画は、アメリカで非常に興行収入が良くて、それもR指定がついているにも拘わらず、ということで、その理由が知りたかったのだけど、よーくわかったわ。
エンターテイメントの部分をきちんと保持しつつ、旧約聖書的圧倒的な生命プラス自由への希求が、それこそ暴力的に繰り広げられる。
映画の始まりから周りはすべて敵で、約因だけが拠りどころ。後半、consequencesという単語がキーワードのように呟かれるのも(たぶんsがついていた)、東洋的なのではなくて旧約の世界なのだろう。この映画、当初、真田広之がラスボス役だったそうだが、もし彼が演じていたら、もっと明確に深く描かれただろうにと思う。
ハリウッド的お約束のジェンダーとか若さの美徳とかも吹き飛ばして、単に生命という一点で戦うというシンプルさが普通の人であるところの我々を感動させるのは、最高に素晴らしい(バレエの練習をしていた少女たちはどういう人生を歩むのだろう)。

さて、本タイトルのパラベラムの意味は右記に詳しい。http://imi-nani.fenecilla.com/john-wick_parabellum/
要は、If you seek peace, prepare for war の意味のラテン語由来とのこと。
また、ビバルディは女性孤児にバイオリンを教えるということもしていて、その辺もこの映画と通底しているのかもしれない。

 

 

マイケル・ルイス「ネクスト」

最近、マイケルルイスを読んでいる。
行動経済学から始まって、ネクスト
2001年の本なので、すでにかなり昔、ネットの黎明期の話。
10代から20代の子供たちがネットの世界でしていること、体験していること、そういうことについて。
特に、ネットで法律相談受けてる12歳の子供の話とか興味あって読んでみた。
ファクトとしては有難い。著者が実際にインタビューした内容が記載されていて、よくわかる。ただ、翻訳が良くわからなくて、たぶん訳している本人もわかっていないのではないか、正確に調べないまま横のものを縦にしている、という感じ。

ところで、
自分がこれぐらいの子供のころは、「世界の秘密」と名付けて、これがわかったら自分の人生はきっともっとシンプルになるだろう、と考えていた対象があった。
この命名は「神」でもいいし「ぼんやりとした不安」でもなんでもいいのだけど、その時の自分を明らかに超えていて、概念を言語化するほど確定できなかったからそう名付けたまでだった。
抽象的な、とらえどころのない、疑問というか不可知というか、そういう対象。
あの頃、ネットがあったら、やばかっただろうと思う。

その後。かつて言われた人生50年という経験値を得てみて、それはもうわからない対象ではなくなった。
いや、今の私が世界の秘密や神や不安といったものを理解したというのでは、けしてない。なんというか、それらと馴染んだというのが適切かもしれない、とにかく、得体のしれないわからないものという対象ではなくなった。
そして、それらはたしかな実在だということは認識するようになった。

さて、重要なのは、人生はなおシンプルではない、ということだ。
シンプルではない、つまり複雑で、タフな問題が山積していて、それは面白みもあるけれど、圧倒的な絶望や醜さが渦巻いている。
そして、これはごくごく自然な当然な状態だ。
乱暴な論理を組み立てれば、世界の秘密とは、神とは、つまり人が生きるというのはシンプルな作業ではないという、そういう圧倒的な実在のことだ。抽象概念だけど実在。

ネットネイティブの人はどう考えるのだろう。
ネクストに出てくる子供たちは、いま、何を考えているのだろう。
ググってみるか。

  

 

ヤニス・バルファキス「父が娘に語る経済の話。」、星新一「声の網」、ティム・ステッド「マインドフルネスとキリスト教の霊性」

ヤニス・バルファキス「父が娘に語る経済の話。」


バルファキスはギリシャの経済危機の時の財務大臣だった経済学者。
彼のその仕事については「黒い 」に詳しい。

彼の経済学者としてのスタンスは、いわゆる経済モデルはプリチャードの言うアザンデ族が占い師を信じる状況と同じだという、リベラルなものだ。
そういう立場から、経済学を学ぶための素地としては、経済は交換価値のみに着眼して経験価値を無視していて、人類のハッピーとイコールではないことを知っていることが必要で、そして、たしかに経済や貨幣は必要であるもののそれに固執するべきではななく、歴史を知り、人の気持ちを知り、そういったことの上で経済は理解すべきなのだという、そういう本。

宣伝されているほどスゴイ本とは思わなかったが、とても読みやすいし、それはきっとバルファキスが政治的な人でアジテイトが上手いからなのだろう。
確かに面白く読むことができた。そんな感じ。

 

星新一「声の網」

星新一の本は、たぶん再読。1969年の作らしい。
絶句。
昨日書きました、ぐらいに極めて今日的。
ITとか電子機器とかサービスとか。淡々と、すごく自然に書いてる。
翻訳でなく日本語で読んでいるからか、海外のSF作家よりずっと日常的に未来を書いていて、本当に驚愕。
「情報銀行」という言葉をはじめてなのだか、とにかく使っているということで、アマゾンで取り寄せて読んだけど、「情報銀行」の業務内容はやや違うけど、まあ抽象的には正しい認識がされているのだろうと思う。
ただ、ここでの「網」は集中型であって分散型ではないからP2Pが存在していない。
逆に言うと、今現在のインターネットのP2P、つまりサトシ・ナカモトの言うような純粋なP2Pに、活路があるかもしれない。
ここは逆説的ながらも大きな示唆だと感じた。
それと、この本の最後の落ちは私には貧弱だと思えた。
1冊かけて書いてきて、すごいんだけど、こういう厚みのなさ、パワー不足が私が星新一を若干苦手と思う点。
中央官庁で去年から働いている知人が、「やっぱりキャリアは頭がすごくいいけど、理解が薄ペラで、いざ問題解決の議論になると何もわかってなくて、これは何なのかと思う」、と言っていた。
最近突き当たっているのが、この浅さの壁。

 

ティム・ステッド「マインドフルネスとキリスト教の霊性」

2016年にイギリスで出版された本の翻訳。
たまたま知って、たまたま購入に至った。銀座の教文館にて。
この本は、おもいがけず神を認識することのベーシックな部分が書かれていて、サブタイトルにも「神のためにスペースをつくる」とあって、本当にそうだよな、と思った。

たとえば、神は愛だということがあるけど、これを神イコール愛と考えるならそれでもいいのだろうけど、私は神と愛は存在形式は似ているものの全くの別物だと認識していて、いずれも有体でないけどたしかにある、それが失われればはっきりわかるという存在であるから、神のためには「スペース」が必要なのだと思ったわけだ。

    

クリムト展、プルートで朝食を

東京都美術館「クリムト展」
久しぶりに親戚のおじさんに会ったような、そんな気持ち。
クリムトの描く、植物や動物がほんとうに好き。低い視線の木々の様子、赤い牛。
クリムトの錯そうする精神が静かに沈殿してゆく、その過程が画になっている。
ベートーベンの壁は模写だけど、原寸大で、その空間に入るのがとても良かった。

プルートで朝食を」2006年の映画
たまたま教えてもらってアマゾンプライムで見た。
私の好きな要素がすべて入ってる完ぺきな映画。
映画の完成度としては最高というわけではないけれど、ラフなところを残しているそこがいい。
BREAKFAST ON PLUTO - TRAILER

いい映画は、始まった瞬間にわかる。
「シュガーベイビーラブ」の流れるオープニングは完ぺき。
キリアン・マーフィーはどこをどうしたらこんな風体・演技ができるのだろう。
自然でありながら、どこにもいない唯一の人格として、パトリックを存在させていたよ。
途中出てくる悪い人がブライアン・フェリーで、やらしー感じが素敵。これを見れたのは儲けもの。

 

ギンズバーグのドキュメンタリ映画「RBG」、「ナチスから図書館を守った人たち」

全ての人は全ての時を自己の合理化のために意欲する。もちろん私自身もそう。
より良き合理化を求めて腐心する。

先日、アメリカ最高裁判事ギンズバーグのドキュメンタリ映画「RBG」を見た。
映画の公式サイトはこちら、ギンズバーグについては、こことかの記述が判りやすい。
映画を観ての、とくに得られた新しい情報はなし。映画を撮影した時点では、判事を辞める気はないのだな、という点の確認ぐらい。
先にたまたま「マックイーン」という、同様に個人を描いたドキュメンタリをみていたので、同じ手法の映画作品として今回のはダメだなと感じられた。
まったく人そのものが描けていなくて、ギンズバーグという老女自身の姿は見えない。単に、みんながアイコンにしている彼女を紹介しているだけだ。いや、それが普通なんだけど、マックイーンが奇跡の1作だったというだけなんだけど。
劇場はそこそこ人が入ってて、模索している感の年寄がたくさん来ていた。

 

合理化するのもそれを模索するのも、いいんじゃない、だって我々は人間であって神ではないのだから。
でも、自分の手持ちの札だけでの合理化をしようとするという頭の悪さ、もしくは卑しさを私は憎んでいる。
ここは我々は人間であって動物ではないのだと、私は思いたいから、というだけのことだけど。
本当に合理化したいなら、新しいカードを手に入れないとだめだろうに。

ナチスから図書館を守った人たちはリトアニアのユダヤ人図書館の本を守った人たちについての調査結果。
近時、資料が見つかり、調査され、その調査を担当したユダヤ人神学校の歴史教師フィッシュマンが著者。
なぜ宗教というか文化というか、連綿と続いてきた精神性を守ろうとするのか、死の恐怖、飢餓の苦しみのなか、なぜ、という点が理解できる。一般的なナチのユダヤ人迫害ではないひとつ特殊な部分の話であって、圧倒的な虐殺という悲劇性で覆われると逆に見えてこない真実を知ることができる。貴重で素晴らしい調査内容だ。

   

 

映画「マックイーン」

2010年、40歳で自殺したファッションデザイナー、リー・アレキサンダー・マックイーンの生涯。

過去のフィルムや、周辺の人へのインタビュで彼をつづる。
映画が終了して、劇場の空気が異様だった。
これほど深い感動をたたえた空間は初めてだった。
たしかに、本人の自殺というエンディングは笑って席を立つというわけにはゆかない。
にしても、ほぼ号泣で立ち上がれない状況の人すらいた。
人の死という悲劇を超えた、生命の尊さがこの映画では観客の心を突き動かしていた。


もしかすると、イギリスの観客よりわれわれは強い衝撃を受けたのかもしれない。

マックイーンの洋服、代表的なものは?と言われても、じつはよくわかっていない。
ガリアーノとあんまり区別がつかなかったりした。ごめんね、マックイーン。
たしかに、ケイトモスのホログラムは、とても印象的だったが。

映画では、オンタイムで見たよりも、物語をもってずっと素敵に洋服を映してゆく。
服を着ることと、見せること、それもショーで見せることは全く違うことなのだとまざまざと感じる。
映画のブックレットを読んでわかったのは、やっぱり当初は関係者へのインタビューは難航したらしい。
制作者サイドとの信頼関係ができて行って、だから話を聞くことができて、この映画になった、それが観客の心を動かした。
イギリスの人は辛口になれていて、言語表現にいかに力があるか、技術が必要か、を理解している人が多い、
そういう人たちが、心を込めて話をすれば、日本人などはあっけなく感動する。
ぞれはもちろん美しいことだけどね。

現代のイギリス人にとって自殺というのはどいう感覚なのだろうか。
日本では比較的美化されてきた歴史があるけど、イギリスでは近代まで自殺は犯罪で、自殺した人の財産は没収されていたんだよね。
そういう社会背景は今どうなっているのだろう。
ゲイもイギリスでは戦後まで犯罪だったから、日本とはその存在がいまでも全く違うのだろうと思う。
その辺の感覚は、ほとんど全くわからない。
ただ、映画を観ると、彼の自殺は言葉では説明できないけれどわかる、という気持ちになる。
私たちがどんなにマックイーンを愛したとしても、彼は孤独のうちに死んだのだと思うと、その非情さがつらい。

音楽が良かった。
マイケル・ナイマンだけど、映画「英国式庭園殺人事件」で自分で作った曲を使っていたのは、マックイーンがThe UKということなんだろう。(この曲は、ペットショップボーイズ「 Love is a Bourgeois Construct」で初めて知った。映画「英国式庭園殺人事件」も本当に好きな映画だ)

   

ジョン・アームストロング, アラン・ド・ボトン「美術は魂に語りかける」

美術は魂に語りかける

アラン・ド・ボトンは私にとって特別な人だ。
彼がいるなら、アートを「学ぶ」必要はないと思った。
そして、だから私はパンクになろうと思ったのだった。

いい意味で、アームストロングとボトンが売れる本を書こうと決めて書いたのが本書だろう。
巧みな構造で、アートが分かる気持ちにさせてくれる、"なるほどねー"と思わせる本だ。
アートに興味がある人は、読めば面白いと感じるし、勉強になるとも感じる。
読む価値がある。

アートの位置づけは、人によって違う。
空気のように常に無意識で取り入れていて、それがないとほとんどすぐに死ぬ、というレベルもあるだろうし、
水の程度に、無いと死ぬ、というのや、ケーキみたいにたまには食べたいね、って程度もあるだろう。
逆に、エスニックフードのように、それが食べられているのは知っているけど、別に自分が食べたいとは思わない、ってのもあるかもしれない。

アートというのはひとつのコミュニケーションの手段で、中でもファインアートは社会とのコミュニケーションの手段だから、チャンネルがアートにあってしまった人はそれでコミュニケートするということになる。
コミュケーションをどれだけ必要としている人格なのかによって、アートの必要性も変わる。

私はアートがなければ生きてゆけない派だった。
最初はたぶん自然の造形もしくは光そのものが私にとってアートだった。
幼いころは、地面との距離が近くて、土や草や光の美しさが私を生かしてくれた。あの、生かされているという感覚は刻まれている。
ファインアートを見たのはいつだったか、ほんの子供のころ、アートは底なしの退屈さだった。暴力的な退屈さ。今思えばそれは「孤独」というものだったのだろう。
人が孤独を最初に感じるのはいつなのだろう。
胎児のときから感じるのだろうか。
そして、たぶん孤独の感とアートへの渇望はパラレルなのだ。

そうなんだよね、
最近、アートへの渇望は失せ、同時に孤独感が無くなった。
(本書の雰囲気をまねして書けば、
たとえば他者との対立なりで以前は魂の孤独を感じていたのですが、最近は、自身の個人という存在を認識するだけでそれを大仰な孤独とは感じなくなった。
年齢を重ねて感受性が鈍っているのというのとは違って、逆に、もっと強くて衝動的な感情が動いている。
ケイトとアンソニーの件は、とても分かるように思う。)

孤独感。
こっちの感覚も、人によってかなり違うのは知っている。
ゴーギャンの「オリーブ山のキリスト」(これは本書85ページにも載っている)を誰もが共感できるわけではないだろう。
もし、死を認識しつつそれに臨めるなら、それは孤独に浸ることになのだろうと考えている。
その孤独のとき、意識が明晰な段階では、私は何を感じるだろう。
それはその時だけの秘密なのだと、ある人が詩で書いていた。
私もそう思う。
詩は美しい。

 

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