12月

ブログのこと、忘れてました。
今年は、親の介護で地方の行き来等、いろいろあった1年で、かなり印象深い年になりました。
大変なことだけにとても良い経験で、たくさんのことを知りました。
来年はたぶん少し余裕が出てくるので、こちらもまた書いてゆこうかと思っています。
どうぞよろしくお願いいたします。

私を離さないで、の雰囲気。

講道館の地下のレストラン、外国からの団体選手の食堂みたいになっていて、その日は30人ぐらいのティーンエイジの若者たちがご飯を食べてた。
何度かこういう光景は見たことがあるのだけど、その日は若い男女なのに妙な静けさがあり、それは既視感のある、どこで見たのだろうと考えたら、カズオイシグロの小説「私を離さないで」の心象風景だった(映画は見ていない)。
お店の人に尋ねたら、ウクライナから来ている若者たち、ということだった。

新年おめでとうございます

2025年になりました。
幼いころに憧れていた21世紀も、すでに四半世紀になるのかよ、と。

シンギュラリティが来るか否か、あの論争はどうなったのだろうか。
そもそもシンギュラリティの意味が確定してないから、各自が好きなことを言ったままだろうか。
演算能力や記憶能力と複製力は当然、マシンが上だろう。でも、人間を超えるって意味が解らないよね。
例えば、人間という種が50年生きても、ミケランジェロみたいにすばらしい絵を描けるひとは稀なのであって、しかも、その素晴らしさは時間の流れの中で評価されることであって、時間軸のない存在としてのマシンが人間を超えることはあり得ない、と私などは思う。

年末年始、いい気になってテレビやネットを見ていた。
恒例の高齢歌手や今年死んだ人の映像とか見てて、やっぱり老化は死ぬ方向なんだなと感じた。当たり前だけど。
人は常に老化してゆき、死に向かってゆく。その当たり前を当たり前に過ごしているのは美しくないわけで、美意識を持つなら(神に近づきたいと思うなら)、今いるところ、社会性というか全体の一部としての認識を持つことが必要になる。
美には距離が必要。美を感じるには、距離が必要なのだ。
そして距離があれば不可避的に遠近法=偏見が介在する。自分の視点をわかっていないと、距離を設けることができても美ではなく単なる偏見になるだけ。自分の視点を知るには、自分が全体の中で動いて比較してみるしかない。
この自分が動くことがとても大切。
醜くくなりたくなければ動くこと、失敗し、間違い、くじけること。
ゲオルグ・ジンメルが腑に落ちなくて、すこし離れて時間を置いていた。彼の言う「距離」がややわかってきた、かな。

 

 

 

おおみそか

今年もお世話になりました。
やることが多くて、新しい経験をたくさんして、多くを学べた1年でした。
2025年はきっと変化の年になると思います。
楽しい年にしたいです。

12月

最近はゲオルグ・ジンメルを読んでいます。
ドイツの社会学者・哲学者。貨幣論とかとくに面白い。
マックス・ウエーバー「職業としての学問」で、ユダヤ人であったならすべてをあきらめなくてはならない、と書かれているのがジンメルだそうです。ユダヤ人、その他の理由で正教授に就いたのは50代で亡くなる数年前でした。
今年の一番の収穫は、このジンメルが見つかったことです。

ただ、リアルの生活では人間というものが、やっと少し見えて、ますます他人を信じないという、たいへん良い意味での見極めができています。
明日で世界が終わることを私だけが知っている、という感覚かな。
父母の認知症、そして病院や施設やその他の人間関係は、生命とか人格とかがグロテスクに生々しい世界で、これまでの自分の経験や学習結果を総動員して対応する日々であります。
以前もここに書いたのですが、最も参考になったのは、シェイクスピアの作品と「メメント」とか。シェイクスピアのリアのおかげで、ここまで気持ちの平衡感覚を保ってこれた、とも思っています。
ハードだけど、こういう経験ができて良かったと感じる日々。こういう現実を知らないまま死んでたら、人間として生まれた価値がないような。
最近やっぱり小説はわりと無力、と改めて思ったりもしますね。弱い。
だったら新しい表現形式を探すべきだとも。

デッサンをすると、線が引けないことに気づきます。
いくつもいくつもためして、この1本だと腑に落ちるときが訪れる、それがすごく楽しいです。
そういう線がいくつかできると、絵ができるんですよね。
文字では表せない、なぜかこうでしかない1本の線。
ベイコン丸10年考えてきて、やっとわかったわ。

本年もどうも有難うございました。
来年も宜しくお願い致します。

書くこと

最近、ジョージ・オーウェルを考える。これもフランシス・ベイコンつながり。
ベイコンはオーウエルの配偶者のサロンにしばしば参加して、この配偶者と絵画論の本を出そうとしたことがある。それと、ベイコンのもっとも熱烈な批評家シルベスターは、若いころオーウエルに薫陶受けて一緒に仕事していた。
ベイコンとオーウエルの直接のつながりはあまりないけど(オーウエルは早死にしてるから)、どう考えてもベイコンはオーウエルに影響されている部分がある、と感じる。
オーウエルの先見性は、彼が比較的若い時に世界を見たからだろう。
早川文庫の1984の解説はピンチョンなのだが、それを教えられてこの解説を読んだ。ぐわっと突き刺さる解説だった。

私は、自分には知らないことがあまりに多いことは知っている。
この一事をもって私は私を愛することができている。

ヒトの社会性というときに、すぐに考えるのは他人との関係とか平面的な広がりだけど、じつは縦軸というか時間的なつながりが大きいというのは、社会学とか文学とかの世界ではたぶん当然なのだろう。
絵画とか文学とか音楽とか、論理で説明できないものを表現する世界は魅力的だけど、直截な伝達手段をいま、欲している。
社会性が失われた人間は社会に反逆する。その結果、社会はすべての構成員を失うことになる。
いまのところ、それでもいいとも思う。

さよなら、ベルリン

気づいたら、前の記事から数か月たっていた。
これはいけません。

アマゾンプライムで「さよなら、ベルリン」というドイツ映画を見た。1931年のベルリンを描いている。
「ヒトラーのための虐殺会議」を勧められて見たところ、とても面白かったので、またドイツ語映画。
これもとても良かった。人生のベスト5に入りそうな勢い。
原作がケストーナーとあったので、流石と思って原作も読んでみた。
びっくり。
映画ですごいなあと思った部分は全部、原作と異なっていて、映画オリジナルなようだった。
たとえば、映画の最後への流れは本当に素晴らしくて、精神活動がどんなに尊いか、よ――くわからせてくれた。
主人公が見えなくなる場面は、これだけでゴハン1杯食べれます、という語りつくせなさ。
しかし、これはモノを作る人が頭ではなく身体を通して表現した場面だというのは、シンプルに伝わる。
これが原作ではびみょうに違っていて、このびみょうさが圧倒的な凡庸を決定づけているのね。

長い映画なので躊躇するし、ちょっと悠長さも感じるけれど、
当時のベルリン(今に似ている)の雰囲気が経験できるし、生きることにも死ぬことにもタフになれる(かもしれない)ので、また見ようと思う。
ありていに言えば、フランシス・ベイコンが22歳のころ(1932年)にベルリンに滞在して強い刺激を受けたらしいので、それを少しでも知りたくて見たのだけど、予想外の収穫だったということでした。
ではまた。

アンゼルム・キーファー個展「Opus Magnum」

キーファーの個展に行ってきた。
彼にしては小さい、テーブル1面程度の大きさの立体15点と水彩絵画5点ほど。
まとまった作品をリアルで見たのは初めて。

すばらしかった。
キーファーらしい巨大なオブジェは間違いなく素晴らしいだろうが、小さくても、つまり物理的な質量に頼らなくても、突き抜けて美しい存在感があった。
現代(20世紀以降)の作品で初めて感じられた実在感だった。
本当にすばらしい。
いずれもすばらしいのだが、たとえば「バミューダトライアングル」とタイトルされた作品、
明らかにお茶目さがあるのだけど、そうでありつつ、吸い込まれる深淵を持っている。なんなのでしょう、これは。
たしかな技術と丁寧な作品制作と、私には理解できていない何かがあるのだろう。
この感覚は、ややピーター・ドイグに似ている。秘密を恐怖なく正面から受け止める体質、か。
ああ、すばらしかった。

ファーガス・マカフリー東京
Fergus McCaffrey
6月29日まで。日祝は休。

メメント

ノーラン映画を改めて見ているところ。
メメントは久しぶりに見たら、わかりやすいストーリーの映画だった。
テネットとかでノーラン映画のセオリーを把握したからだろうか。
ただ、認知症の両親を持ったという、純粋にこちら側の変化によって、観た感想はだいぶ変わった。
メメントみたいに外傷性で短期記憶障害という人は人口当たりそんなに多くは無いと思うけど、認知症はこれからどんどん増えてゆく。
救いようのない恐怖で気持ちが沈んだ。
そういう突き刺す力は、このころから確立されている。
カメラや編集、どこが未熟かとか技術的な部分に気持ちを持って行くようにして、気持ちをまぎれさせながら観た。

ビルナイ「生きる」

イギリス版の新しい「生きる」をやっと見た。
Amazonで500円。
ストーリー的には黒澤版と同じだけど、細部はイギリス版なのでいろいろ違う。
恋せよ乙女、の歌(ゴンドラの唄)はスコットランド民謡になっていたが、主人公が雪の降りしきる中でブランコを漕ぎながら幸せそうに歌う、というのは同じ。そういうイギリスアレンジ。
黒澤映画の最も素晴らしいところが理解できないまま、生きるって素晴らしいね、みたいな小賢しいスイートな話になっている。
同じ時代、イギリスは戦争に勝っていい気になっていた、ということなのか、ビルナイはたしかにぞっとする死人を演じていた(職場の人にゾンビというあだ名をつけられてる。黒澤版ではミイラ)。これはイギリス流の皮肉の効きすぎな映画なのか。解釈の仕方がわからない。

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