ヤニス・バルファキス「父が娘に語る経済の話。」、星新一「声の網」、ティム・ステッド「マインドフルネスとキリスト教の霊性」

バルファキスはギリシャの経済危機の時の財務大臣だった経済学者。彼のその仕事については「黒い 」に詳しい。
彼の経済学者としてのスタンスは、いわゆる経済モデルはプリチャードの言うアザンデ族が占い師を信じる状況と同じだという、リベラルなものだ。
そういう立場から、経済学を学ぶための素地としては、経済は交換価値のみに着眼して経験価値を無視していて、人類のハッピーとイコールではないことを知っていることが必要で、そして、たしかに経済や貨幣は必要であるもののそれに固執するべきではなないために、歴史を知り、人の気持ちを知り、そして経済は理解すべきなのだという、そういう本。
宣伝されているほどスゴイ本とは思わなかったが、とても読みやすいし、それはきっとバルファキスが政治的な人でアジテイトが上手いからなのだろう。確かに面白く読むことができた。そんな感じ。

 

星新一の本は、たぶん再読。1969年の作らしい。
絶句。
昨日書きました、ぐらいに極めて今日的。ITとか電子機器とかサービスとか。淡々と、すごく自然に書いてる。翻訳でなく日本語で読んでいるからか、海外のSF作家よりずっと日常的に未来を書いていて、本当に驚愕。
「情報銀行」という言葉をはじめてなのだか、とにかく使っているということで、アマゾンで取り寄せて読んだけど、「情報銀行」の業務内容はやや違うけど、まあ抽象的には正しい認識がされているのだろうと思う。
ただ、ここでの「網」は集中型であって分散型ではないからP2Pが存在していない。逆に言うと、今現在のインターネットのP2P、つまりサトシ・ナカモトの言うような純粋なP2Pに、活路があるかもしれない。ここは逆説的ながらも大きな示唆だと感じた。
それと、この本の最後の落ちは私には貧弱だと思えた。1冊かけて書いてきて、すごいんだけど、こういう厚みのなさ、パワー不足が私が星新一を若干苦手と思う点。
中央官庁で去年から働いている知人が、「やっぱりキャリアは頭がすごくいいけど、理解が薄ペラで、いざ問題解決の議論になると何もわかってなくて、これは何なのかと思う」、と言っていた。
最近突き当たっているのが、この浅さの壁。

 

ティム・ステッド「マインドフルネスとキリスト教の霊性」は、2016年にイギリスで出版された本の翻訳。たまたま知って、たまたま購入に至った。銀座の教文館にて。
この本は、おもいがけず神を認識することのベーシックな部分が書かれていて、サブタイトルにも「神のためにスペースをつくる」とあって、本当にそうだよな、と思った。
たとえば、神は愛だということがあるけど、これを神イコール愛と考えるならそれでもいいのだろうけど、私は神と愛は存在形式は似ているものの全くの別物だと認識していて、いずれも有体でないけどたしかにある、それが失われればはっきりわかるという存在であるから、神のためには「スペース」が必要なのだと思ったわけだ。

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クリムト展、プルートで朝食を

東京都美術館「クリムト展」
久しぶりに親戚のおじさんに会ったような、そんな気持ち。
クリムトの描く、植物や動物がほんとうに好き。低い視線の木々の様子、赤い牛。クリムトの錯そうする精神が静かに沈殿してゆく、その過程が画になっている。
ベートーベンの壁は模写だけど、原寸大で、その空間に入るのがとても良かった。

「プルートで朝食を」2006年の映画
たまたま教えてもらってアマゾンプライムで見た。
私の好きな要素がすべて入ってる完ぺきな映画。
映画の完成度としては最高というわけではないけれど、ラフなところを残しているそこがいい。
BREAKFAST ON PLUTO - TRAILER

 

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人は合理化するために生きている

全ての人は全ての時を自己の合理化のために意欲する。もちろん私自身もそう。
より良き合理化を求めて腐心する。

先日、アメリカ最高裁判事ギンズバーグのドキュメンタリ映画「RBG」を見た。
映画の公式サイトはこちら、ギンズバーグについては、こことかの記述が判りやすい。
映画を観ての、とくに得られた新しい情報はなし。映画を撮影した時点では、判事を辞める気はないのだな、という点の確認ぐらい。
先にたまたま「マックイーン」という、同様に個人を描いたドキュメンタリをみていたので、同じ手法の映画作品として今回のはダメだなと感じられた。
まったく人そのものが描けていなくて、ギンズバーグという老女自身の姿は見えない。単に、みんながアイコンにしている彼女を紹介しているだけだ。いや、それが普通なんだけど、マックイーンが奇跡の1作だったというだけなんだけど。
劇場はそこそこ人が入ってて、模索している感の年寄がたくさん来ていた。

 

合理化するのもそれを模索するのも、いいんじゃない、だって我々は人間であって神ではないのだから。
でも、自分の手持ちの札だけでの合理化をしようとするという頭の悪さ、もしくは卑しさを私は憎んでいる。
ここは我々は人間であって動物ではないのだと、私は思いたいから、というだけのことだけど。
本当に合理化したいなら、新しいカードを手に入れないとだめだろうに。

「ナチスから図書館を守った人たち」はリトアニアのユダヤ人図書館の本を守った人たちについての調査結果。
近時、資料が見つかり、調査され、その調査を担当したユダヤ人神学校の歴史教師フィッシュマンが著者。
なぜ宗教というか文化というか、連綿と続いてきた精神性を守ろうとするのか、死の恐怖、飢餓の苦しみのなか、なぜ、という点が理解できる。一般的なナチのユダヤ人迫害ではないひとつ特殊な部分の話であって、圧倒的な虐殺という悲劇性で覆われると逆に見えてこない真実を知ることができる。貴重で素晴らしい調査内容だ。

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映画「マックイーン」

2010年に40歳で自殺したファッションデザイナー、リー・アレキサンダー・マックイーンの生涯。
過去のフィルムや、周辺の人へのインタビュで彼をつづる。
映画が終了して、劇場の空気が異様だった。
これほど深い感動をたたえた空気は初めてだった。
たしかに、本人の自殺というエンディングは笑って席を立つというわけにはゆかない。
ほぼ号泣で立ち上がれない状況の人もいた。
しかし、そういう悲劇という要素を超えた、生命の尊さがこの映画では観客の心を突き動かしていた。
もしかすると、イギリスの観客よりわれわれは強い衝撃を受けたのかもしれない。

マックイーンのお洋服、代表的なものは?と言われても、じつはよくわかっていない。
ガリアーノとあんまり区別がつかなかったりする。
唯一、ケイトモスのホログラムは、とても印象的だったが。
映画では、オンタイムで見たよりも、物語をもってずっと素敵にお洋服を映してゆく。
服を着ることと、見せること、それもショーで見せることは全く違うことなのだとまざまざと感じる。
映画のブックレットを読んでわかったのは、やっぱり当初は関係者へのインタビューは難航したらしい。
制作者サイドとの信頼関係ができて行って、だから話を聞くことができて、この映画になった、それが観客の心を動かした。
イギリスの人は辛口になれていて、言語表現にいかに力があるか、技術が必要か、を理解している人が多い、
そういう人たちが、心を込めて話をすれば、日本人などはあっけなく感動する。
ぞれはもちろん美しいことだけどね。

現代のイギリス人にとって自殺というのはどいう感覚なのだろうか。
日本では比較的美化されてきた歴史があるけど、イギリスでは近代まで自殺は犯罪で、自殺した人の財産は没収されていたんだよね。
そういう社会背景は今どうなっているのだろう。
ゲイもイギリスでは戦後まで犯罪だったから、日本とはその存在がいまでも全く違うのだろうと思う。
その辺の感覚は、ほとんど全くわからない。

音楽が良かった。
マイケル・ナイマンだけど、映画「英国式庭園殺人事件」で自分で作った曲を使っていたのは、マックイーンがThe UKということなんだろう。

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ジョン・アームストロング, アラン・ド・ボトン「美術は魂に語りかける」

アラン・ド・ボトンは私にとって特別な人だ。
彼がいるなら、アートを「学ぶ」必要はないと思った。
そして、だから私はパンクになろうと思ったのだった。

いい意味で、アームストロングとボトンが売れる本を書こうと決めて書いたのが本書であろう。
巧みな構造で、アートが分かる気持ちにさせてくれる。"なるほどねー"と思わせる本だ。
アートに興味がある人は、読めば面白いと感じるし、勉強になるとも感じる。読む価値がある。

アートの位置づけは、人によって違う。
空気のように常に無意識で取り入れていて、それがないとほとんどすぐに死ぬ、というレベルもあるだろうし、
水の程度に、無いと死ぬ、というのもあるし、
ケーキみたいにたまには食べたいね、って程度もあるだろう。
逆に、エスニックフードのように、それが食べられているのは知っているけど、別に自分が食べたいとは思わない、ってのもあるかもしれない。

アートというのはひとつのコミュニケーションの手段で、中でもファインアートは社会とのコミュニケーションの手段だから、チャンネルがアートにあってしまった人はそれでコミュするということになる。
コミュをどれだけ必要としている人格なのかによって、アートの必要性も変わる。

私はアートがなければ生きてゆけない派だった。
最初はたぶん自然の造形もしくは光そのものが私にとってアートだった。幼いころは、地面との距離が近くて、土や草や光の美しさが私を生かしてくれた。あの、生かされているという感覚は刻まれている。
ファインアートを見たのはいつだったか、ほんの子供のころ、アートは底なしの退屈さだった。暴力的な退屈さ。今思えばそれは「孤独」というものだったのだろう。
人が孤独を最初に感じるのはいつなのだろう。
胎児のときから感じるのだろうか。
そして、たぶん孤独の感とアートの渇望はパラレルなのだ。

そうなんだよね、
最近、アートへの渇望は失せ、同時に孤独感が無くなった。
(本書の雰囲気をまねして書けば、たとえば他者との対立なりで以前は魂の孤独を感じていたのですが
最近は、自身の個人という存在を認識するだけでそれを大仰な孤独とは感じなくなった。
年齢を重ねて感受性が鈍っているのというのとは違って、逆に、もっと強くて衝動的な感情が動いている。
ケイトとアンソニーの件は、とても分かるように思う。)
孤独感。
こっちの感覚も、人によってかなり違うのは知っている。
ゴーギャンの「オリーブ山のキリスト」(これは本書85ページにも載っている)を誰もが共感できるわけではないだろう
(キリスト教は、孤独を抽象概念として理解し、個人概念を納得させ、人権と近代立憲主義をわかるための素地なのだろう)。
もし、死を認識しつつそれに臨めるなら、それは孤独に浸ることになのだろうと考えている。
その孤独のとき、意識が明晰な段階では、私は何を感じるだろう。
それはその時だけの秘密なのだと、ある人が詩で書いていた。
私もそう思う。
詩は美しい。

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久しぶりにブログ書こうとして、フォーマットが変わっててへこむ

大学のときの先生の文章を久しぶりに読んだ。
あまりにカッコよくて泣いた。

ゴドーが今日来るとか明日来るとかどうでもいいし
神がいようといまいと関係ない.
そう、世界が何といってもそんなの関係ないものがある。

最近読んだ本では、
ジェームズ・ブライドル「ニューダーク・エイジ」が面白かった。
書いてあることも面白いけど、書きっぷりが怒涛のようで良い。
知らないけど、New Aestheticの旗手らしい。
シンギュラリティ物は単に上っ面の技術だけでは得るものはなくて(だって、未来の予想はできないし)、
なにかポイントで深く掘る、基軸がないと読むに値しない。

私の思想は本当に自由なのか、
生きるという人間性に規制されるのは、そこは当然として、
自由度が十分に保たれているのか。

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マイブックショップ@シネスイッチ

本屋のなかった町に戦争未亡人が一人で本屋を作る、でも、有力者の不合理な反対にあって・・・というベタな設定には興味を持てなかったけれど、原作があってブッカー賞作家ペネロペ・フィッツジェラルドと知っていそいそ見に行った。
すごく良かった。
原作のテイストはいかされていて、とにかく易きに流れない展開に魅了された。
映像の感じがグザビエ・ドランとおなじ雰囲気があって(マイノリティマインド?)、美しく力強かった。
こっちの側の勝手な受け止め方だけど、単純な恋愛映画として良かった。ビル・ナイは私にとってはショーンオブザデッドのジャガーに乗ってるお父さんで、イギリス人の年配の代表なのだけど、この映画ではとても美しい人物として描かれていた。
出てくる人が、ナレーター以外は全員ちょっと愚かで、みょうなリアルがあって私の気持ちには響いた。なかでも悪い女性の旦那がとっても愚かに描かれていて、これまで認識していなかった俳優だけど、いいなあと思った。
Reg Wilson ここに短い映像があって、いろんな役を演じているけど、本作の愚かな旦那さんの役はこれらの役からはちょっと想像がつかないかもしれない。

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ところで、今日は明治大学の著作権法改正のシンポジウムに行ってきました。
法律のシンポジウムとしてはかなり面白くて、おや、これは何かが変わってゆく兆しか、と思いました。

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たまには

ということで、たまにはココログにも来なければと。

昨年末からは別サイトの作成に忙しいのですが。
アーロンスワーツのドキュメンタリ「The Internet's own Boy」を何回目か、今回は、歴史や登場人物の所属等調べながら見て、やっとほぼほぼ理解できた。
日本でも去年SOPAみたいな動きがあったので、やっと腑に落ちたというところもある。
今わからないのは、レクシスとウエストの違い。なぜ、レキシスはギークたちの批判の対象になっていないのか、ウエストとレクシスの訴訟や、ウエストの権利マフィア的姿勢によるのは解るけど、ここをもう少し調べないとと考えているところ。
最近実感しているのは、インターネット文化についてはたかが1995年以降だけど、とはいえ、たゆまぬ努力があって世界が変わってゆくというのが明らかにわかる。
今回のCaselaw Access Project もハバード図書館が動けたのは、カール・マルムードやレッシグやスワーツや多くの人の作ってきたカルチャがあったからだ。
法律の解釈は一夜にしてはならない。
そこを学部生にも理解してもらうべきだ。
人は神の存在を知らないと、自身の有限性を認識できない。
人が認識できるのは有限な自分によるのだから。
神というのはそういう措定される超越性だけの存在で、
神が人によって存在するというヨナスの言はそういう意味なのだろう。
それ以上は、神を認識することはできない、でも、神はいてくださるというのは、「神」という言葉や概念が人の中で共有できるという「希望」か。

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Happy New Year

本年もよろしくお願いします。

この休みにHPを1本作ろうと決めいていて、元旦に出来上がって、最後の最後にデータが消えるという、素晴らしい僥倖があった。
同じものを作る気力はなくて、ごくごく簡単なものを作り直して、30分で完成ということになった。
ということで、しょぼーく目的達成して新年が始まった。
今年はこういう方針で行こう。
とりあえず目的達成、しょぼくていいから 笑。
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ミスターロボットも第3シーズンまで全部見たので、もう一度見ようと思ったけど、最初のあの緊張感は当然得ることができず、よくできているとか、そうか、これは伏線だったのかとか思いつつ、モノづくりの方法的な部分を学ぶ。それにしても、このサウンドの使い方は凄い。
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ウィーンフィルの演奏が、久しぶりにクラシックを聴いたら、チョー良くて、心がどろどろと溶けてこれ以上溶けたらやばいとチャンネルをかえたら、ちょうど、どっちが本物?!みたいな番組でオーケストラをどっちがプロのオケでしょうかという場面で2つを聞かせてくれたのは、3段階のオケを聞くことができて面白かった。
アマは技術的にはダメでオケになっていないのだが、日本のプロは音が子供じみていて貧乏くさいので聞くに堪えない。ウィーンフィルは完ぺきなテクと豊饒な音を聞かせてくれる。
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去年、やっと幼年期が終わったように感じた。
それは、アブラハムがモリヤ山に行く前と後のような違いです。
「アブラハムのイサク献供物語」という330ページ余の本があったので、まずはざっと眺めたけど、たぶん要は定説はないし、だれも分かっていないっていう感じ。
哲学なら論理的に深く思考するするのも正しいが、宗教はもっと直観的に説得される部分があって、それがなぜなのか、どうして人はその物語や教義に心奪われるのかを探求して端的に提示すべき。まあ、子供向けに書く必要はないわけで、自転車に乗れない人に自転車の乗り方を言語で説明するのは意味ないけどね。自分で乗れるようになるしかない。
もちろん、宗教を主宰する側は、自己の教義を秘儀にして信者を獲得するという必要があるから、絶対に説明はしないというやり方は正しいのだけどね。
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幼年期が終わって、アートに耽溺しなくなった。
アートの価値がなくなったわけではないし、ウィーンフィルとか見ればやはり素晴らしいとは心底思うけど、アートは世界の部分にしか過ぎないのは、当然だよね。
バンクシーは良くてカイカイキキはダメな理由はそこだ。
理論的根拠は同じところもあるのだけど、バンクシーは明らかに変わっていっていて、成長していて、彼/彼女の社会性がどんどん具体的に力を持って行って、たぶんそれは多くの人の支援があって、ひとつの起爆剤としてバンクシーブランドを機能させたい人がたくさんいるからなのだろう。
要はコミュニケーション能力の有無。
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日本の、とくにビジネスシーンだと、コミュニケーション能力って、飲み屋の接客みたいな、音声が途切れないことだと思われている。もちろんアイスブレイクも必要だけど、それらは本質じゃない。
最近、ビジネスパーソンはMBAじゃなくてアートを学ぶべきだよ、という話があるけど、その話自体が単なる新たなビジネススキームに過ぎないから。でも、悪い方向ではない。私はMBAに行っておけばよかったと最近痛感してるけど。
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とにかく、
コミュニケーション能力というのは、まずは隗から始めよ、ここにある自分自身とコミュニケーションできなきゃだめで、それには「神」なり措定して練習しなきゃダメなのね。
そういうことで、ファイトクラブなりマトリックスなりそしてミスターロボットも人格が分裂したり、パラレルワールドが出現したりで、自己の内部とのコミュを図って、そのうえで外部とコミュできるようになるという構造のストーリーになって、それは人々の共感を呼ぶ。
「不安」というのは内部とのコミュができていない状況。
アートは「神」的に機能する概念。それ以上のものではない、「神」以上のものではない 笑。
神以上ったら、自分そのものしかない、自分は神と同値だから。神を超えはしないけど。
練習は終わったので、措定する「神」ではなくて、客観的な神を探しに行こうと思ってる、そういう新年。

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The Banksy stunt

今年はたくさんの印象的なことがあった。

思うところあって、職場のほとんど全員と、ご飯を食べに行ったりじっくり1人づつ話す機会を持った。
これは意外に得ることが多くて面白いことだった。
結果として仕事のレンジがぐんと広がった。
マレーシアで知人の家族と親しくなれたのは良かった。
など多々、プライベートは満足の1年だった。
世界の出来事でいちばん大きなイベントは、バンクシーの風船少女の裁断の件だ。
サザビーズのオークション会場で、ハンマー音を合図に額縁から縄のれんのようにピラーっと落ちてくるのを最初見たときな意味が解らなかった。
案の定、あの画はほぼ倍の価値を持つようになり、バンクシーは自分のブランド価値を高めつつオークションシステム等の批判を成功させるという、まったくすごいことをやってくれた。
ちょうど画の真ん中あたりで刃がストップし半分ピラピラというのは、バンクシーが言うには「全部切るつもりだったのが失敗した」ということだけど、下記PBSの番組の通りバンクシーは計算して半分っで止めたのだろうな。
ということで、今年も有難うございました。
来年もどうぞよろしくお願いいたします。

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