ジョン・カーニー「はじまりのうた」

ダブリンの街角で、と、シングストリートを見ていたので、同じ監督の本作も迷わず視聴。
時系列としては、ダブリン→はじまり→シングの順だけど、これはダブリンとシングを足して2乗したような内容。
すごいいい。
キーラナイトレーの歯並びの悪さが、やっぱり素敵。
登場人物のファッションも好き。
何より、ポスト資本主義の雰囲気がいい。
ちょうどポールメイソン「ポスト・キャピタリズム」を読んでいて、本のほうは日本語訳が酷いみたいでよくわかんないのだけど、この映画はとても解りやすい。
ポスト資本主義が何なのかはおぼろげながらも見えているとしても、それが成立するにはどうすればいいのか。
DONOTPAYとこの映画を見てわかったけど、本物が認識できることが要件みたい。
自分のやるべきことが認識できて、それを形にして生み出すことができること。大量生産に飲み込まれずに、自分の目で世界を見る力。正しいことが分かっているから、他人を信じることもできる。他人を信じることができるなら、特別な家族や恋人やそういう既成の関係性に縛られることもない。
もちろんポスト資本主義を論じるには経済学の分野も重要だろうけど、最も大事なのは人のマインド。時代の雰囲気。
この映画はポスト資本主義の鍵になるのはキリスト教かもと思っているのだろう。
キーラナイトレーの演技は的確だった。お仕着せの関係性ではない、自分自身の人間関係を営んで行くことを能動的に選択する姿は美しい。
こんな100%同意できる映画を見ることができたのは僥倖だわね。
細かいとこも、すごく良かった。
主人公の音楽プロデューサーがジャガーの古いのに乗ってるのが良くて、そういう感性の彼だから、イギリスから来た女性(ナイトレー)のギターの最初の出だしで引き込まれてしまう。
そのイギリス女性と恋人、そして友達の男性3人はともにブリストル大学での友達で、ニューヨークに音楽をやりに来ているのだけど、ブリストル大学の自殺率は有名で、だから、主人公の女性の最初の歌が自殺を歌っていたのも、彼女にとっては自殺は身近だからなんだろうなと感じた。
そしてさすがだと思ったのは、音楽事務所のオフィスのシーンが何度か出てくるのだけど、うまい具合に耳障りになるように電話のコール音が鳴っている。低い音量だけど、巧みに耳障りになる音。ゴージャスでクールなオフィスを視覚では見せつつ、サウンドで辟易させる。若干サブリミナル的に、うまいわ。
そんなこんな、ミクロもマクロもいい映画だったわ。

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松原望「ベイズの誓い ベイズ統計学はAIの夢を見る」聖学院大学出版会

ベイズ統計学の最もわかりやすい本はないかと思っていたら、たまたま新刊本のコーナーで見つけた。

未知の著者だけど、統計数理研究所からスタンフォードでドクターとって東大という経歴。いちばん引っかかったのは、本書の発行所が聖学院大学出版会という点。
これは非常に面白い本だった。
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コストの面は考慮外とするなら、どの標準治療を受けるのか受けないのかは、受けることで享受しうるメリットと可能性としてのリスクとを比較考慮して判断することになる。
医師は医療過誤(による訴訟?)を恐れているし、こちらも一応そういうことは頭の片隅にありつつ、検査の数値を統計値に照らして最終判断は患者側が行うわけだが、これは非常に興味深い体験だった。
私の人生で確率がこれほど大きな意味を持ったことはなかったかもしれない。
自分の腫瘍のタイプがマトリックス的に類型化され、その類型ごとの無病生存率の曲線が描かれていて、たとえば、3年後の無病生存率が28%だとこれはやばいと治療を進めることになるのだろう。
ただ、そもそも「無病生存率」って何よ、ということもあるし、統計の数値の意味が理解できず、医師がふとこういう方法もあるはある、と言った内容が身体への侵襲のないお財布だけの問題だったのでその数値を加えて見たら、全く評価が変わって、まったくこの統計表はなんなのかと、思ったのだった。
(抽象的すぎる話ですみません)
まあとにかく、
あの時は、統計って確率って何なのか、初めて真剣に考えたということです。
標準治療の文献はそこそこ読んだし(ただし自分に関係あるとこだけ)、標準治療以外の選択肢もざっくりとは調べたけど、どうも説得的な情報はあまりなくて、たまたまちょうどその時公開されたカナダのアルバータ州のパブリックな報告書が私の場合には最も役立った文献だった。
バイアスのかかった統計ではなくマクロな視点からのコスト面でのアプローチというのが、私には非常に説得的だったわけですね。
とにかく、統計として示されている数字は信用できないことが多い、その数値から導かれる確率なんて本当に嘘くさいと思った次第。
.(治療の過程で、「これは副作用があったらすぐ電話してください、でもほとんど出ないから大丈夫」、と言われた薬が滅法副作用があって、たしかに調べたら副作用の出る確率が5%程度だったのだけど、その5%に自分がはまったわけで、あの時の医者の「いやー、これはめずらしい、僕、初めてですよ」と人の不幸を嬉しそうに笑顔で言われたのは、じつはいやな感じではなかった。
ただ、95%安全と言われても、自分が5%の側になって最悪死んでしまったら、たとえ十分有意な確率値であっても主観的には意味ないともおもた。)
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とはいえ、確率は重要ではありますよね。
雨の確率が10%なら傘はいらないけど、40%で素敵な服を着てくときはやっぱり折り畳みをバックに忍ばせることになります。
あと、本書ではAIとか自動運転とかコンピュータの話につながって、シンギュラリティの話になって、邦訳があまりに悲惨ということで形而上的な話になって、もう素晴らしい展開です。
さすが聖学院大学出版会。望外の面白い本を私にアクセスさせてくれました。
ただ、そもそもベイズ統計を知りたいと思ったのは、訴訟での立証行為をロジカルに検証したかったからなのですが、確率ってなによ、という点を少し考えてから、本筋に戻りたいと思いました。

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「ゲッベルスと私」紀伊國屋書店

同じタイトルのドキュメンタリ映画の書籍版。

ナチス宣伝相で秘書をしていて、ヒトラーたちが自殺したあの総統地下壕に勤務していた女性ポムゼルへのインタビュー。
2013年2014年に収録され、2017年に映画と書籍が公開、ポムゼルは17年1月に106歳で亡くなった。
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ポムゼルは戦争のころ、若くてカワイイ女性だったのだろう。
彼女の容姿の美醜はさておき、いわゆる"カワイイ"だったのだろう。
彼女は本書で一貫して、私は何も知らなかった、私には罪はない、と言い続けている。
水晶の夜事件がいかに戦慄であっても、ある日突然いなくなった友人のユダヤ人女性については「きっとここでよりも安心な生活をしてるのだろう」と思い込み、ヒトラーのちょっとしたジョークを言った同僚が処刑されても、・・・彼女は私は何も知らなかったという、そしてだから自分に罪はないと。
いわゆる「合理化」という簡単な言語で理解してはいけない事実がここにある。
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本書に対しては、様々なスタンスがあるだろう。
本書には日本人監修者の文章も掲載されている。ハンナアーレントを引いて説明したりしている。無思想性を批判し、民主主義下でも類似の状況が起きうるという。
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ポムゼルは1911年1月生まれだそうだが、ドラッカーが1909年11月生まれなので、彼らはほぼほぼ同年齢だと理解してもいいだろう。
ドラッカーは14歳の誕生日の直前のある日、デモの隊列から離れた、そのときから彼は自身を「傍観者」として体現してゆく。
ポムゼムは1943年2月のゲッベルスの演説に際し自らの「傍観者」たるを認める(本書108ページ)。しかし、彼女は「ゲッベルスの真実の顔を私はゆっくりと発見していった。」(106ページ)だけだった。
ポムゼムはあの時代に逆らうということは直接の命の危険があり、それはできなかったのだともいう。
いいですか、問題はそこではないのですよ、ポムゼムさん。
あなたに、あなた一人に行動を求めてはいません。
あなたの自己欺瞞、あなたの逃避する精神に、同じ人間としてそれは間違っていると言いたいのです。
あなたは間違っている存在として歴史に刻まれます、ほかの多くの孤独な人々と同じように。
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ポムゼムが愉快な思い出として述べているのが、犬の話だ。
ゲッベルスがベネチアに滞在しているときに、飼犬が恋しい、とか言ったのを、側近が宣伝省に連絡してきて、大臣に犬を届けろ、ということになり、どうにかこうにか犬を飛行機で送り届けたら、ゲッベルスが激怒し、繊細なこの犬を飛行機に乗せて送ってくるなんて、とすぐに送り返した、という話。
ようは忖度という話。
どこかの国と全く同じ。
素敵な話。

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ウエンツなにがし

他人の言葉にふと心が動かされる、ということはたまにある。

前にもたぶん書いたのだが、ウエンツ瑛士というテレビに出ている人がいて、彼のことはその名前の読み(えいじ?えいし?)もなにもほとんど知らない。

以前、たまたまテレビをつけたとき、彼が、暇なときは何してるの?と尋ねられて、「時間が少しでもあると海外に行く」というようなことを答えていたのを見た。
そのころ、私は体調が思わしくなくて、いったいどうしたものかと考えていたのだけど、そうか、海外というのは時間が見つかればサッと行ってしうものなのだなと、妙に腑に落ちて、直後にロンドンに行く準備を始めた。
念のための病院の手配とか、知人への依頼とか、していったのだけれど、いざ搭乗口に向かうときに不安感がのしかかってきた。このまま飛行機に乗っていいのか。
そのとき私の眼前にいるのが彼だと気づいた。
たんなる偶然ではあるけれど、この飛行機に乗ることが間違っていない気持ちがして安心した。
そして、つつがなく、というか明らかに格段に元気になって帰国して今に至っている。
ロンドンの水と空気が私の体質に合っている、という感覚は強くあったけど、あれは一種の転地療法になったのかもしれないし、とにかくひとつのトリガーだった。
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.話としてはそれだけなのだが、
私としては、彼からロンドン的なるものへの渇望を感じ取って、それを共有したのだろうなあと感じている。
言語化されなくても、明示的に認識されなくても、伝わるなにがしかがあるのだと考えている。
同じことはフランシス・ベーコンにも感じていて、ウエンツ君がベーコンをどう感じているか、そこはちょっと興味がある。

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ローリー・スチュワート「戦禍のアフガニスタンを犬と歩く」

UKの刑務所の自殺率の激増が問題になっている。
刑務所担当法務大臣(というのか?)が、その原因である麻薬と暴力の監獄環境を改善できなければ辞任する、としゃべっていて、彼の顔つきというか歯並びの悪さが印象的で、ググってみたらこんな本を書いていた。
もうさ、UKはすごいよ。
こんな心身タフな男がいて、45歳ぐらいで大臣やってる。
この本は、2002年にアフガニスタンを歩いて横断したという体験談としてももちろん興味深いのだが、彼のマインドが強く心に突き刺さってくる。
29歳のスチュワートはアジア(イラン・パキスタン・インド・ネパール)を踏破したあと、タリバン崩壊の報に接して、自己の旅の間隙を埋めるべくアフガニスタンのヘラート・カブール間の、直線距離600キロぐらいの制覇に挑む。
格別の理由はなく、単に自分で決めて歩きとおす、そういう移動の過程だ。
たまさか旅程の半分ぐらいのところで大型犬を、なかば地元民に押し付けられるように連れて行くことになり、後半は犬と歩くことになる。
スチュワートも犬も、飼いならされていない性質が共鳴する部分もあるにしても、とにかく生命をつなぐために歩いて行く。
途中、何度も車に乗る機会があるのに、乗らない。
赤痢や極寒や餓えや暴力が、なんども彼らを死の淵に立たせるのに、歩いて進んで行く。
いやほんと、ある種の狂気というか馬鹿というか、ありえないよ、彼のマインドは。
しかも、それらを記述する筆は淡々としていて、おいおいここでは死にそうになっているのにこんなにさらりと書くだけでいいのか、と思わず読み返してしまう。
チャンネル4のインタビューで、アンカーパーソンが改善するにしても予算が圧倒的に少ないのでは、また、刑務所の環境だけを変えようとしても問題解決にならないのでは、と言っているのに対して、正しい対応を社会全体で進めて行くというような抽象的な答えをしているのだけど、しかし、彼には「逃げている」感はなくて、しぶとさというか、とにかく前に進むしかないというのはこの短いインテビューでも理解できる。
この人は注視してゆこうと思う。

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ダークツーリズム

井出明著、幻冬舎新書「ダークツーリズム」および美術出版社「ダークツーリズム拡張」を一読した。

たまたまであるが、ローリー・スチュアート「戦禍のアフガニスタンを犬と歩く」も今読んでいて、これもダークツーリズムと言えばいえる内容だ。
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ダークツーリズムとは、ポストモダンの文脈における人類の悲劇を巡る旅をいう(そうだ)。
何を持ってポストモダンととらえるかは「今」をどう認識するかとの関係性で決まるので、ダークツーリズムも主観的な関係性でカテゴライズされる側面がある。
同じひとつの被災地が、外部者からするとダークツーリズムの対象になるとしても、そこにかつて住んでいた人にとっては、土地と今との連続性が個人の生活レベルで存在していて、そういう側面ではダークツーリズムにはならない。しかし、かつて居住していた彼・彼女が歴史的社会的にその土地を捉えなおすとき、それはダークツーリズムに該当するのかもしれない。
また、単に物見遊山で悲劇の地を訪れるのも、これもダークツーリズムではない。
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このようにダークツーリズムは、真実探求の方法のひとつであるから、学術的なものである。
しかし、その学術性はツーリスト側に立証責任があることが、ほかの確立した学問分野と違う。
「ダークツーリズム」という言葉自体、できてまだ20年程度しか経っていないのだから、認知度が低いのは仕方がない。
くわえて、このようにほぼ直接人の生死や悲劇を学問対象とすることが可能なのか、という部分も、実は存在していると思う。
真実を探求し後世に伝えるため、学術的な目的である、興味本位ではない・・・実際にそうであって明らかに必要性が認められるツーリズムであっても、では悲劇の当事者の立場性はそこでは考慮されないのかという、別次元の観点が存在するからだ。
それは社会と個人の対立構造とパラレルであり、答えはない。
それでもツアーに赴くのであれば、そこには相応のパッションがなければならない。
「探し物なら他をあたってくれ」と言われたときに、「いや、ここにあるはずなんです、どうぞ見つけさえてください」といえるパッション。
ただ、これはどの学問分野にも内在していることだ。

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いちばんしあわせな日

今日は一番幸せな日だったかもしれない。
とくに変哲もない普通の日、だけど内心において私は私の人生に触れてたしかにそれを愛撫した。

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10代のころから、もし40歳を超えて生きていたら、幸せな日が訪れるだろうと思っていた。
その日が今日だったのかもしれない。
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知人の牧師が以前から言っていること、要は愛ということだけど、彼のいう意味がわからなくて、でも、それは言語的な意味を尋ねるという性質のことではないとは解っていて、ずっとずっと考えてきていた。
それが、ふわりと、ぱたりと、先日、解った。
人は変わり続けなくてはいけない、自分があるべきと思う方向に。
変わることで、私は私自身を発見し、発見は愛となる、自分を愛することができる、自分を愛さざるを得なくなる。
そして、人は自分を愛することができなければ他人を愛すことはできない。
まあそんなこと。
そんなことがあって、ドラッカー読んで、小さな何かが重なって。
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ごくごく変哲のないこの日にこんな質量が生まれようとは。
こういう日を私は望んでいた。
2018年8月23日木曜日。

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ドラッカー「経済人の終わり」

このところお金に関心がある。
ずっと数字とは縁のない生活だったのだけど、バチカンの前法王退任の件およびいわゆるme too運動が、そもそも資金の流れの解明をきっかけに起こったことから、お金の流れというものに関心を持ち出して、パタパタとお金に縁が出てきた。
ただ、これは自分の収入が増えたという意味ではありませんが。

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そんなこんなで、私のことだからまた古典的な本を読みだして、バフェットとかドラッカーとか、初めて読んだ。
バッフェットもマンガーもとても面白いけど、ドラッカーには気絶しそうなぐらいガーンときた。
数冊しか読んでないし、そもそも経営マター自体にはあんまり興味ないのだが、この「経済人の終わり」はもの凄かった。あきらかに20世紀の圧巻。
ナチズムが手に取るように明確に分析されていて、初めて深く深く納得できた。
これはドラッカーの29歳の処女作なのだけど、経営の本ではないし、まさに彼が命を懸けて出版したことは「傍観者の時代」に書いている。
バイブルについて感想文が書けないのと同じで、本書については感想的なことは書けない。
とにかく圧倒されるだけだ。
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ドラッカーという人がこの本を書いたというのが、ほとんど真実だと信用できるのであれば、キリスト教が存在して、あれが作り話ではないというのも等価に信用できるというものだ。
要は、人はこんなことがこんなすごいことができる、という意味で。
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ベーコンを知って、それまであんなにアートに心酔していたのが、とんと興味が失せた。信じられないぐらいに何を見ても色あせて見える。
たぶんこのドラッカーの書を読み込んでゆくと、もうほかの本(ただしバイブルは除く)、プリモレーヴィですら、きっと色あせてしまう気がする。
色あせる、といっても相応の価値があって、ただ、私にとっては確認作業になって流す感じになってしまうということですが。
アートと本が私の生活から失せたとき、私がどういう私になるのか、興味深いことだ。
「経済人」になるのかな。

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ダニー・ボイル「スティーブ・ジョブズ」

ジョブズの娘リサが9月4日に本を出すという記事があった。.

2人でジョブズの黒いポルシェに乗っていて、リサが軽く
「買い替える時は私にちょうだい」と言ったら、
「だめだ。お前はまだ何をもしていない、何もだ」と非常に辛辣に言われた、そうだ。
リサ自身、それが車のことなのかもっと抽象的なことを言っていたのかわからないと書いている。
親子の関係はあまり目にしたくないと思っていたので、ダニー・ボイルのジョブズはこれまで観ていなかった。
でも、このポルシェの逸話を読んでリサとの関係も観てもいいかな、と思った。

いくつか見たジョブズに関する映画のうち、ダニー・ボイルの作はもっとも良いものだった。
真実を描いているのかどうかは知らない、けれど、人間のある部分を誠実に描いていて
私は心を動かされた。
映画は、1984年Macintosh、1988年NeXT Cube、1998年iMacの3回の発表のまさに直前だけを描いている。
おおよそのジョブズの人生を了解していないと、映画の筋が追えない。
私はマックやジョブズのことに格別は詳しくないので、たぶん了解できていない部分が多々ある。
ただ、要は人は変わるということは、良く判った。
妥協とか矯正とか、そういうものではなく、経験は人を内側から変えてゆく。それはほんとうに美しいことだ。
いや、美しくあってほしいと願う。

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16歳の合衆国、ニューヨーク 眺めのいい部屋売ります

先の連休に、いずれもテレビで鑑賞。

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「16歳の合衆国」はライアン・ゴスリングに似た少年が出ているなあと思ったらゴスリングその人だった。
監督は、重大犯罪を犯した少年たちと実際に接してこの物語を書き、脚本を気に入ったケビン・スペイシーが製作にも加わわっている。
無垢な白人少年が恋人の知的障害のある弟を殺害するも、その理由が本人にもわからないというストーリー。
最後は小さな転換があってオチがついて物語は収束する。
普通の子供が学校で銃を乱射したりして殺人を犯すのは何故なのかというアメリカ社会の問題意識があって、本作でゴスリング演じる少年は彼の繊細な感覚が悲しみを敏感に捉えて増幅させてしまい、耐えられなかったのだと語る。
突発的になされる自殺があるように、計画性なく理論的でなくなされる殺人があるのは判る。カミュの異邦人と主人公の相似性が映画中でも描かれていて、その不条理性に観客は共感を寄せることになるのだが、でも、それはちがう。

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「ニューヨーク 眺めのいい部屋売ります」はダイアン・キートンとモーガン・フリーマンが夫婦で、リフトのないコンドミニアムで40年間生活してきたけど、年齢的に階段がつらくなって引越すために不動産を売却に入る、という話だった。
ニューヨークに暮らす人々、911以降の世界、年齢を重ねることについて等々が描かれて、観客はキートン演じるところの年齢を見事に重ねたスタイリッシュな主人公に共感をもつことになる。
しかし、たぶんこの映画は主人公の彼女に共感してはいけないのだ。

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「合衆国」も「ニューヨーク」も、主人公は主人公として成立する程度に主体性や魅力を持っているわけだけど、反面、彼らはとても自己中心的で社会性に乏しい。カートゥーンのように輪郭が明確だから映画の主人公としては描きやすいけれど、リアルに生きる人物としては浅薄で弱弱しい。
これは一体どういうことなのだろう。
これらの映画ではいったい何を描こうとしているのか、主人公たちは被害者なのか?そういう描き方は日本的だと思っていたけど、アメリカに輸出されてたのだろうか。
リアルに生きていない人々が映画の主人公になる。

私自身としては地面に足をつけて生きている感覚を持っていて、世界とのギャップを感じている今日この頃。

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