ネコノミクス

猫組長の本。
もちろんアンダーグラウンドは全然知らないけど、まあこれは本当なんだろうなあと思う。
ここまで想像を絶することが世界にはあるのだという、それを知っておく必要はある。

思考が杜撰で行動力だけはある人々が世界には大勢いる。
予想していたけれど、かなりグロテスクで、つらい本だった。
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今回マレーシアに行ったのは、結婚式のためということではあるけれど、ほかに、この国をチラ見しておく必要性があったことと、あのジャングルの風景を一目見てみたかったからだった。
レスリー・チャンがもっとも美しく、マギーが切ない、カーワイの珠玉の映画「欲望の翼」のオープニングはたぶんマレー鉄道からのジャングルの風景だった。ほとんど最後のシーンもマレー鉄道の車中。
湿度が高く息ぐるしい深い緑の、あの風景を体験したかった。
マレー鉄道に乗る時間はないなあと思っていたけど、いやいや空港からのエアポート急行の窓からは映画そのものの風景を見ることができたし、クアラルンプール市内でもところどころにジャングルが残っているのだった。
深い緑の下は思ったよりは快適で、木陰には爽やかな風が通ってゆく。ただ、蚊とかの虫が多いところはすごく多く、伝染病は怖そうだった(から、そういう場所には行かなかったよw)。
花様年華のトニーがアンコールワットで秘密を告げていたように、私もあの熱帯雨林に思いを刻んだ。
このジャングルの体験ができて、マレーシアに行った甲斐があった。
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去年、香港に行ったのも仕事がらみの切っ掛けではあったけど、香港の街、中でもカーワイの映画の多くの舞台となった重慶マンションに行ってみたかったのだった。
30年ぐらい前の撮影だから、もう全く別の雰囲気なのかもしれないけれど、とはいえ、場所は時間を記憶している。
カーワイは、ドリルは、とても才能があることは確かなのだけど、でもあの街あの建物ががあったからあれらの映画はできたのだと、場所のエネルギーの映画だったのだと理解することができた。

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マレーシア

マレーシアに行って、マレー系の結婚式に参列してきました。
たった5日間だけでしたが、多くの人ととても親しくなれました。
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マレーシアは日本よりずっと過ごしやすい気候でした。
日中の数時間は日差しがつよいものの、木陰に入れば涼やかで、朝晩も気温が下がるので、日本のような寝苦しいということはないのでした。
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言われているように人も良くて、ムスリムが多く信仰が生活に生きているので、気持ちが安定する雰囲気がありました。
定期的にお祈りがスピーカーから流れてくるのは、異国を実感しつつ、どこか物悲しい気持ちになりました。

今回は、日本を抜け出して国という概念を乗り越えて生きようとしている人とも会って、とても面白かったです。
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まずはそういうことで。

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ケイト・スペイド、アンソニー・ボーディン

ケイトの洋服は、裏の見えないところにハッピーになるたくさんのメッセージが書かれていて、それがとても好きだった。

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これは、裾の裏側の処理が気に入って買ってしまったシルクのスカート。
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ブランドは個人とはかかわりなく永続的な経営を目指すのかな。
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アンソニーは、ディスカバリーチャンネルのNO RESERVATIONSで、彼の多様性を受け止める力強さが鮮烈だった。
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年齢を重ねて、経験値もそれなりに高くなって、ときどき、この人は常軌を逸しつつあるのかな、と感じるときがある。
人々の精神はタコツボ化を極めている。
海に沈んだ貝のように静かに生きていけたらいいのかもしれないけれど、高度に都市化した環境で生活する限り何らかの触手を外部に伸ばさざるをえない。
私自身だって、ふとボタンを掛け違えたように命を無くす可能性もあるのだと自覚しつつ、しかし、できればそのような事態は自他ともに避けたいと強く思う。
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人は環境が変わると認識基準が変わる。
ミクロでベストを尽くすときと、マクロで俯瞰したときとでは価値観が変わるのだと、最近体験した。
拙速という言葉は知っていたけれど、意味合いが全く違った。
このマインドチェンジの鮮やかさを覚えておかなくてはと思った。
私は必ず間違いを犯す、という存在なのだ。
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金曜日にラマダンが終わって、ご飯を食べに行った友達が、「ラマダンは練習なのだ」と言っていた。神に近づく練習、というようなことだった。
神のようにはなれない、と神との隔たりを感じるための期間というようなことも言っていた。
なあるほどであった。
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まったく関係ないが、そんなラマダンの話をしていた隣で、20代ぐらいのカップルがプールに行く計画を話していた。
チャーミングな会話で、おかげでとてもハッピーな気持ちになった。
他人の会話でこんな気持ちになったのは始めたかもしれない。

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プリモ・レーヴィ「休戦」岩波文庫、映画「否定と肯定」

アウシュビッツから1945年1月に解放されて、10月にイタリアの故郷に帰るまでの数千キロの過程。
ポーランド、ウクライナ、ベラルーシ、ハンガリー、オーストリア、そしてイタリア。
絶滅収容所に入れられて生き残った人たちは、てっきり連合国の交通手段ですぐに自国等に帰国するなりしたのかと思っていたがそうではない、過酷な旅程。
平和な日本の私には話について行けないほどの複雑な旅程。

「否定と肯定」はペンギン社事件の映画化で、イギリスの司法システムや弁護士の雰囲気が解り易くて面白かった。
ただ、名誉棄損事件で被告側に立証責任が課されているのがアメリカと違って不合理という点が強調されていて、しかも、イギリスには推定無罪はないので、とあたかもすべての民事刑事事件で訴えられた側が自己の無罪を立証しなければならないとも受け取れるように表現されてしまっていた。
なぜ被告が自己の言論が名誉棄損に当たらないことを立証しなければならないのか、表現の自由の意味も名誉棄損の特殊性も説明されないまま、イギリスのシステムはちょっと変わっているけど、裁判官がきちんと判断しているなら結論としては良いのかな、というブラックボックス的な印象を見る人に与えるのは随分と宜しくない。

それと、本件はアウシュビッツでのユダヤ人殺害は組織的でなかったという原告の主張を証拠で否定してゆくのであるけれど、被告の法廷弁護士が実際にアウシュビッツに行って現場の確認をしているのがあたかも特別にスゴイ行動のように表現していたけど、そこは特別じゃないし、また、生き残りのユダヤ人に証言させると証人自身を傷つけるし裁判の進行としても失敗するという点も、感情論でまとめてしまって、これらもややがっかり。

娯楽映画というのはおよそこういうもの、とも解せるけど、ユダヤの人たちが広報というか、台頭するネオナチへの危機意識もあって制作された映画なのかと思う。
ネオナチ否定が前面に出て、その他の部分の事実確認や掘り下げが不十分なのかと。
ネオナチは本作よりも格段に浅はかなわけで、あえて2項対立的に情緒的にざっくり見せるのもそれはそれでいいのかなあと考えました。

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ダブリン

フランシス・ベーコンは毎日見ていても飽きないよ 笑。
自分の子供の画を見るように、飽きるとかっていうレベルではなくなっているからかもしれないけど。

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ロンドンのアトリエあとに行ってみて、そこでペンキを塗っていたお兄さん(たぶんベーコン財団の職員)に絶対ダブリンのアトリエには行けと言われたし、自身でも行かねばならないと感じたけれど、アイルランド自体には必然性を感じていなかった。
というか、少なくとも半年とか住むレベルなら絶対行ってみたいけど、旅行レベルの滞在では魅力を逆に感じていなかった。
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ということで、ジョン・カーニーの映画を2本見たよ。
「ワンス ダブリンの街角で」「シングストリート みらいへの歌」
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両方ともと~っても良かった。
若者の感じる閉塞感、経済面・精神面・文化面での葛藤がリアルに伝わってきて、でもそこを切り開いて行く力がほんのわずかなきっかけで鮮やかに展開してゆく。
美しいストーリー。
結局はさ、何かを生み出さなければ自分が生まれないってことよね。
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シングストリートのほうは特に80年代のブリティッシュロック?ポップ?が時代背景で、その点「アトミック・ブロンド」と同じだけど、もっと音楽がメインなので、あの時代のMTVの雰囲気とかも分かる。
週一回のテレビ放送を楽しみにして、ミュージックビデオをみて、バンドの情報を聞いてうやうひゃ喜んで・・・なーんだ、日本の私たちとリアルタイムでおんなじことしてたんだあ、って思うと、映画の登場人物の気持ちにもぴったりシンクロできる。
もちろん、映画の登場人物たちのようなラフでハードなコアは私は持ち合わせていなかった。身体生命にかかわる問題は、一見して私の周りにはなかったからね。でも、むしばんで行く問題は在ったんだけど。
そして、この映画では、脇役のエイモン君がとっても素敵だった。ウサギ大好きのちょっと奇妙なキャラが魅力的で、これが演技なら本当にすごい。UKだと普通なのかもしれないけど。
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ワンスのほうは、もう少しおとなの、でもこっちも音楽を作ってゆく話。
主役は実年齢だと36歳らしいので、中年にさしかかった引きこもりが音楽という一点突破をしようとする話。
主演の男女はたぶん名前が出てこない。
そして最後も予定調和に落とし込まれない。
これがアイルランドっぽさかなあと、すんごくいいなあと思った。
最初のほうで、主演の女子が掃除機を転がして歩く姿が良くてもうあのシーンでやられたね。
それは、私がロンドンの住宅街で掃除機が転がっているのを見て、めちゃくちゃ面白かったのを思い出したからなんだけど(単に歩道に掃除機が転がっていた)、でもこのシーンはロンドンの風景なしても絶妙に素敵だと、一緒に見た人が言ってたよ。
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閉塞感とロンドンへのあこがれ、変わりたい自分。
吐きそうになるぐらいよくわかるよ。
海の向こうにイギリスの島影が見えるなら、私も絶対ポンポン船で行ってしまう。
ということで、気持ちの重ねられるダブリン、ダブリンに行きたい気持ちになりました。

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ライオン兄弟、ハイライズ

テレビで見たディスカバリーチャンネルのドキュメンタリLions of Sabi Sand: Brothers in Blood。
南アフリカのサビサンド動物保護区で産まれた6頭の兄弟ライオンが縄張りを広げ、分裂し、やがて台頭して生きた若いライオンに敗北するまでの16年間(詳細情報)。

これは秀逸。トラウマと言ってもいいぐらいに強烈に印象的。
人間以外の生き物について、これほど近しくリアルに感じたことはなかった。
生き物に対する感覚が塗り替えられた。
生きるということのエネルギー、それ自体が美しい。

対極ともいえる内容なのが、映画「ハイ ライズ」バラードの小説のほぼ忠実な映画化。
ロンドン近郊のタワーマンション、高層階ブルジョアジと低層階労働者に暴力闘争が起きて、混沌と化してゆく。
黒いごみ袋が積み上がり、プールは死体置き場になり、食料は尽きてペット犬を喰らう。
こちらには美はない。
ごみ袋はごみ袋のまま、ハイエナもハゲタカもいないから死体は形を保持したまま腐敗する。
役者の演技のうまさとボディの美しさ、加えて演出等のテクニックで、スタイリッシュな映画になっているけれど、どうもシナリオが浅い、もしくは、作っている人たちの間でのコミュニケーションが取れていない、つまり物語の共有ができていない感じがする。
映画の主題は階級の存在と相互の認知共感の欠如だけれど、そういう映画を作るためにはテーマを顕現化させるエネルギーがなくてはいけないのだろうに、それが十分には伝わってこなかった。

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プリーモ・レーヴィ

レーヴィの「溺れるものと救われるもの」は、やはり読まざるを得なかったのだった。
本書はここ数年、読めない、本だった。
何が書いたあるだろうかは解る、しかし、レーヴィの絶望の影が必ず落とされているであろう本書を私は読むことができなかった(1986本書発行、1987レーヴィ没)。
私はまだ楽しく日々を生きていたかったから。

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最近出た「反共感論」という本を読んでいたら、そこに気持ちを動かされる一文があって、引用文献一覧を見たらレーヴィの本書が記載されていた。
この反共感論も、趣旨としては興味深く、共感という言葉がマジックワードとして珍重されている現状を否定しているのは理解できたけれど、しかし、もう一つ奥の段階の考察がなされるべきだろうに、そこまではなかった。
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とにかくレーヴィを読まなければと、とはいえ購入することはまだできなくて、図書館に行った。
すでに手に取ったことのある本の表紙を初めてめくった。
レーヴィが体験したこと、しかし記憶に基づくことのおぼつかなさ、ハンス・マイヤーの死の意味。
生物という根源的部分での、とうてい一人個人では抱えられない、これは絶望と言ってよいものだろうか。
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山種美術館で桜の企画展をやっていた。
吉野や京都や東京の桜、場所ごとに分けられた日本画が美しい。
でも、私にはもう無理なのだった。
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そのレーヴィの本を読んでいたら、最後のあたりの一文にシャープペンシルで震えるようなラインが付されていた。
公共の財にわたくしの痕跡を記すのはまったく許容できないことなのだけれど、この細いラインには救われた感覚があった。
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ヘッダ・ガブラー

イプセンの作(英語)をシス・カンパニーが寺島しのぶのヘッダで。初日。
定評のある役者と演出家のオーソドックスな舞台。じっくり味わう楽しさ。
ただ、演出の意図はつかみかねた。
なぜヘッダは死んだのか。
彼女の死が直前のブラック判事の脅迫による突発的なもののように見えてしまって、それまでの、ヘッダのキャラクタの描写と有機的に結びつかない。
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若くて美しい女性の魅力というのは、彼女がまるで永遠に変わらないような硬質さを呈していることにある。
彼女の自分に訪れる変化を認識しない強さは愚かさゆえでもあり、その愚かな彼女が真実を受容する過程が普遍性を伴うならば、それは演劇的で描くに足りるテーマとなる。
しかし、舞台の上で起きる構造転換が、たんなる不安定な精神の発露で必然性を欠くものならば、それは彼女だけの問題で観客は理解することができない。
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本作では段田安則演じる判事が主役だった。
最後のセリフ God, people don't do such things. が判事のものでシナリオ上も判事を主役に持ってくることは可能であるし、それと、くわえて幕間に私のうしろの観客が「この芝居は段田さんが7役演じ分けてできるわね」とこっそりおしゃべりしてたのも頷けることだった。観客は段田演じるブラック判事を理解することができた。
判事はヘッダの死で跳躍していた。彼は彼のゲージから脱出した。
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というのが初日の感覚だったけれど、芝居は生き物なので回数を経ることで変化してゆくわけで、主役が変化する予感もある。
シンプルにヘッダが主役となるバージョンを夢想してみるのは楽しい。
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70歳近いイプセンは神を信じていたのだと感じる。

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アラン・アルダ 全米最高視聴率男の「最強の伝え方」 青土社, 2018

「個」の時代ということなら、本書は役立ちそう。

週刊東洋経済 2018年3月10日号の書評欄でタイトルを見て、日経とかビジネス系出版社の本かと思ったら青土社だった。
著者アルダは83歳になった俳優で、アメリカのテレビドラマM*A*S*Hに11年間出演し続けた人。
全米最高視聴率男、というのはそのM*A*S*Hが11シーズン続いた最終回での77%という視聴率が、いまもなお破られていない歴代最高ということからついたらしい。
けど、ちょっと見当違いかな(この見当違いがビジネス書っぽい所以)。

本書ではM*A*S*Hはほとんど関係なくて、PBSの「サイエンティフィック・アメリカン・フロンティア」という番組でアルダが司会をしてゆく中で、科学者たちの偉業と、それに比べるとあまりに彼らの情報伝達能力が低いことを知り、これは一肌脱がねばということで、科学的視点を入れて伝達力・コミュニケーション力の重要性とそれを獲得する方法を探ってゆくというもの。

本書中、私が一番興味をひかれたのは、「ストーリー」がいかに共感や説得の際に有効かという部分。
アルダはストーリーにおける「目的」と「障害」が共感を引き起こす力だという。
その説明として講演の時に、聴衆の一人に空のコップを持たせ舞台を上手から下手に横切らせる。コップを持たされた人は恥ずかしそうにニヤニヤしてしまう。
こんどは、下手から上手に進む。
その際、コップに水を満たして「慎重に運んでください。1滴でもこぼしたら村人全員が死んでしまうことになります。」と声を掛ける。
観客のだれもが、そんな村など存在せず誰も死んだリハしないことを知っている。しかしこの設定は、観客の注意をコップに引き付けるに十分なほど強力だ。コップの側面を1滴でも水がこぼれ落ちれば、観客の溜息が聞こえてくるだろう。」
たしかにそうだろう。
物語は私たちを引き付けて、時を超えて伝達させる力がある。
それはアルダによれば目的と障害という要素が共感を呼ぶからで、さらに言えば、障害があってもそれを克服する意欲があれば共感を呼び、共感は協力の基礎となり、障害を乗り越える契機となりうる・・・ということではないだろうか。
面白い。

また、アルダはコミュニケーティング・サイエンスという活動もしていて、そこで2012年から始まったフレームチャレンジも本書で取り上げている。
「炎」って何?という素朴な子供の疑問に応えるための企画からはじまったコンテストで、初年度優勝作品はフレームチャレンジのサイトで確認できる。
原子をレゴブロックで見せて、化学反応のタームを歌にしてしまう、こんなプレゼンをする人だったら一緒に仕事をしたいとも思わせる。

アルダが本書中で引用していたハース兄弟「アイデアのちから」は、さらに分析的に説得や共感の要因を述べている。
こちらもお薦め。

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イーストウッド「15時17分パリ行き」

お買い物をしていて時間があったので鑑賞。
一緒に行った配偶者は、途中2度ほど寝落ち。
でも、私は面白かった。
この映画は、たぶんメインのタリス事件は周知という前提で、そこではなくて若いアメリカ人男性たちの普通の日常とその現象面での飛躍との連続性を描いている。

とはいえ、映画では、AK47の銃口を向けられたスペンサー君が、最初の一発が発射されなかったから犯人を取り押さえることができたシーン、あそこがたぶんハイライト。
でもあれは、どういうことなのか、スペンサー君は軍隊の訓練等で弾が出ないことを知っていたの??
2年前の事件のときに一躍時の人になった彼ら3人は、今回の映画化でも再度マスコミに呼ばれて、トークショウ等で話していたのだけど、どこかの番組でスペンサー君が「a bad primer だったからラッキーだったよ」と言っていた。
え~、そうなのか、たまたま不発だったっていうことなの?それともカラシニコフはそういうプライマーが最初はいっているものなの?
とにかくラッキーだったわけだ。
スペンサー君は I kind of took a leap of faith at him. とも言っていて(テロリストに飛び掛かってみた、の意味で)、これは彼らがキリスト教徒だからなのか、それとも若い人でもごく一般的に言う言葉なのか、私にはわからない。
とにかく、この映画と事件と彼らのメディア露出、過去と現在と虚構と現実とが混然一体となって興味深い現象を見せてくれている。
世界は舞台、我々は皆役者、ということを、シェイクスピアとは逆の方向性から、観客の方向から現している感じがする。
ザ・シェイプ・オブ・ウオーターの感じ。こういうのなんて言うんだろう、パラダイムシフト???

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