婆になるために生まれてきた

私は今年60歳だ。
髪も染めていないから、老婆というかかなりヤバい人物になっているのは自覚している。
(リア王の魔女とかは何歳を想定していたのだろう、お菓子の家に住んでいる人食い魔女は?)
若い時からあんまり体も心も強くなかったので、39歳までは頑張って生きよう、と思っていた。
そして、人間は体質など変わるらしいので、39歳をやり過ごせたら72歳まで生きられると思っていた。
なぜ39なのか、なぜ72なのか、それは自分でも知らない。
とにかく、あと12年ある、と想定できる。よね?

なってみたら、婆は最強だった。
トランプのジョーカーがババと呼ばれるように、ババは厄介で押し付けあう存在だけど(ババ抜きとか)最強にもなる、という。
私の趣味嗜好は変わっているので、この価値判断は一般的ではない。
ただ、人がなりたいようになるには時間がかかる、ということだけは本当だと思う。
自転車に乗れるようになるのに少しは時間がかかるように、病気の回復に相応の日数がかかるように。

死が誰にも訪れることが理解できるようになるには、ある程度の死の周辺情報を仕入れる必要がある。
生(せい)の自分にとっての望ましい姿が見えてくるのにも、結構な情報の堆積が必要だ。

一通りの情報収取をしてファイルに分類して、さてそれを読み込んで付箋を貼り書き込みして思索してゆく、ということになるわけだけど、この段階でいったん、私はキルケゴールが言うところの死に至る病に罹患してしまった。
ファイルの数が多いし、日々増えるし、読みたくない部分があまりに多いから。
加えて。荒れ野の悪魔のようなものが、高いビルにいると窓の外に引き寄せようとするし、列車が入ってくるときには線路に立たせようとする。
いやいや、それをすると死んじゃうし、でも、別に、今死んでもいいよね。
そこに第三の意志もかぶさってきて、「いやー、死にたくないのに死ぬ行為に強く引き寄せられるのは、オカルト的でたいへん興味深い精神構造だ。これは記憶にとどめておかないと。」、この第三の意志が決定的な役割を果たしたような気がする。

この第三の意志がストア派のいうところの「自由」のような気がしている。
ソクラテスやエピクテトスが著作を持たなかったのは、ここの概念を文字では伝えることができないと思ったからかもしれない。
ただ、いわゆるニーバーの祈りの言葉にはこの自由を希求する意欲が顕れていて、広く共有されるべくアイコンは示されている。

既視感

職場で、安倍が撃たれたことを知り、そして、犯人確保の瞬間の写真を見たとき、既視感のようなものがあった。

そんなほのかな感覚は現実への対応に紛れていたのだけど、数日経って、「ときめきに死す」だと思った、丸山健二の小説。

地方都市、選挙、大物、駅前、夏、テロリズム。

丸山の小説は一筋縄ではゆかないストーリー展開で、むしろ現実の山上のほうがフィクションのように出来すぎている。

素材が似ている、ということなのだが、私が既視感を覚えたのはたぶんその質量だと思う。

小説は森田芳光監督で映画化もされていて、沢田研二や樋口可南子などの配役が印象に残る作だった。これは原作とはかなり違う内容で、重量よりむしろ軽ろみを感じさせた(結末に意外性がある点は同じだったが)。

小説のほうは、地味な普通の描写なのに冒頭から読者を刮目させる暴力的な力がある。論理とは次元の違う力。AIに小説が書けるか、という企画があったように思うけど、こういうたぐいの文章は絶対に無理だろう。

小説自体は底知れない質量をたたえているものの、登場するテロリストは寡黙な健気さのある青年だ。

青年は浅薄ではない、けれども世界の底知れなさに立ち向かえるほどの力はなく、世界は彼をあっさりと犠牲にする。

世界が青年の返り血を浴びたのか、小説では描かれない。

ゲルハルト・リヒター展、チ。

混雑するだろうと思ったので、会期始まってすぐの平日に行ってきた。
悪くはないけど、そこまで凄くもない。
当事者性の希薄さ。良い加減のわかりやすさ。
アートはますます

むしろ、「チ。」が第8集で終わったことの方が重要。
主人公がいないという、すごいストーリー。
終わり方も失望させないものだった。

絶望しつつ楽しい、というおかしな日常がもう少し続いてくれますように。
わが亡き後に洪水よ来たれ、ではない。
私は洪水のカオスを見てから死にたい。

テロリズムと民主主義

安倍晋三はかわいそうだ。
立ちすくむばかりで義務を果たさない人々の犠牲になったという意味で。

山上がやったことはテロなのだが、
それは経済至上主義という思想への暴力的な反撃としてであって、政治家サイドが言うような、言論の自由や民主主義への脅威には至っていない。
テロは国家システムからすれば悪であるものの、日本社会の営利企業的統制の負の側面を指摘した南ドイツ新聞の解説には強い共感を覚える。

ちょうど、1か月前ぐらいから、私は自分の気持ちを変えた。
単なる感情だけでも発露させて言語で伝えようと思ったのだった。
ゴミ収取車の作業員は美しい黙礼を返してくれた。
小雨のなか、傘を開かず登校する小学生は、強がった口調で、私を微笑ませてくれた。

日本人は営利企業的統制のなかでおびえている。
今いるここから排除されたら存在できる場所がないと思い込んでいる。
たしかに人はいつか死ぬけれど、それは避けられず、未知だからと言って過度に恐れるのは間違っている、
そういう価値観を身に着けないまま、つまりおびえることで統制されやすい性質を身に着けることが奨励される社会に生きている。

民主主義は価値相対主義に立脚している。
つまり価値相対主義のつらさに耐えられる存在が、尊厳を有する個人として措定され、民主主義を成立させる。
おびえて立ちすくむばかりの存在では前に進めない。

無邪気な時代、その後

私の言うところの自身の「無邪気な時代」が終わって、まだ1年は経っていない。
その後はどうかというと。

濱口監督の「寝ても覚めても」の朝子と亮平。
ラストシーンの後、彼らのストーリーはどのように展開したと、映画を見た人は思うのだろうか。
私には、彼らが逞しく生きてゆくように思えた。
3.11で東京に住んでいる自分たちが何をしていいのかわからないまま、取り合えずの行動をしたりしていた彼ら。
どこかに不安を抱えながら、生きていた彼ら。
そんな彼らは、自分の手で今を自覚的に掴みとることで、予測できない未来を不安として捉えずに生きることを学んだ。
最も大切なものを失うかもしれない・・・、しかし、その不安が実現したとしても現実をなんとか主体的に受け止めるしかないのだ、と理解してしまえば、われわれは人として生きてゆくことができる。

私はイザクの燔祭はそういう物語なのだと考えている。
私はユダヤ教徒でもキリスト教徒でもないのだけれど、アブラハムの血筋の者なのだとは感じている。

生きるのはたいへん

子供のころ、幸せだったかといえば全くそんなことは無い。
幼い時代にも、不幸の種は存在していて、
ただ、こちらの理解力が不十分だったからそうと感じなかったのと、
世界を見たいように見るというバイアスが今より強かった。

たぶん子供は生き残るために、どこかが鈍くて、適応能力全般が高いのだろう。

あの時代を生き抜いたから、今、私は生きている。

最近、国際的な受賞が報道された各々別の映画の別々の日本人監督、
まったく別個の2本のインタビューを見たのだが、2人がともに話題にしていたのが「相模原の事件」だった。
あの事件に衝撃を受けて映画を撮ったのだと。
死んでもいい命などない、のだと。
2人は語っていた。

インタビューを見ていて、骨の髄まで偽善が沁み込んでいるのだなあ、と思った。
たしかに、人が人の命を奪うことは浅ましい。
しかし、
「命は存在するだけで美しいのか」
あの事件の本質は、それが殺害された側の命の価値の問題ではなく、殺害した側の命の認識の問題というところだ。
カルネアデスのケースで板を奪われた者が死ぬのとは問題が異なるのだ。
彼が全体主義的な価値観に極度に追い込まれたのは、全体というフィクションに効率性という機能で参加する、
そのような単純な構造でしか彼は世界を認識することができなかったから、
命という機能概念でない対象を理解することができなかったからだ。
他人を実際に殺害するのは、その内心の発露にすぎない。
「なぜ、人は人を殺してはいけないのですか」とドヤ顔でオトナに質問するそういう内心の延長。
すっごい単純な論理でしか世界を認識ができない内心。
我々は皆、浅ましいカインの末裔なのだし。

無邪気な時代が終わった

濱口監督の「寝ても覚めても」のラストはとても好ましい。
原作もニュアンス的には同じ終わり方なのだが、映画の方がより意識的で明確な表現をしている。
麦を追いかけて行った朝子が亮平のもとに戻ってくる。
亮平は朝子を拒絶しないが、彼女のことをもう信じない、最初から分かっていたことだが、と告げる。

継続した人間関係、しかし、無邪気な恋愛がはっきりと終わったものとしての。
なぜ継続するのか、継続すべきなのか、どこまで質的に変容した新たな関係を構築してゆけるのか。

映画としては興味深い、
しかしリアルの自分の生活としてはどうなのだろう。

映画の朝子・亮平と違って、私はすでに老齢に達していて、数十年の関係性を維持してきた、
この時点に無邪気が終わるのは他に代えがたくつらい。

それでも人間関係を継続するのは、無邪気で夢見がちな人生ではない人生を味わおうという私の意欲による。
私が求めていたのはこういう人生だったのだと、思う。
こういう人生において私は何を感じるだろう。

バベル

2013年からずっとフランシスベーコンのことを考えてきた。
一つの論文にする、という目的に向けてきたのだが、テーマ自体が当初より大きくなってしまって、調査にこんなに時間がかかってしまっている。
一度だけロンドンにも行って、確認したいことは確認してきたが、合衆国の美術館にも行かないでは論文が完成しない、ということで、まだ時間がかかりそう。

契機となったベーコンの額のガラスの反射についてはまったく意図的で、そこはリヒターとの関係を考えているところだけど(6月のリヒター展の開催を心待ちにしている)、論文の本旨としては、要するにアートとは何なのか、特に経済の観点から印象派やセザンヌとの関係を模索している。
並行して、まったく別の分野だけれど情報法も眺めていて、明らかに法曹の手には負えなくなって技術的リテラシが必須になっているのも、ベーコンの理解の一助になっている。
近代の認識だと、法律や芸術は(神を介在して)市民が広く理解できる対象だったが、現代はそうではない、ということ。
これはバベルの塔によって、人々がコミュニケーションを断絶され世界に散って以来、最大の出来事だ。

個人的にはちょっと前までキリスト教が世界再生の鍵になるかと考えたりしたけど、戻るという選択肢はあり得ないのだと認識している。
ここの世界に過度の愛着を持つのは、主観的には理解できても客観的には正しくはない。

DOWN THE ROAD The Making of “DRIVE MY CAR"

濱口竜介「ドライブ・マイ・カー」のメイキング映像。
2時間ほどの、購入したブルーレイの特典映像、というか一種のドキュメンタリ。
濱口さんにはほんと申し訳ないが、作品よりもあなたという人間自身こそが人を感動させると思うわ。
本編より、むしろこっちで泣いた。

おおよそ時系列で撮影現場を映しながら、ところどころでキャストのインタビューを入れている。西島秀俊のインタビューが最も多い。
広島での家福の宿、あまりに素敵で、リハーサル(?)でワタリ役が笑顔で手を振るのに、泣けた。
自分のシーンがすべて終わった役者が、花束などを抱えながら去ってゆく場面は、いちいち泣けた。
プロデューサーが、いろいろ困難があった、でも監督が何とかしてくれた、いやいや皆で解決したよね、という会話に泣けた。
4人で会食のシーンがなぜ魔法のような時間だったのか、高槻の続きの話のなぞ、その辺が少しわかった。
とにかく物凄く貴重な映像特典だった。
濱口監督は、ほんとうにほんとうにほんとうに恐ろしい人だ。

「ドライブ・マイ・カー」とウクライナ侵攻

見た。

濱口作品の特徴は、不思議なリアルさで、
このリアルさは映画をまるで現実のように感じさせるだけでなく、見終わったあとの世界を見る目すべからくを変えてしまう。
そこには濱口の普遍を目指す価値感が偏在している。
くわえて、本作では今ここにある現実への強い働き掛けがうねる。

<あらすじ>
多摩ナンバーの赤いボルボに乗る、俳優兼演出家の家福(かふく)。
妻と死別して2年、国際イベントでチェーホフ「ワーニャ伯父さん」を演出をするために、広島に向かう。
イベントが終わるまでの2か月間は、23歳の女性ワタリがボルボの専属ドライバーとなる。
長い本読みから立ち稽古、アジアの役者たちはおのおのの母語で役を演じる。
公演が迫ったころ、家福は突然に主演のワーニャを演じる必要に迫られる。
考える時間を持つため、ワタリの出身地である北海道にボルボは向かう。
日本海側に抜け、新潟からフェリーで北海道に入り、たどり着いた地で、ワタリは母を弔い、家福は涙する。
家福はワーニャを演じ、ワタリは韓国で赤いボルボを走らせる。

物語は、東京・広島・北海道・韓国、多様な国籍の人々の人間関係と、演目のワーニャ伯父さんと、亡き妻のワーニャ伯父さんの朗読音声、場所と時間と立場と次元が絡み合う。

アカデミーで賞をとり、総じて評価は高い。
それは複雑な構成を成功させていて優れているとか、喪失からの回復といった普遍的な価値観を表現しているとか、芸術性が高いとか。
メージャーな映画として承認された、ということだ。
いくつか評を読んで、アメリカ人の感想の方が適格のように感じた。
「映画は確かに素晴らしい。・・・しかし、韓国人夫婦との会食のシーンのあとは退屈で、・・・ただ、その退屈さこそが大切だった。そこで語られるサチの物語は容易に忘れがたく、映画の最後のセリフで私はすすり泣いた。・・・」という記載は、この評者とのシンクロを強く感じた。

個人的には、凝らされている技巧は、見えている主題を描くために使われたのではなく、世界の価値を安易な言語化から隠すために使われたのだと感じた。
主人公は、演出家で俳優でもある葦のように弱弱しい人間で、彼の演劇とリアルとを行き来する精神の入れ込構造は、何が真実なのかを相対的にする。
どの登場人物も存在としては等価値に描かれているのもつまり、主人公が特別な人間ではないということで、主人公にとっての真実をやはり相対的にする。
それらの相対を超えたところにある絶対性を、手持ちの言語に安易に化体させないための複雑さ。

とはいえ、じつは私は本作よりも「寝ても覚めても」の方が好きだと、最近まで思っていた。
「寝ても覚めても」には奇跡が刻まれているけれど、「ドライブマイカー」にはそれがないと。
しかし、その後、世界が変わった。
「ドライブマイカー」の奇跡は、映画の外から刻まれた。

濱口の意図するところではないかもしれないが、我々は認識しなくてはいけない。
我々の心をうつ、本作の最後の音声にならないセリフは「ワーニャ伯父さん」の最後のセリフでもある。
「ワーニャ伯父さん」は単なる劇中劇ではなく、映画に常に存在していて、
ここで絶望の中にも生きてゆくと告げているのは、チェーホフでありロシアの市井の人だ。

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