マリオン・ヴァン・ランテルゲム「アンゲラ・メルケル」東京書籍

出版されたばかりの、ドイツのメルケル首相の評伝。著者はル・モンドの元記者。
広範で精力的な取材力と綿密な筆致、適宜のカラー写真。素晴らしい著作。

メルケルの両親はドイツが分断された1954年、多くが西を目指す中、逆行して西から東に居を移す。
プロテスタントの牧師である父は、もしかすると「共産主義の理想に貢献できるのではという期待」があったのだという。
ここは理解できないところだ。宗教は民衆のアヘン、とする共産主義下でどんな貢献をし、何をなしえるのか、しかも妻と生まれたばかりのアンゲラを伴って。
これは客観的な検証などできない部分であり、とにかく、メルケルは、両親から経済的な損得をはるかに超えた価値観で生きることを学んだ。
そして、自由は既存のものではないということを身をもって体験した。

メルケルが国際舞台に出てきたときは、なんでこんな東のオバサンがドイツの首相なのか?と不思議だった。
そういう認識はドイツの政治家、あのコールすらも抱いていたようだ。
だからこそ、メルケルは、ここぞという一点を見つけてすべてを掛けて権力を握った。
それまでの、選挙の勝ち方、腹心の部下との戦略、それはドイツの東北部で生活した彼女だから可能だったのだとわかる。

本書からはメルケルの人生やヨーロッパの現代が、生々しく伝わってくる。
人間の息吹を通して歴史が作られ政治が動いてゆくことがよくわかる。
さまざまな人名、なかでも最初の方と一番最後にヴァーツラフ・ハヴェルという人が記載されている。チェコ共和国初代大統領とのことだ。
私は不知だったので、最初の方は読み流したが、最後の方は彼の言葉が2行引用されていて、激しく激しく心を揺さぶられた。
著者はメルケルの人生を通じて、じつはこの2行が言いたかったのだと思った。
言葉の力、意味の力ということを。

魚豊「チ。」

著者うおと。ハモが美味しかったから付けたペンネーム、らしい。
チ。は現在4巻目まで出版されていて、まだ連載中。
下記、プレジデントのサイトで2話分が読める。
https://president.jp/list/author/%E9%AD%9A%E8%B1%8A

プレジデントによると著者は今年24歳。
こんな、見てきたような中世の暗黒の生活を描けるなんて・・・。
以前、リュック・ベッソンの映画「ジャンヌ・ダルク」を見て、時代の雰囲気がわかったように感じたが、
それと同じリアルさをこの漫画には感じる。
そして、なにより、著者は世界における絶対性を確信して、この絶対性をリアルに描いている。
漫画という媒体はたまたまというだけで、著者の哲学に価値がある。
こんな24歳がいるのなら、たしかに託して微笑んで死んでゆけるというものだ(という挿話が本作中にある)。

ところで、今年3月、1985年8月12日の日航ジャンボ機墜落事故の遺族2人が、日本航空にボイスレコーダー・フライトレコーダーの開示を求める民事訴訟を東京地裁に起こした。
稀有な大規模な航空事故だから、全てが明確になるほどの証拠が見つからないままで、様々な推測がなされている。自衛隊による誤射が墜落原因で、それを隠ぺいするための工作がなされた、という説もある。
遺族らの、少しでも真実に近づきたいという気持ちが裁判となった、というのは理解できるところで、平成23年に国土交通省が本件の事故報告書の「解説」(下記)を出したのも、そういう流れの所以なのだろう。
https://www.mlit.go.jp/jtsb/kaisetsu/nikkou123.html(昭和62年事故調査報告書もあり)
国交サイトにある遺族へのアンケート結果にも、日航側の対応の杜撰さが述べられていて、遺族の悲しみと怒りが伝わる。
「事業者の初期の対応として、遺族に寄り添うことが必要。自分を守ろうとしない方が、早い解決に結びつくと思ってほしい。企業のリスクマネジメントとして実施すべき。」
という回答もあった。

一部で言われているような精緻な作戦を、日本政府が瞬時に展開できるわけがなく、その場その場の責任回避の行動が重なった結果が遺族の強烈な不信感となったのだと考えられる。こんな酷いことをするのが日本の風土なのだ。
昔も今も、多くの日本人は真実の力を甘く見ている。
嘘ばかりの社会は間違っている、という主張が「チ。」でも描かれている。

アンソニー・マラス監督「ホテル・ムンバイ」

2008年のムンバイの同時多発テロ事件を描いた、2018年オーストラリア・アメリカ・インド合作 映画(公式サイト)。
アンソニー・マラス監督はオーストラリアの人。 主演のテーヴ・パテールはスラムドッグ・ミリオネアで主演したイギリスの俳優。
ムンバイで同時に起きた10件のテロリスト立てこもり事件のうち、タージマハール・パレス・ホテルの4日間を中心に描いているが、
ただ、主要な登場人物は実在人をもとに創造された架空のキャラクタ(詳細は公式サイトに記載あり)。
ハリウッド映画ではないので、アメリカ人中心に描かれていないし、ストーリー展開も予測できない。
画面は美しく緊張の途切れない2時間余。

犯人はパキスタンのイスラム過激派で、映画の中でも実行犯の若者たちは、電話やイヤホンでイスラムの教えに従えと常に言われながら破壊や殺人を犯してゆく。これらは、膨大に残っている市民の撮影した動画や防犯カメラ、通話の傍受等の記録をもとにして再現されているらしい。
細かいエピソードはどこからがフィクションなのか知りようがないが、ただ、記録によると犠牲者の中にロシア人がいないので、映画の中でのロシア人の存在はフィクションなのだろう。
そのロシア人、ワシリーはイギリス人俳優ジェイソン・アイザックスが演じていて、元陸軍特殊部隊の将校でアフガニスタンにも行ったことがある企業経営者。彼の描き方は素晴らしく、アイザックスも自身のキャラクタを、「最初に登場した時、彼は不快な奴だ。ハリウッドの典型的な映画では、こういう人物は罰を受ける。でもこのストーリーはもっと複雑だ」と述べていて、私も魅了された。

様々な言語、宗教と無宗教、貧困と有り余る富、誕生と死、愛と憎しみ・・・ものすごいカオスが、善悪や正誤を超えた生きる強さを見せつけてくれる。
翻って、本邦のツルンとシンプルで子供っぽい社会。これはさ、生きる力を奪うよね。

フランシス・ベーコンのドローイング展

フランシス・ベーコンのドローイング展が来週20日から始まる(渋谷松濤美術館)。
いったい誰がこんな展示を見に行くのか、しかもコロナ下。
かくいう私は、チケットも手に入れて、準備万端。
バリー・ジュールにあげた紙々は、アートとしては大した価値もなかろうが、ベーコンだからね、行っておかないとね。

直接関係ないが、先日、クエンティン・クリスプ(Quentin Crisp)の映画を2本見た。
いずれもJohn Hurtがクリスプを演じているもので、1本は若いころ(「The Naked Civil Servant」)、もう1本は最晩年(「An Englishman in New York」)。
もっとっもポピュラーな露出としては、スティングの Englishman in New Yorkのビデオに出てくる老女というか老人というかがクリスプなのだが、この2本の映画で、おおよその人となりがわかった。
クリスプがどうしてこういう強い個性と強靭な精神になったのだろうか。そこは興味のあるところだ。

このクリスプは、我らがフランシス・ベーコンとまさに同時代を同じ界隈で生きた人で、だから私は2本の映画を観ておきたかった。
二人の生没年は次の通り。
Francis Bacon 1909年生 - 1992年没
Quentin Crisp  1908年生 - 1999年没
さらに、彼らとほぼ同じ時代なのが暗号のアラン・チューリング。
Alan Turing 1912年生 - 1954年没
3人とも同性愛者だったが(イングランドでは、1967年まで男性同士の同性愛行為が違法)、チューリングだけが裁判で有罪になってホルモン治療を強制されて、職を奪われた。
ベーコンやクリスプは、アート系の人で別に政府の秘密にも絡んでいないので勝手に生きることができたのだろう。
お札になっても、チューリング自身の人生は終わっている。生きている我々は後悔の念を未来に伝える。

「鬼滅の刃」全巻読んだ

全23巻を読みました。
よくできているなあ、と思う。テレビアニメを見たときと同様、こういうのが社会的に流行るのは悪くない。少しでも実体経済を刺激して、外貨も稼げるならたいへん素晴らしい。

アニメでは我妻が好きだったけど、全部読むと童磨が良かったな。
要は、人間は皆弱くて、良し悪しは微妙で相対的、という設定は楽しめた。
ただ、事象には全て論理的な因果関係があって世界は複雑なようでシンプル。
主人公はひとつの次元だけでしか考えなくて、悪者たちはみな相応の理由があって悪者になっている。
日本はこどもカルチャーだからしょうがないね。

桜も散って春が終わる。
昔はあんなに桜に心を動かされたのに、いまはたんに美しいと思うだけで、咲いても散っても格別はない。
人間の作ったものには魅力が感じられず、桜を特別視する文化にも興味はない。

 

Ken Leung

ケン・レオン、と発音するらしい。
くだんのINDUSTRYの俳優。
第1話を観ただけで、あとはネットで見れる情報だけだけど、Esquireの記事からも状況が推察できた。

According to Edward Norton, “You sense hidden levels within him and he conveys an intensity of mind. I don't think anybody's tapped his full range yet.”
・・・
…Leung explains. “So many times you’ll have characters that don’t even need to be actors, they just need to be Asian. They do the show, then they do the interviews, then people ask them about the state of Asian American representation, because there’s no role to talk about. There was no acting done, they were just representing a race, something they never got into this to do.” 

エドワード・ノートンが、ケンには確固たるを感じさせるものがあって、まだこれから何かを見せてくれるだろう、と言うのは、ノートンが監督主演した「僕たちのアナ・バナナ」のKenのシーンで良くわかる(、のだと思う。私はこの映画を観ていないが、該当のシーンだけ動画を見た。ステロタイプの中国人の振りをしていたのが、一転・・・というすごいシーン)。
これはつまり、中の人と外の視聴者の印象が同じで、そして、この印象は演じるということの深さから来ていることが、本人の言葉で納得できる。
アジア系の俳優には演じることは求められておらず、たんにそこにアジア系もいますよ、というだけが必要とされている、と。
別のインタビューでは、
(自分は賞賛を得ていることを前提に、)砂漠で飲み物があれば、それは素敵なことだけど、とはいえ周りが全部砂漠だという事実は変わらないからね、
とかも言っていた。

アメリカでは、いま、アジア系への暴力が問題になっているそうだ。
Kenの存在は、この問題を別の側面から理解させてくれる。

INDUSTRY

HBOドラマ「INDUSTRY] 。
ちょっと昔のファイナンス業界の映画なのかな、と思ったら、新しいドラマのエピソード1の無料放送だった。
登録していないので続きは見れないけど、いつか何らかの方法で視聴しよう。

「業界」としてはすでにエンターテイメントで描き尽くされているわけで、なにが本作の新規性かと言えば、成果主義の世界に生きる個々人が深い洞察でナチュラルに描かれている、という点だろう。
大学を卒業したばかりの新人たちの「恐れ」の描き方が、ほんとに素晴らしい。そして、Nathan Micayのテーマソングが、彼らの演技の画面に映らない部分を増幅させる。清々しい恐怖、くわえて、年齢に不相応なカオスな恐怖。
Ken Leung が演じるマネージャーは、これまでなかったキャラクターで、カオスな恐怖を正面から捉えている姿が美しい。
日本にいると、恐怖を正面から捉えている人があまりに少なくて、とくに年齢を重ねると、恐怖をみないようにすることしかできないままの人ばかりだが、どうやらこのKenの演技は北米でも特別なようだ。

 

岩波書店「タルムードの中のイエス」

著者ペーター・シェーファー、訳者上村静・三浦望はいずれも大学の先生で、宗教学の本の建付けになっている。
ただ、著者等の意図(「アカデミックな学者であろうとしている」訳者あとがきより)とは違う読まれ方がされていて、宗教対立をあおる結果になっていることが困ったことだ、ということらしい。

私は体系だった宗教学や宗教を学んではいない。以下は、自分が認識していることを丸めて書いている。

タルムードはユダヤ教の聖書に準ずる位置づけで、ラビたちの解釈があれだこれだと細かく書かれていて、日本語の訳は美貴(例の宝石屋さん)から出ている。冊子としては百科事典みたいなテイで、通読するのは、日本語であったとしても、まあ普通は無理というもの。
そういうタルムードの中に、これはイエス(およびその家族)のことを指しているのだろうという箇所を探してきて、分析しているのが本書。

そもそも、ユダヤ教はイエスを救い主として認めない宗教で、ただ、イエスの実在自体は否定するものでもない。
おなじアブラハムの神を信ずるユダヤ教とキリスト教は、イエスの位置づけにおいて決定的に異なる。
キリスト者からすれば、ユダヤの民はイエスをメシアと認めれば救われる、となるし、ユダヤ教側からすれば、新約聖書はまるで論理的でない、となる。

タルムードでは、キリスト教におけるイエスの存在は論理的ではない、ということを具体的に書いている。
つまり、処女懐胎や死者復活を容れない「科学的」な内容で、それは普通に歴史として理解できるアプローチになっているのだが、ただ、ユダヤ教のことだから、もわっとした書き方ではなく、あくまでリアルで、そのリアルさはキリスト者からしたら絶対に絶対に許せない内容となる。

本書は、読み込む本ではなくて、報告書というか学術論文というか、参照する本であって、実際の内容は原本たるタルムード(ヘブライ語)に当たって、全体として読んでゆくべきなのだろう。
でも、現実的にはそれは難しいので、本書の読みこなしはやはり難しい。

私が本書を読んだのは、なぜユダヤが20世紀以降も迫害されるのか、反ユダヤが非常にしばしばヨーロッパ社会で問題になっているのはなぜか、その辺を知りたいということだったので、一定の(生半可ともいえる)参考にはなった。

 

 

 

プラトン「ソクラテスの弁明」

光文社古典新訳文庫訳者の納富先生が、東大駒場で解説講義をしていた(Youtube)。
100年程前の岩波文庫久保版など旧来版と、解釈というか翻訳というか相違のある部分を特に取りあげつつ、背景知識をていねいに示しながら、哲学とは何か、という題材を論じていた。
「ソクラテスの弁明」は岩波文庫だとたった55頁だけど、背景知識がないと全く意味が解らなくて読むことができない。
だから、納富先生の動画はとても価値がある。

ソクラテスは弁のみの人で、彼の思想は弟子たちの著作物によってのみ現代まで伝えられている。
前399年のソクラテス裁判、プラトンはここに臨席していたけれど、録音や速記があったわけではないからソクラテスの一言一句が正確に記載されているのではなく、抽象的に『ソクラテス先生の思想はこういうものだった』という内容の書籍なのだと思ってよめばいい、と納富先生は言う。

動画を見ていて、まず印象的だったのは、冒頭の話。

告発者の「告発」の弁論に引き続く、ソクラテスの「弁明」の第一声。
岩波版の冒頭1文には、「アテナイ人諸君、諸君が私の告発者からはたしていかなる印象をうけたのか、それは私にはわからない。」、とある。
納富先生は、ここで別の解釈をしたいのだという。
というのも、この冒頭文は"弱い"。
著作者は、通常、冒頭の一文を考え抜くものである、とくにプラトンはそういう性質の人だった。だのに、ここはなんとも弱い。
たしかに、こういう、’みなさんの受けた印象(パスコー)はしらないよ’、という訳が一般的ではあるのだけれど、このパスコーはじつは複雑な意味を持つ動詞であって、本書のほかの個所では「害悪を被る」等の意味で使われている箇所がある。
そこで納富先生は、冒頭文のパスコーも「印象をうける」ではなくて、「害悪を被る」の趣旨と解したいという。
つまり、
「諸君が私の告発者からはたしていかなる印象をうけたのか、」
ここを納富先生は、光文社版でこう訳している。
「皆さんが私の告発者たちによってどんな目にあわれたか、」。
そして、該当注には、「重要な用例との対応から、このように訳す。」との記載がある。

動画では、さらに、これは単に翻訳の言葉の選択というにとどまらない、ソクラテス哲学の本質にかかわる部分なのだという趣旨が語られてゆく。

第1文「どんな目にあわれたか、」というのは、聴衆に対するおおいなる挑発なのだ、納富先生は言う。
ソクラテスの思想は(のちのストア派も)、人は外部からの作用ではけして不幸にならず、自身で自身の魂をけがすことによってのみ不幸にはなるとするもので(動画1時間すぎ以降)、だから、聴衆が告発者たちによって害悪をうけたとするなら、聴衆自身の魂の形がゆがんでいて真実が見えなかったから、という論理になる。
つまり、冒頭は「俗悪な告発者たちは口先だけは達者でしたから、真実を識ることのできない愚かなあなたたちとすれば、ますます自身の魂をけがしているんでしょうねぇ」とでもいう、のっけからの大暴言ということになる。
旧来の「諸君が私の告発者からはたしていかなる印象をうけたのか、それは私にはわからない。」というような、穏やかな滑り出しとはカナリ違う。
なるほど、これでは、ソクラテスは死刑だ!、という判決にもなるだろう。

そうそう、納富先生は、ソクラテスの罪状である不敬神というのが、宗教的な意味での神への冒涜というのとはやや違う、アテナイの共通の価値観を棄損する、というような意味合いがあったのだとも話していた。
国家騒乱とか反逆とか、そういった意味合いがあったから、死刑という過酷な刑が科されたのだと。
ふむふむ、かなり納得な動画内容だ。

ただ、わからないのは、ソクラテスの神の概念だ。
ソクラテスが美しい魂の基準とする神とは、アポロンの神、つまりギリシャの神々の価値観ということなのだろうが、それは一神教の神の概念や価値観とどのように違うのだろう。
動画ではそこまでは触れられていなかったし、手元の木村凌二「多神教と一神教」でも、ソクラテスについても数ページが割かれているけれど、その神とか魂の思想はプラトンぐらいしか理解できていなかったということだけで、具体的なソクラテスの神概念自体は詳しくは記載されていなかった。

いずれにしても、納富先生の動画は面白かったし、あらたに先生の翻訳の「パイドン」も買ってしまった(これは、裁判のあと、死ぬまでのソクラテスの話)。

ダーレン・アロノフスキー 映画「ノア」

旧約聖書のノアの箱舟を原作とする、ハリウッド映画。
監督は、「ブラック・スワン」等のアロノフスキー。アメリカのロシア系ユダヤ人で、ユダヤ文化に親しんで育った人。

本作は、聖書に書いてあることと明らかに違うなど、チャレンジングな内容で多くの問題をはらんでいるものの、そうであるがゆえに個人的にはとても気に入った。

ノアは、神の言葉に盲従して洪水から逃れるというのではなくて、カインの末裔たちの罪深さを目撃して人類に絶望し、洪水(単純な自然の現象としてではなく、そこであまたの命が奪われている状況として、人の群れの遠景と方舟内に響いてくる彼らの阿鼻叫喚の声で表現される)による人類殲滅が創造主に命じられたものだとして主体的に実行する人として描かれる。
このノアの心身のタフさやリアルな人間の肉欲が描かれている部分は、(見ていて腹が立つ人も多いだろうが、)これこそ受肉で生きる人の姿だと思う。
また、カインの末裔の王は、ノアと対立する罪深い人間だけれど、人間中心主義の思想でノアの息子だけでなく観客をも魅了する。
ノアが絶対善というのではないもっと複雑な価値観と感情が交錯し、観る者の思考を挑発するストーリー展開は巧みだ。
なにより、ノアが啓示を受けるのは、野の花の不思議な開花を見たことや夢によってであり、ノアが信じたがゆえにそれはまがうことなき神の啓示となり、やがて必然の雨と洪水になる。
イスラエルのラビがこの映画について、「監督は無神論者だが、これは観る価値のある無神論だ」というようなことを言っていた。
本作に人格的な神は描かれていないけれど、神の意思はあってそれを人が受け止めているという点において、そのとおりなのだ。

こういう聖書のとらえ方は世界でどのような位置づけになるのか、全くわからない。
けれども、こういう思考をしている人がいる、というだけで私にはとても価値がある、ブラックスワンともいうべき 笑。

 

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