ヴィム・ヴェンダース「セバスチャン・サルガド 地球へのラブレター」

サルガドの写真は、これは写真というのか、何か別の表現方法のように感じられる。
TENETを見に行きたいと思っていたら、アマゾンプライムでこの映画を見つけた。
しかもベンダースの映画。
2時間弱という時間に濃厚なイメージが展開して、サルガドの履歴書のようになっている。
メーテルリンクのお話のように、旅の果てに故郷に戻り起点を見つける。
この映画を観ても、彼の写真の秘密がわかるというわけではないけど(というか、冒頭に彼の視点は彼の育った大地がはぐくんだと本人が言っており、まあそういう人間技ではない由縁で、彼の写真はあのようにして存在するということなのだ)、本人の解説や写真の背景を知ることができるのは良い。

好きなのは、前半に出てくるサラグロ族の話。

ジェイムズ・ロム 「セネカ 哲学する政治家」白水社

暴君、と言われているネロの、家庭教師で参謀であった哲学者セネカについて。
彼の時代の詳細でリアルな人間群像が描かれていて引き込まれる。
セネカ自身については、ストア派の哲学者と政治家では価値観がまったく異なるのであって、セネカにはそういうアンビバレンツさがあった、ということが書かれていて、アマゾンの書評でもその2面性を論じている人がいるのだが、私はそこは興味がない。
「この人はこういう人だ」というシンプルな捉え方なんて、とくに人の人生の全体を通じてなんて評価することはできない。人間や現象には多面性があるのだから。
そもそもセネカよりもネロの方が評価が鋭く議論されている。
暴君という説が多いけど、(身内をことごとく殺害してゆくのも)いやあの時代はあれが普通で、彼は賢君であったのだ、とか。
ローマの大火についても、私はネロが仕組んだものと思っていたけど、そうではないという説が多いらしい。
とにかく2000年前の話だから、真実を知るにはデータが不足している。
とはいえ、イエスの人生より、ずっと記録がたくさん残されているのに驚く。たとえばセネカの書簡は原本が124通残っているそうだ。

今の日本では多くの人が民主主義に絶望してると思うけど、2000年前に立憲民主という制度がなかった時に比べれば、たしかに民主主義は素晴らしい。
もし、人が不変であるなら、賢君の政治やカリスマ政治がベストかもしれないけれど、人は変わるし評価は定まらない。だから、納得の過程を設けた民主主義は、結果はどうであれそれらよりずっとずっといい(ナチ党が選挙で選ばれたのでなければ、世界はナチズムをこれほど反省しはしなかった)。
それがリアルにわかる本。
明治大学の拷問博物館で刑法の重要さが初めてわかるように、セネカの人生を知って民主主義の尊さがわかった。

 

コロナで再考

コロナで生活が変化した。
もっとも影響を受けたのは、長期的なライフスタイル。
来年あたりからは海外で生活する予定で、ビザ取得を申請していたのが中止になってしまった。
彼の国の関係者にもお願いしているものの、当該ビザが再開するかも未定とのこと。
不法に外国に滞在するのは考えていないので(実は調べたw)、とりあえず当初の計画はペンディング。

先日、誕生日で、また免許の書き換えの年でもあったので、自分の年齢をしげしげと認識している。
年々死の影が濃くなることはさすがに好ましいとは言えないにしても、私は加齢や老いることとかが嫌いじゃない。
私なりの美しさや醜さのぼんやりした基準があって、それに照らして醜くなることだけが嫌悪なのだけど、いまのところ最悪ではないにしても、まだまだ醜い 笑。
美しい死体(※私基準)になりたいものだ、
これはコロナとは全く関係ないけど。

美しさ。
7年前に癌になって初めてリアルに死を考えて、一周してきて健康や長寿こそが正しいという価値観でもなくなり、また、共同幻想とか、パラレルワールドとか、マトリックスの世界とか、そういう子供じみた思考も食傷。
美しさとは、そういう子供じみたある種のウソや適当やご都合主義がないということです。

ドゥルーズのベーコン評論「感覚の論理学」が良い。
はじめのほうに「神が存在するから、すべてが許される」というくだりがあって(ここはこの抜き書きだけだと意味が誤解されると思うが)、もうその辺からやばかった。
なんて美しい。
年齢的に私ぐらいかと思ったら、やはりドゥルーズ55歳の著作。
ドゥルーズ、もういちど読み返そうと思っている。
コロナでペンディングなので、日本で落ち着いてドゥルーズとベーコンと日本政治と、このあたりを資料を通し読みして、記録しておくべきかしらと考えている。

 

※ このブログサービスの仕様にバクがあったため、それを回避するように個人の設定を変更しました。
  

 

アート業界、復活してた

フランシス・ベーコンのアイスキュロスのオレスティアにインスピレーションを得た3枚組の油彩画が、8400万ドル(およそ90億円)ほどで落札された(2020年6月29日付ブルームバーグ記事)。


「ギリシャ神話に立ち返って自らの人間としての強迫観念を表現した」(アンドリュー・シンクレア)、ベーコンらしく、また抽象度が高く美しい本作は、ノルウエーの著名アートコレクター アストラップの所蔵で、たしかに"好ましい作品"だったが、予想の6000万~8000万ドルを上回る価格で落札。5月の半期ごとのセールを延期していたアート業界は、この好調なスタートに満足している。

個人的にはベーコンが好きで、また彼の作品はアートと貨幣を再定義していることが確認できて、このようなニュースは嬉しい。

 

「フランシス・ベイコン・インタヴュー」ちくま学芸文庫、クリストファー・ノーラン「プレステージ」

デイヴィット・シルベスターがベイコンに9回にわたりインタヴューした、その記録。
日本語としては「肉への慈悲」がサブタイトルとしてついていた本の文庫版。

音声記録を意図的に改変して文字化している旨は、シルベスター自身がまえがきに書いているし、絵画を言葉で語るというのはそもそも意味がないことだから、そのような前提で読むべきだろう。
それは、明らかに逆説的に語っている部分もあると、友人と本書について話していた時にも見解の一致をみたところだ。

本書で、ベイコンは謙虚であろうとしている。
これはひとつの側面として正しい。
彼は顕在的な自己を超える存在に敬意を払うという点で謙虚で、ただそれを現実の会話で表現する必要はないのだけど、そういういかにも画家らしいポーズを再現しているのは、本書へのサービス精神だ。

こういったサービス精神などが功を奏して、ベイコンの画がどのようにしてイギリス、ヨーロッパで評価されていったのか、そこを正確にトレースしたいものだと考えている。
ベイコン個人はもちろん自分を理解してもらいたいという意欲はあるけれど、画壇というかビジネスとしてどうやって彼の画が高額になっていったのか、そこを知りたい。
私は絵画はある種の貨幣だと理解していて、国家以外が作る貨幣の生成過程に関心があるから(ビットコインとかも)。

クリストファー・ノーラン「プレステージ」は、もちろん監督に惹かれてだけれど、デヴィッド・ボウイが出ていると知って興味を持った。
観てすぐは、かなり嫌な感じで、評価は低かったのが、1週間たってみたら忘れられない1作になった。
それはどういうわけかというと、(以下はネタバレという奴になってしまう)
最後のオチ、他人になりきることのすさまじさと、公演ごとに1人の人間を殺していた、というタネアカシが衝撃で、そこまで物語全体でヴィクトリア期のすさまじさを十分に表現してきていて、その雰囲気の中での最後のタネアカシだったので、衝撃で評価する感性がフリーズしたからだ。
この映画の構造は面白い。
ノーラン作品はどれも斬新さを感じされるけれど、本作は観客が内面的に受けるインパクトは強烈で、これこそ見たことがない映画だと言えるかもしれない(YoutubeのSFトップ10で本作が4位ぐらいになっていたのがあったけど、本作をSFにエントリーすることからしても、選者はまことに正しい)。
おめあてのボウイは、なるほどという配役で、これも時代の雰囲気をうまく表現していた。
ノーランの新作TENETがますます楽しみ。

レザー・アスラン「人類はなぜ神を産み出したのか?」

三省堂に行ったら平積みになっていた。
訳者あとがきに好感を持ち、また、注や参考文献の過剰なまでの充実(書籍全体の三分の一が参考文献・注)にそそられ、購入。
いま、読み直して3度目。

私はかなり著者アスランに共感する。だからとても面白かった。

社会秩序の形成過程において、最高者たる単一神を信仰対象とするという方向性はわかりやすい(神が唯一絶対なのと同様に、世俗では王が唯一絶対である、という統治構造をとりたいから)。
そして、この神の絶対性と人格を同時に成立させるための媒介としてイエスが受容されて、三位一体という弁法が成立した、というのが本書の説明。

本来、神と人は1対1で向き合うのだけれど、これは人にとってはかなり過酷だから(アブラハムぐらいしか無理)、絶対性を受容する聖霊とさらにイエスというとりなしの存在を1個置いて、3個にして関係の安定性を作ったところにキリスト教の上手さがある、と私は思っていた(で、とりなしの存在等が別主体だとすると神の絶対性が失われるので含めて三位一体という論理)。
そして、神における人格というのは、おとぎ話をするときの擬人化みたいな、単に解りやすいからそう言っているだけだと考えている。
だけど、まあアスランの言うこともわかって、神に人格が欲しいというのはかなり重要な本質ともいえる願いなのだろう。

いずれにしても、三位一体論にはハリウッド映画的なご都合主義が感じられるが、これは別にイエスが言ったことではないし、単に説明概念でたいして重要ではないと私は思う。
あと、復活も私は独自に考えていて、聖書を素で読むと自然科学にそったなんのことはない事実だと判ると思う。(でも私はここでの復活概念にとても感動する。「サウルの息子」という映画も、もしかすると私と同じ解釈をしているのかもしれない。)

 

 

カルロス・カスタネダ「ドン・ファンの教え」太田出版

日経新聞の16日の私の履歴書で杉本博司が
吉福伸逸の紹介で見田宗介氏が訪ねて来た。見田さんは東大教養学部の助教授で、南米とメキシコの原住民の調査を終えて帰路に着く途中、ニューヨークに寄ったのだ。私は呪術師ドン・ファンの教えにある、ペヨーテという幻覚性植物についての体験を語った。」
と書いていたのがひっかかって、その「ドン・ファンの教え」という本を読んでいる。

想像していたよりずっと具体的な記述がされていて、1969年に出版されたときにアメリカで人気だったというのがなるほどと思う。
まあどんなに具体的に書かれていても、ペヨーテがなければ体験はできない話だけれど、ただ、世界の捉え方としては非常に説得力がある面白い内容だ。
杉本が広告からアートに移行したのがよくわかる。
アートは自分の存在基盤をいったんリセットして認識しようという意欲の産物だと私は思う。
ひとことで言えば「勇気」かもしれない。
彼がペヨーテを体験したこと自体よりも、それを求めていったその意欲が自身の中で承認されて彼をアートの人にした。

3分の2ぐらい読んで、一番腑に落ちたのは134ページだ。

道は無数にある、
自分の道を見極める能力を培わなくてはならない、
慎重に考えて別の道にすべきと判断したら道を変えるべき、
どの道も混沌に続くにすぎないが行くべき道は「心」がある道、なのだと老人になるとわかる


というようなことが書いてあった。
箇条書きにしてしまうと元も子もないが、ストーリーで読むと納得させられる。

以下は別の話。
最近、気に入っているのは自分の死が身近になっていること。
いえ、病気になったとか、身近な人が死んだとかそういうことではなくて、
自分が死ぬことがリアルに感じられるように変化しているという、単なる感覚のレベル。
現実に医者から自分の余命を言われたら、その時はまた具体的な死への対応が必要になるのだけど、
抽象的には、「人間は死ぬ、私は人間だ、私は死ぬ」ということが「そりゃそうだ」と思えるようになった。
当たり前になるというのは人間の最も大切な能力だと私は思っている。
たぶん神はこれを持っていない。
当たり前になる過程(道程)は人間にしかない。

ピーター・ドイグ展@東京国立近代美術館

2週、連続で見てきた。

21日日曜午後は素晴らしい時間だった。
こちらにアートへの渇望があったからということもあるが、久しぶりに饒舌な展示に接することができた。
ドイグは初見だったのだけど、あきらかに「ベーコン以後の人」という流れにあって、私はひとめで彼を好きになってしまった。

もっとも気に入った1枚は、「ラペイルーズの壁」。
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この画は、見た瞬間に別の場所に連れて行ってくれる力と愛情が素敵だった。
見た瞬間、私は夏休みの昼下がり、時間が止まったような光の中にいた。
強い日光の風景を描いた絵はいくらでもある。
でもこの画の力と愛情はとびぬけていて、私はドイグに愛情をいだき、彼と会話したくなった。
だから、この画を見つめて、数枚の写真も撮ったりして、彼を感じてああこれが生きるってことだな、などと理解した。
小さな違和感をじっと見つめて理解して、人に伝えることはたいせつだなとわかった。
絵画は世界においてそういう存在なのだ。
そもそも違和感を感じない人には画は描けない。
画のそばにはちょっとした解説が記載されていて、「パラソルをさす男が歩いている。」「男が醸し出す謎めいた雰囲気」とあるのは、笑った。


Img_1097         

じつは本展と同時の展示、国立近代の所蔵品のほうが目当てだった。
ベーコン 笑。

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3枚のスフィンクスのうちのひとつ、ミュリエル・ベルチャー。
オレンジの背景に一部ピンク、ベルチャーの上半身がスフィンクスのポーズをとっている。
ベルチャーの表情、胸のあたり、本当に素敵。ベーコンのベルチャーへの敬慕があり得ないほど美しく表現されている。
さすがプロの画家だなあ、うまいなあと、当たり前のところで感心してしまった。
この敬慕の雰囲気は、実物を見ないと伝わってこないかもしれない。
ほんとに細かいひと刷けで印象を作っていて(本当にわずかなひと刷け)、私は画集からでは感受できない部分だった。
背景のオレンジは、下塗りにグレーが施され、ところどころその下塗りが見える。

当然、立派な額縁がついていて、まっすぐなアクリルガラスがはまっているのだけど、簡素な木製の枠に画は収まっていて、それに額がついている、という変わった構造になっていた。
この木枠はベーコンのアトリエから画と一緒に存在してきたもので、これにはガラスをかぶせなかったのか?????
私の勝手な謎は深まるばかり。
ベーコンは本当に愛してる。            

お久しぶりです

完全にブログの存在を忘れてましたね。
7月から通常勤務に戻るらしいです、我が職場。
いちばん残念なのは、ランチが自炊できなくなることですかね。

生活反応示として、書いてみました。
引き続き元気に生きてまいりましょう。

 

戦場のメリークリスマス

     

 

映画「戦場のメリークリスマス」1983年公開。
ストーリーや詳細はwikiに詳しいです。

ニューヨーク感染体験記」に、
馬鹿らしく聞こえるかもしれないが、「思いっきり泣くと免疫力が上がる」というのを何だったか覚えていないが「ためしてガッテン」とかそういうので見たことがあったのだろう。「もうこの状況では打てる手がないので、とにかく泣くぞ」と思って、思いつく限りの泣ける映画、音楽を流して、頑張って涙を絞り出した。
と書かれていたのを読んで、思い出したのが「戦メリ」でした。

2時間余のこの映画は、普通に筋を追うだけでもかなり泣けます。
くわえて、監督の大島、主役の一人のデビット・ボウイがすでに亡くなっていることを思うと、別の次元でも泣けてきます。

ただ、公開前の坂本とたけしの会話にもあるように、この映画には、「2001年宇宙の旅」的な難しさというか、何だかわからない部分があります。

たしかに、戦争の残酷さ非情さはじわじわとリアルに観るものに浸みてくるし、ホモセクシャルの性愛や国籍・民族に根差す価値観が作り上げてゆくストーリーは心に深く突き刺さる、
でも、こういうことを表現している作品はあまたあるわけで、この映画だけが持つ凄まじい衝撃は何なのか。

この言語化できない衝撃を、私たちが受け止めることを可能にさせた、つまり「戦メリ」を映画として成立させたのが、坂本龍一の音楽です。

映画は私たちに
リアルを見せています。
くだらない国家間の対立が無かったなら、今ここにある死の恐怖が去ってくれれば、そうどんなに願っても、戦争は絶えることがなく、そして、たとえバトルにさらされていなくても、人は次の瞬間にでも死ぬ可能性のある葦のごとき存在、これが真実の世界です。
そういう恐怖が存在しているリアルを映画は描いています。

ただ、映画はリアルを描くだけでは成立しない、
次に踏み出すための何かを観る者に提示できなければ映画は成立しない、と個人的には思うのです。

戦メリでは、「融合」というひとつの理想が提示されています。
それは画面のリアルでははかなく描かれていますが、サウンドが増幅して見るものに強烈に伝えてきます。

和音による文化的歴史的融合については、坂本龍一が自身で具体的に語っています(変ロ短調のトニックではなくサブドミナントから始めることで、伝統的な和音の幅が広がって、東洋的な印象を合わせ持つ)。

さらにメロディーによって、「クリスマス=生誕」と「来迎=臨終」も融合させています。
生誕の印象は、「タイトルにちなみ「クリスマスソング=鐘の音」を想起しながらも、南洋が舞台であることを考え、シンセサイザーにプリセットしてあったワイングラスの音を基本」にして表現していますが、臨終は、来迎図たとえば知恩院の阿弥陀二五菩薩来迎図の迫りくる笛や太鼓のプリミティブなぎやかしさで表現しています。


来迎図は、単なる画にとどまらないナビゲーターの機能を持っていて、描かれている阿弥陀の指に5色の糸を絡ませて、その端を往生際の人に握らせることで、無事に極楽浄土に連れて行ってもらう、という装置でとしても使われました。
そして、この阿弥陀の周りに描かれている菩薩たちは様々な楽器を演奏しているのですが、それは宗教的理由ではなく、死という形のない未知の存在を恐れないで受け止めるためのインターフェイスとして採用されたようです(資料:「伴楽を伴う来迎の思想」)。
よく臨死体験の話や脳のある部位を刺激すると音楽が聞こえるというそれと同じかもしれません。死の際にいるその人には、音楽が聞こえていたのかもしれません。

象徴なのか音として主観的にあったのか、いずれにしても日本の奈良平安からあるこの世とあの世をつなぐ音楽を、
坂本は現代に現出させ、多様性と普遍性、刹那と永遠を、美しいひとつの世界として融合させて表現することができました。
彼は奇跡的にそれをやってのけましたが、これは現実の世界ではなく音でしか存在しない理想です。

映画の最後は、有名なビートたけしの「メリークリスマス」のセリフ、そして、坂本の音楽の流れるエンドロールに続きます。
たけし演じるハラ軍曹は、坂本の音楽の中で葬送され、しかしそれは終わりではなく生誕も同時に孕んでいて、「2001年宇宙」のスターチャイルドのように種として未来につながってゆきます。
それは、ボウイ演じるセリアズも坂本演じるヨノイも、すべての死者がそうであるように(「サウルの息子」も同じ趣旨のエンディングでした) 。


理想を具現化した音楽に対して、映像は現実の救いのないさまを訥々と描いています。
俳優経験のない坂本、たけしは、下手と言っても良い演技で、すでにエレファントマンを演じていたもののボウイも格別上手い演技ではないでしょう。
ただ、これらによって大島の意図は的確に表現されています。

演技経験の浅い、もしくは皆無の俳優たちは、仕事という枠にとどまらない、新たな体験への不安や恐怖を強く認識したはずです。
この1回性に伴う恐怖、普遍な計り知れない尊いものを大切にしたいからこそ恐れおののく、その恐怖 を大島は求めていたのでしょう。
映画の製作契約を担当した弁護士に依ると、「この主役については、最初はロバート・レッドフォードで考えていたが、瑛子さんが実際にレッドフォードに会ってみると、落ち着いてしまっていて、危険なところがなく、この役には合わないと感じたとのこと。 」で、ほかにも様々言われているように、大島は演技の巧拙を度外視して真実を描きたかったのです。


人が一回性の人生を生きることの恐怖にある美しさと、普遍という理想を、私たちはこの映画で体感することができます。

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