メメント

ノーラン映画を改めて見ているところ。
メメントは久しぶりに見たら、わかりやすいストーリーの映画だった。
テネットとかでノーラン映画のセオリーを把握したからだろうか。
ただ、認知症の両親を持ったという、純粋にこちら側の変化によって、観た感想はだいぶ変わった。
メメントみたいに外傷性で短期記憶障害という人は人口当たりそんなに多くは無いと思うけど、認知症はこれからどんどん増えてゆく。
救いようのない恐怖で気持ちが沈んだ。
そういう突き刺す力は、このころから確立されている。
カメラや編集、どこが未熟かとか技術的な部分に気持ちを持って行くようにして、気持ちをまぎれさせながら観た。

ビルナイ「生きる」

イギリス版の新しい「生きる」をやっと見た。
Amazonで500円。
ストーリー的には黒澤版と同じだけど、細部はイギリス版なのでいろいろ違う。
恋せよ乙女、の歌(ゴンドラの唄)はスコットランド民謡になっていたが、主人公が雪の降りしきる中でブランコを漕ぎながら幸せそうに歌う、というのは同じ。そういうイギリスアレンジ。
黒澤映画の最も素晴らしいところが理解できないまま、生きるって素晴らしいね、みたいな小賢しいスイートな話になっている。
同じ時代、イギリスは戦争に勝っていい気になっていた、ということなのか、ビルナイはたしかにぞっとする死人を演じていた(職場の人にゾンビというあだ名をつけられてる。黒澤版ではミイラ)。これはイギリス流の皮肉の効きすぎな映画なのか。解釈の仕方がわからない。

ヘッセ「シッダールタ」

たまたま買っていた「シッダールタ」を開いたら、読みやすかったので、
ゆっくりじっくりこれを読んだ。

てっきり仏陀の話かと思って読んでいったら、途中からおかしなことになってきて、そうではないのかと知った。
ヘッセの作ったお話として読むべきなのだった。

ヘッセはドイツ語の人でノーベル賞を取っている、というぐらいしか知識がなかった。
ノーベル賞はやっぱりすごいよな、と最近は改めて認識しているところがあって、本作もさすがノーベル賞作家と感じさせられた。

まずストーリーが巧み。
言語で、無限・無常・時間は存在しない、ということを表現するとこうなる、というのが具現化しているのであったよ。
イメージとしては、ブラックホールにらせんを描きながら取り込まれながらホワイトホールに放出されながら、という状況で「自分の背中が見える」みたいな??
これがリズムのあるたゆとう文章でできている。ただ、文章自体は日本語で読んでいるので、ヘッセではなく高橋健二の作品かな。
めっぽう厳しい内容を、さらりと易しく書いているので、それこそ川の流れに耳を傾けるように自然に流れ込んでくる。

私としては、本作に顕れる旧約聖書の認識に興味深さを感じたけど、
「愛」の概念をシッダールタが定義しようとしなかったのは、キリスト教世界に生まれついた作者の盲点なのだろうか。

本作は、ヘッセがナチスを知る前の作であり、その後、ヘッセの宗教的側面が変化したのかは知らない。
ただ、私が思うには本書はキリスト教的な考え方の一つの到達点のように感じる。

黒澤 生きる

年始休みのテレビで見た。
昨年のビル・ナイ主演リビングは見ようと思ってまだ見ていないけれど、じつは黒澤の本家本元も見ていなかったのでした。
もちろんざっくりした筋は知っていたのだけど、見てみたらほんとビックリ。
さすが黒澤42歳ごろの映画でした。ものすごーく巧み。
(このブログ、新装開店するつもりでしたが、結局前と同じですね)

主人公が癌だということになって、
今と違ってイコール死の宣告ということなのだろうけど、見ている方としては志村喬(主人公)の悲嘆には共感できなくて、
むしろ周囲の登場人物たちの"このオヤジ、ウザ"という感覚に同調してしまう。
主人公はなすべきことに気づいて猛進するかと思ったら、すぐに葬式の場面になって、弔問客の話を中心に時間が遡って主人公が命がけで生きていた姿が描かれる。
通夜の場で主人公の尊い命に心を打たれた同僚たちは、しかし、翌日、職場に戻れば"お役所仕事"に埋没するだけ。

すごくうまい。
見ている人を巻き込んで当事者意識を持たせる構造が秀逸。
「大衆とはあなたのことだ」。オルテガよりもずっと折伏される。
あと、役者の立ち振る舞いが力強く魅力的。
特に宮口精二は一瞬にらむだけなのに全然嘘がない。言葉では説明ができない演技による説得力。

 

ココログ20年おめでとう

なんとココログは20年目らしい。
私はココログが始まってすぐの1月にココを開設したので、年明けで20年なのか・・・びっくり。
おめでたいことだ。

20年ちょっと前、英米のサイトを見ていると、面白い個人サイトはどれも一定のフォームがあるように思えて、これは何だろうと思っていたら、ブログというものだとわかり、ニフティーがココログという新しいブログのサービスを始めるというので直ぐに乗っかったのだった。
あの頃は、ミクシーとかもほとんどすぐに初めてて、IT周りが楽しい時期。

ということで一区切りでもありますので、ここらで新装開店といたしましょう。
最近はほとんど更新もしていなかったので、ちょうど良いですよね。
先日、憧れていた女性に会えて、どうしても彼女と同じ世界で生きてゆきたいと決めたので、そちら路線への転換です。
ではでは皆様、良い年の瀬をお過ごしください。

 

還暦で答えあわせ

還暦は文化的な概念にすぎないけれど、
ある意味で人間の生を一周したと言えるのかもしれない。
年を重ねて初めて分かる、「なるほどなあ」という感覚が多くなる年ごろ。

株守とか朝三暮四とか、もしかすると挿し絵すら示して教えられたかもしれないが、
なんでこんな概念が古くから広く伝えられているのか、全くわからなかった。
「ウサギが切り株にぶつかるのを待つ」ような愚かな人がいる、というのか、
「サルが簡単な足し算すらできない」のに何の意味があるのか。
でも最近は、こういう言葉を作って記録してくれた昔の人はタフですごいなあ、とつくづく感じる。
とともに、人間の本質は千年単位で変っていない、ということならば、この本質は一朝一夕には変らないのだな、とも判る。
我を憐れみたまえ。

最近、気持ちが沈む。
親の老化は自然の現象なので静かに受け止めて行こうと思うが、
友人が鬱症状で離職を余儀なくされたのが受け止めきれない。
友人の苦境を認識するのがつらいし、
友人のような状況の人がかなり多いことは知識としては持っていて、
これは社会や環境に大きな原因があるのだと、私は思う。

自分自身がタフになること、
タフな人が増えるようにすること、
私はそういうことをしてゆきたい。

バクダット・カフェ

「バクダット・カフェ」を見た。
見たいと思った時から35年以上経っていることに驚いた。
なのに古い感じがしなかったのにも驚いた。

画面の色彩や構図が、そういえばウオンカーワイとかベンダース、寺山修司なんかのテイストがあって時代がかっているのだけど、
リズム感が良いのと相まって、一周して逆に最近な感じがするのだった。
このリズム感の良さは要は迷いのなさで、
すべてが連関しているようで唐突なようで、いずれにしても説得力のある心地よいものだった。

冒頭のコーヒーポットは、ちょっとコメディーのようなオカルトのような具合に描いていて、
中盤まで見ると意味がつながって、なるほどなあと思った。
ただ、ググったら「ローゼンハイム・ポルターガイスト」というのがドイツでは有名らしく
(ドイツ語と英語のウィキがあった)、たぶんこれが元ネタなのだろう。
主人公ジャスミンは若いときにローゼンハイムの法律事務所に勤めていた、というウラ設定なのかもしれない。

後半はちょっと違和感というか既視感を感じたところがあって、これはなんだろうと脳の隅を探ったら、
デビット・リンチの「マルホランド・ドライブ」だった。
終盤は夢なのだという感想もネットにはあって、そうかもと思った。
夢というか幻覚というかパラレルワールドというか、そういう違和感、しかもどこかに恐怖のテイストがある。
立ち上がる雰囲気が同じなのは、きっと希望のない現実が向こう側に存在しているからだろう。

ほんと好きな映画。

ボーンズ・アンド・オール

鏡越しの、おしゃべりしすぎない美容師男子に、
「最近、何かが変わったって感じがしない?」と尋ねそうになって気がついた。
ああ、変わったのは私なんだ。
人生はときに轟音を立てて変化する。
それは映画「ボーンズ・アンド・オール」を見たときからだった。

たまたま見たのだけど、この映画はもう忘れない。
映画が私の人生を変えたのではなくて、人生のイベントが連なったときにこの映画が飛び込んできただけなんだけどね。

この映画はジムジャームッシュの吸血鬼の映画と少し似ている。
あれも好き。
量子のもつれの話。永遠の命。
でも、決定的に違うのは、本作は普通の人間がやや特殊な性質を持っているという点。
どんな人生もあるのだと、深く納得させられる。
予想していなかった形で、私の枷がひとつ、ふたつ、みっつ、外れていった。
この映画を見たから、引き寄せられてきたんじゃないか、とも思ったり。
まあね、そんなこともあるよね。

 

 

リア王

シェイクスピアの中で一番好き。
リアは愚か、でも、コーデリアの頑なさは理解できず彼女もまた愚かなのでは、と考えていた。
いま、自身の親の認知能力が徐々に低下してきて、リア王がリアルに感じられ、処し方の支えにもなっている。
私は親より先に逝く気はないので。

母はすでに長谷川式スケールは零点、家族も自分自身もわからなくて、霧の中にいる感じらしい。
表向きの体裁を整えるなどの複雑な精神活動はできず、なんとか現実に向き合おうともがくように生きている。
つらい側面があることは見て取れるけれど、常に素で生と向き合う母を私は好ましいと感じる。

父はアルツハイマー型で、長谷川式スケールの点数を少しは取れる。
リア王のように、大言壮語というか美辞麗句というかご立派な文句が得意で、彼の精神は大海原にたゆとうばかりだけれど、本人は認知機能の低下を感じていない。
優しい言葉を掛けるだけの人に現金を渡し、身の回りの世話をする人には冷淡。まさにリア。
疲弊させられはするものの、シェークスピア劇を特等席で見せられて、もう面白くて仕方がない。
ただ「リア王」を読んでいなかったら、現実にただ打ちのめされるだけで、コーデリアのように袋小路に陥っていたかもしれない。
いやほんとに、コーデリアは「リア王」を読んでいなかったのだから、さぞかし大変だったろう。頑なになるのもやむを得ない。

「リア王」は老いを扱っているわけではないと感じる。
老いていなくても愚かな人は多く、愚かなことがいかに愚かか、愚かさに知性は太刀打ちできない。

 

なまえ

アニメ映画「君の名は。」は、我慢して観たら意外に感動してしまいました。

エンタメで「名前」をトリガーとして設定するのは、神話や民俗学で名前が人格を支配するなどと扱われるからでしょうが、「名前」がそこまでの力を持っているとは、私はあんまり信じていません。

名前そのものや名付けることに超常的な力があるのではなくて、何度も呼ばれ、意識下にも刷り込まれてゆくことに力があるのだろうな、と考えています。

なので、姓名でなくても呼称は特別な力を持ちます。

・・・と、親が高齢になって、いろいろ気づいたのでした。

母は、かなり認知能力が衰えていますが、以前は私が「おかあさん」と呼びかけると私を認識してくれました。

「おかあさん」と呼んでくれるのはあなただけだから、と呼称によって私が娘だと喚起されるのだという旨を言っていました。

きっとオレオレ詐欺というのも、「オレ」をこどもと信じるというより、家族のように呼び掛けてくるから家族なのだという刷り込みが喚起されてしまうのでしょう。

また、どういうしきたりなのか私の両親は結婚生活では戸籍上の名前とは違う名前を通称として使っていました。

たとえて言うなら、父は戸籍上の「太郎」と家族間での通称「正雄」、母は戸籍上の「花子」と家族間での通称「和美」、という感じで使い分けていたのですが、いまの母はそういう論理が追えなくなって、"私は特別で2人夫がいる"と信じている時期がありました。

リアルな夫である私の父のことは認識できなく未知の人になっていて、母は「太郎」さんと「正雄」さんが自分を守ってくれる人だ、2人に守られている私は幸せなのだと認識していたのでした。

人格は認識するのが難しくても、その呼称は記憶に深く刻まれているのでしょう。

面前で母の言動を見ていると人の認識や意識の存在を改めて考えます。

 

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