ボヘミアンラプソディ 「悪態の科学」

最新の予告編を見て、期待通りにちょー緩そう、と思う。
やぱり無理なのよね、クイーンを映画にするなんて。
アイマックスで音メインで見て、リアルのマーキュリーを当てはめて想像で楽しんだほうがよさそう。

書くことないなあ。
これはいいことだと、思っておこう。
リアルが濃厚だから、ブログまで落ちてくるものがない、そういう時期もいいよね、というところで。
今読んでるのは「悪態の科学」。
イギリス人女性の本。
「あなたはなぜ口にしてしまうのか」という副題がついているけど、私の悪態は冒頭のようなものぐらいで、ほんとボキャブラリが貧困。
じつは悪態を覚えようと思っていろいろ本を探したこともある。馬鹿でしょw。
でも、日本語の悪態はクソみたいなものばかりで、というか、クソなんて(ミソクソぐらいしか)話し言葉では使わないし。それは私が品行方正だからではなく、文化としてクソって使わない。言ったとしたら、ハリウッド映画の吹替みたいになるだけ。
本書は、主に英語の悪態の単語が英語と日本語訳とでたくさん書いてある。出版されたばかりなのでほぼリアルタイムな英語の悪態単語が正確に理解できて素晴らしい。
それと、悪態の文化的心理学的背景も分かるし、軽く読める翻訳の仕方になっているので、素敵な息抜き的におすすめできます。
日本語の悪態も収集してみたいなあ。
基地外とか死ねばいいのにとか、ネット用語的になものではなくて、話し言葉のものを、とくに。
あと、ミソクソの語源はやっぱり赤みそ文化圏から発祥しているのか、そこも知りたいわ。
あと、古い本だけど「バーナード・マドフ事件」(2010年)。
ナスダック市場を作った人の要はポンチ詐欺の話だけど、管財人弁護士の報酬が10億ドルだった事件。
ルーク・ドメール「シンキング・マシン」はAIの歴史としては秀逸の読みやすさ。
書いてあることはいい意味で浅く、流れができているから時代の空気感を理解することができる。ここで気になったところを、理系の専門の本を読んで深堀するといいのだろう。
海外のコンテンツは、なんか雰囲気がつかめないことが多くて、とくにこの辺のAI関係はそう。すでに著者にとって当たり前になっていることを、文字として記録することの難しさを思う。たとえば、PCでなにができるか、別の文化の人に説明するのは難しい。
このイギリスの童顔の彼はうまく書いてくれている。
ひとつに、彼の素直な感動が存在していて、きちんと知ろうとしていて、という点が、ほかの人には意外にできていなことだろう。
映画「はじまりのうた」は本当に良かった。
毎日、思い出しては感動している。
こういう映画が世界において成立しているのであれば、私はここで生きて行けると思う。
よろしく、世界。

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原美術館

原美術館に行きました。
とても良かったので、あとで感想を書きます。
まずは。

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「はじまりのうた」

承前。
なんでも受け手の側からの受け止め方でしかないわけだけれど、私はこの映画ではポストキャピタリズムへのリアルで明確な方向性を感じた。
これならいける、と。

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ナイトレー演じる女性は、偶然出会ったプロデューサとともに既存の音楽業界による流通とは違う方法を生み出す。これはネットを使ったよくある資本主義から抜けだす方法で、特に目新しいわけではない。
ただ、彼女がそれを成功させたたのは、要は人のマインドの力なのだと、この映画はささやいている。
大物ラッパーが彼女の音楽を支持するツイートしたから、彼女の存在は世界に知られることになったわけで、このラッパーが本物を見ることができて、マインドを持っている人だったから、ここの部分が映画の展開として成立している(瞬く間にたくさん売れて良かったね、という映画的な展開)。
女性は最初普通に恋人とニューヨークにやって来て、一緒に住んで、彼のアバンチュールに腹を立てたり、まあ型通りの時間を過ごしている。
でも、本物が見つけられずギリギリの部分で生きていたプロデューサに出会って、型通りから脱皮してゆく。
そう、資本主義は「型」なのだ。あまりに自然に存在しているから当然のようにその型通りに生きている私たちだけど、必ずしも型から外れる必要はないにしても、型にとらわれることのない自由さを持っていなければいけないのだ。
女性はプロデューサと明らかに恋に落ちる。プロデューサもすべてを捨てて彼女と過ごそうとする。でも、二人は恋人になることや結婚につながるルートに乗ることは型であって、その型には乗っからない関係性を無言で選択する。
この選択は、精神的にはかなり、かなりツライ。でも、彼らは型にはまって既成の流れに乗っかって安穏と時間を過ごすことをやめたのだ。もっとひりひりする本当の生の時間を生きてい行くことを決めたのだ。本当を見つめて生きることでしか彼らは生きて行けないから。嘘の人生なら、その人生はいらないと、すでにどこかで決めている彼らだから。
映画には描かれていない多くの過去を彼らは経験していて、そこから彼らは強い意欲を持った人になったのだろう。
私は彼らは本当に正しいと思う。
この映画の監督は、「ダブリンの街角で」でも本作と同じように型にはめないストーリーを描こうとしていた。そしてそれは成功していたけど、まるで、偶然のような、はかない感じだった。
でも本作は違う。とても力強い。
そういうことで、私はこの映画を100%支持する。
ただのイギリスマインドが好きなだけかもしれないけどね。
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資本主義の次に行くことは、以前から思っていたのだけど、要は産業革命みたいな、一つの革命になるのだろう。
では前の産業革命は一体なぜ成功したのか。
私が思うには先立って農業の生産性が上がって、食料の余剰が生じたことが、最も重要なファクターだと思う。そこで初めて都市が形成できることになる。
とすると、一番の謎は、なぜ農業の生産性が上がったのか、だった。
なだらかに向上してきたのではない、勃興する力があったからそこから産業革命に連なったのではないかと考えていた。
この予想は当たっていたみたいだよ。
これはまた後日。

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ジョン・カーニー「はじまりのうた」

ダブリンの街角で、と、シングストリートを見ていたので、同じ監督の本作も迷わず視聴。
時系列としては、ダブリン→はじまり→シングの順だけど、これはダブリンとシングを足して2乗したような内容。
すごいいい。
キーラナイトレーの歯並びの悪さが、やっぱり素敵。
登場人物のファッションも好き。
何より、ポスト資本主義の雰囲気がいい。
ちょうどポールメイソン「ポスト・キャピタリズム」を読んでいて、本のほうは日本語訳が酷いみたいでよくわかんないのだけど、この映画はとても解りやすい。
ポスト資本主義が何なのかはおぼろげながらも見えているとしても、それが成立するにはどうすればいいのか。
DONOTPAYとこの映画を見てわかったけど、本物が認識できることが要件みたい。
自分のやるべきことが認識できて、それを形にして生み出すことができること。大量生産に飲み込まれずに、自分の目で世界を見る力。正しいことが分かっているから、他人を信じることもできる。他人を信じることができるなら、特別な家族や恋人やそういう既成の関係性に縛られることもない。
もちろんポスト資本主義を論じるには経済学の分野も重要だろうけど、最も大事なのは人のマインド。時代の雰囲気。
この映画はポスト資本主義の鍵になるのはキリスト教かもと思っているのだろう。
キーラナイトレーの演技は的確だった。お仕着せの関係性ではない、自分自身の人間関係を営んで行くことを能動的に選択する姿は美しい。
こんな100%同意できる映画を見ることができたのは僥倖だわね。
細かいとこも、すごく良かった。
主人公の音楽プロデューサーがジャガーの古いのに乗ってるのが良くて、そういう感性の彼だから、イギリスから来た女性(ナイトレー)のギターの最初の出だしで引き込まれてしまう。
そのイギリス女性と恋人、そして友達の男性3人はともにブリストル大学での友達で、ニューヨークに音楽をやりに来ているのだけど、ブリストル大学の自殺率は有名で、だから、主人公の女性の最初の歌が自殺を歌っていたのも、彼女にとっては自殺は身近だからなんだろうなと感じた。
そしてさすがだと思ったのは、音楽事務所のオフィスのシーンが何度か出てくるのだけど、うまい具合に耳障りになるように電話のコール音が鳴っている。低い音量だけど、巧みに耳障りになる音。ゴージャスでクールなオフィスを視覚では見せつつ、サウンドで辟易させる。若干サブリミナル的に、うまいわ。
そんなこんな、ミクロもマクロもいい映画だったわ。

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松原望「ベイズの誓い ベイズ統計学はAIの夢を見る」聖学院大学出版会

ベイズ統計学の最もわかりやすい本はないかと思っていたら、たまたま新刊本のコーナーで見つけた。

未知の著者だけど、統計数理研究所からスタンフォードでドクターとって東大という経歴。いちばん引っかかったのは、本書の発行所が聖学院大学出版会という点。
これは非常に面白い本だった。
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コストの面は考慮外とするなら、どの標準治療を受けるのか受けないのかは、受けることで享受しうるメリットと可能性としてのリスクとを比較考慮して判断することになる。
医師は医療過誤(による訴訟?)を恐れているし、こちらも一応そういうことは頭の片隅にありつつ、検査の数値を統計値に照らして最終判断は患者側が行うわけだが、これは非常に興味深い体験だった。
私の人生で確率がこれほど大きな意味を持ったことはなかったかもしれない。
自分の腫瘍のタイプがマトリックス的に類型化され、その類型ごとの無病生存率の曲線が描かれていて、たとえば、3年後の無病生存率が28%だとこれはやばいと治療を進めることになるのだろう。
ただ、そもそも「無病生存率」って何よ、ということもあるし、統計の数値の意味が理解できず、医師がふとこういう方法もあるはある、と言った内容が身体への侵襲のないお財布だけの問題だったのでその数値を加えて見たら、全く評価が変わって、まったくこの統計表はなんなのかと、思ったのだった。
(抽象的すぎる話ですみません)
まあとにかく、
あの時は、統計って確率って何なのか、初めて真剣に考えたということです。
標準治療の文献はそこそこ読んだし(ただし自分に関係あるとこだけ)、標準治療以外の選択肢もざっくりとは調べたけど、どうも説得的な情報はあまりなくて、たまたまちょうどその時公開されたカナダのアルバータ州のパブリックな報告書が私の場合には最も役立った文献だった。
バイアスのかかった統計ではなくマクロな視点からのコスト面でのアプローチというのが、私には非常に説得的だったわけですね。
とにかく、統計として示されている数字は信用できないことが多い、その数値から導かれる確率なんて本当に嘘くさいと思った次第。
.(治療の過程で、「これは副作用があったらすぐ電話してください、でもほとんど出ないから大丈夫」、と言われた薬が滅法副作用があって、たしかに調べたら副作用の出る確率が5%程度だったのだけど、その5%に自分がはまったわけで、あの時の医者の「いやー、これはめずらしい、僕、初めてですよ」と人の不幸を嬉しそうに笑顔で言われたのは、じつはいやな感じではなかった。
ただ、95%安全と言われても、自分が5%の側になって最悪死んでしまったら、たとえ十分有意な確率値であっても主観的には意味ないともおもた。)
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とはいえ、確率は重要ではありますよね。
雨の確率が10%なら傘はいらないけど、40%で素敵な服を着てくときはやっぱり折り畳みをバックに忍ばせることになります。
あと、本書ではAIとか自動運転とかコンピュータの話につながって、シンギュラリティの話になって、邦訳があまりに悲惨ということで形而上的な話になって、もう素晴らしい展開です。
さすが聖学院大学出版会。望外の面白い本を私にアクセスさせてくれました。
ただ、そもそもベイズ統計を知りたいと思ったのは、訴訟での立証行為をロジカルに検証したかったからなのですが、確率ってなによ、という点を少し考えてから、本筋に戻りたいと思いました。

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「ゲッベルスと私」紀伊國屋書店

同じタイトルのドキュメンタリ映画の書籍版。

ナチス宣伝相で秘書をしていて、ヒトラーたちが自殺したあの総統地下壕に勤務していた女性ポムゼルへのインタビュー。
2013年2014年に収録され、2017年に映画と書籍が公開、ポムゼルは17年1月に106歳で亡くなった。
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ポムゼルは戦争のころ、若くてカワイイ女性だったのだろう。
彼女の容姿の美醜はさておき、いわゆる"カワイイ"だったのだろう。
彼女は本書で一貫して、私は何も知らなかった、私には罪はない、と言い続けている。
水晶の夜事件がいかに戦慄であっても、ある日突然いなくなった友人のユダヤ人女性については「きっとここでよりも安心な生活をしてるのだろう」と思い込み、ヒトラーのちょっとしたジョークを言った同僚が処刑されても、・・・彼女は私は何も知らなかったという、そしてだから自分に罪はないと。
いわゆる「合理化」という簡単な言語で理解してはいけない事実がここにある。
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本書に対しては、様々なスタンスがあるだろう。
本書には日本人監修者の文章も掲載されている。ハンナアーレントを引いて説明したりしている。無思想性を批判し、民主主義下でも類似の状況が起きうるという。
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ポムゼルは1911年1月生まれだそうだが、ドラッカーが1909年11月生まれなので、彼らはほぼほぼ同年齢だと理解してもいいだろう。
ドラッカーは14歳の誕生日の直前のある日、デモの隊列から離れた、そのときから彼は自身を「傍観者」として体現してゆく。
ポムゼムは1943年2月のゲッベルスの演説に際し自らの「傍観者」たるを認める(本書108ページ)。しかし、彼女は「ゲッベルスの真実の顔を私はゆっくりと発見していった。」(106ページ)だけだった。
ポムゼムはあの時代に逆らうということは直接の命の危険があり、それはできなかったのだともいう。
いいですか、問題はそこではないのですよ、ポムゼムさん。
あなたに、あなた一人に行動を求めてはいません。
あなたの自己欺瞞、あなたの逃避する精神に、同じ人間としてそれは間違っていると言いたいのです。
あなたは間違っている存在として歴史に刻まれます、ほかの多くの孤独な人々と同じように。
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ポムゼムが愉快な思い出として述べているのが、犬の話だ。
ゲッベルスがベネチアに滞在しているときに、飼犬が恋しい、とか言ったのを、側近が宣伝省に連絡してきて、大臣に犬を届けろ、ということになり、どうにかこうにか犬を飛行機で送り届けたら、ゲッベルスが激怒し、繊細なこの犬を飛行機に乗せて送ってくるなんて、とすぐに送り返した、という話。
ようは忖度という話。
どこかの国と全く同じ。
素敵な話。

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ウエンツなにがし

他人の言葉にふと心が動かされる、ということはたまにある。

前にもたぶん書いたのだが、ウエンツ瑛士というテレビに出ている人がいて、彼のことはその名前の読み(えいじ?えいし?)もなにもほとんど知らない。

以前、たまたまテレビをつけたとき、彼が、暇なときは何してるの?と尋ねられて、「時間が少しでもあると海外に行く」というようなことを答えていたのを見た。
そのころ、私は体調が思わしくなくて、いったいどうしたものかと考えていたのだけど、そうか、海外というのは時間が見つかればサッと行ってしうものなのだなと、妙に腑に落ちて、直後にロンドンに行く準備を始めた。
念のための病院の手配とか、知人への依頼とか、していったのだけれど、いざ搭乗口に向かうときに不安感がのしかかってきた。このまま飛行機に乗っていいのか。
そのとき私の眼前にいるのが彼だと気づいた。
たんなる偶然ではあるけれど、この飛行機に乗ることが間違っていない気持ちがして安心した。
そして、つつがなく、というか明らかに格段に元気になって帰国して今に至っている。
ロンドンの水と空気が私の体質に合っている、という感覚は強くあったけど、あれは一種の転地療法になったのかもしれないし、とにかくひとつのトリガーだった。
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.話としてはそれだけなのだが、
私としては、彼からロンドン的なるものへの渇望を感じ取って、それを共有したのだろうなあと感じている。
言語化されなくても、明示的に認識されなくても、伝わるなにがしかがあるのだと考えている。
同じことはフランシス・ベーコンにも感じていて、ウエンツ君がベーコンをどう感じているか、そこはちょっと興味がある。

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ローリー・スチュワート「戦禍のアフガニスタンを犬と歩く」

UKの刑務所の自殺率の激増が問題になっている。
刑務所担当法務大臣(というのか?)が、その原因である麻薬と暴力の監獄環境を改善できなければ辞任する、としゃべっていて、彼の顔つきというか歯並びの悪さが印象的で、ググってみたらこんな本を書いていた。
もうさ、UKはすごいよ。
こんな心身タフな男がいて、45歳ぐらいで大臣やってる。
この本は、2002年にアフガニスタンを歩いて横断したという体験談としてももちろん興味深いのだが、彼のマインドが強く心に突き刺さってくる。
29歳のスチュワートはアジア(イラン・パキスタン・インド・ネパール)を踏破したあと、タリバン崩壊の報に接して、自己の旅の間隙を埋めるべくアフガニスタンのヘラート・カブール間の、直線距離600キロぐらいの制覇に挑む。
格別の理由はなく、単に自分で決めて歩きとおす、そういう移動の過程だ。
たまさか旅程の半分ぐらいのところで大型犬を、なかば地元民に押し付けられるように連れて行くことになり、後半は犬と歩くことになる。
スチュワートも犬も、飼いならされていない性質が共鳴する部分もあるにしても、とにかく生命をつなぐために歩いて行く。
途中、何度も車に乗る機会があるのに、乗らない。
赤痢や極寒や餓えや暴力が、なんども彼らを死の淵に立たせるのに、歩いて進んで行く。
いやほんと、ある種の狂気というか馬鹿というか、ありえないよ、彼のマインドは。
しかも、それらを記述する筆は淡々としていて、おいおいここでは死にそうになっているのにこんなにさらりと書くだけでいいのか、と思わず読み返してしまう。
チャンネル4のインタビューで、アンカーパーソンが改善するにしても予算が圧倒的に少ないのでは、また、刑務所の環境だけを変えようとしても問題解決にならないのでは、と言っているのに対して、正しい対応を社会全体で進めて行くというような抽象的な答えをしているのだけど、しかし、彼には「逃げている」感はなくて、しぶとさというか、とにかく前に進むしかないというのはこの短いインテビューでも理解できる。
この人は注視してゆこうと思う。

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ダークツーリズム

井出明著、幻冬舎新書「ダークツーリズム」および美術出版社「ダークツーリズム拡張」を一読した。

たまたまであるが、ローリー・スチュアート「戦禍のアフガニスタンを犬と歩く」も今読んでいて、これもダークツーリズムと言えばいえる内容だ。
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ダークツーリズムとは、ポストモダンの文脈における人類の悲劇を巡る旅をいう(そうだ)。
何を持ってポストモダンととらえるかは「今」をどう認識するかとの関係性で決まるので、ダークツーリズムも主観的な関係性でカテゴライズされる側面がある。
同じひとつの被災地が、外部者からするとダークツーリズムの対象になるとしても、そこにかつて住んでいた人にとっては、土地と今との連続性が個人の生活レベルで存在していて、そういう側面ではダークツーリズムにはならない。しかし、かつて居住していた彼・彼女が歴史的社会的にその土地を捉えなおすとき、それはダークツーリズムに該当するのかもしれない。
また、単に物見遊山で悲劇の地を訪れるのも、これもダークツーリズムではない。
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このようにダークツーリズムは、真実探求の方法のひとつであるから、学術的なものである。
しかし、その学術性はツーリスト側に立証責任があることが、ほかの確立した学問分野と違う。
「ダークツーリズム」という言葉自体、できてまだ20年程度しか経っていないのだから、認知度が低いのは仕方がない。
くわえて、このようにほぼ直接人の生死や悲劇を学問対象とすることが可能なのか、という部分も、実は存在していると思う。
真実を探求し後世に伝えるため、学術的な目的である、興味本位ではない・・・実際にそうであって明らかに必要性が認められるツーリズムであっても、では悲劇の当事者の立場性はそこでは考慮されないのかという、別次元の観点が存在するからだ。
それは社会と個人の対立構造とパラレルであり、答えはない。
それでもツアーに赴くのであれば、そこには相応のパッションがなければならない。
「探し物なら他をあたってくれ」と言われたときに、「いや、ここにあるはずなんです、どうぞ見つけさえてください」といえるパッション。
ただ、これはどの学問分野にも内在していることだ。

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いちばんしあわせな日

今日は一番幸せな日だったかもしれない。
とくに変哲もない普通の日、だけど内心において私は私の人生に触れてたしかにそれを愛撫した。

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10代のころから、もし40歳を超えて生きていたら、幸せな日が訪れるだろうと思っていた。
その日が今日だったのかもしれない。
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知人の牧師が以前から言っていること、要は愛ということだけど、彼のいう意味がわからなくて、でも、それは言語的な意味を尋ねるという性質のことではないとは解っていて、ずっとずっと考えてきていた。
それが、ふわりと、ぱたりと、先日、解った。
人は変わり続けなくてはいけない、自分があるべきと思う方向に。
変わることで、私は私自身を発見し、発見は愛となる、自分を愛することができる、自分を愛さざるを得なくなる。
そして、人は自分を愛することができなければ他人を愛すことはできない。
まあそんなこと。
そんなことがあって、ドラッカー読んで、小さな何かが重なって。
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ごくごく変哲のないこの日にこんな質量が生まれようとは。
こういう日を私は望んでいた。
2018年8月23日木曜日。

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