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日本書誌学大系「鈴木其一書状」

鈴木其一はどのような人物であったのか。

現在比較的簡単に入手できるなかでは、本書がもっとも信憑性がある。
其一の手紙が144通も掲載されているからだ。
実物の写真と書かれている文字が活字で拾ってあるので、素人にもなんとか理解することが出来る。
とはいえ、そのほとんど全ては事務的文書で、そうでない部分は石居という人宛の手紙に散見されるのだけれど、その石居が誰なのかよく分らないということなので、残念ながらうかがえる人となりはほのかなものにとどまる。

本書の末尾に名古屋大学の河野元昭の論文が載っていて、そこに其一の略歴等々が記されている。
其一に関する文献としては、明治42年の大村西崖「東洋美術大観5」がもっとも重要だということだ(国会図書館でマイクロフィルムでのみ閲覧できる)。辻惟雄(若冲発掘者としても有名)は本書をもとに其一伝を書いたのだそうだ。
余談だけれど、其一の夏秋渓流図屏風(根津美術館・・・11月になれば東博で見ることが出来る!)は辻先生に見いだされたとのことで、そもそも「見いだす」という意味がよく分らないけれど、とにかく辻先生はフットワークが良くていい仕事をしているということを再認識した。

で、その「大観」によると、其一は1796(寛政8)年4月、江戸は日本橋付近で生れた。
父は紫染の元祖、とあるが、さて紫染とは?
どうも江戸紫というように紫は特別な色だったらしく、紫に染める紫師という職業があったらしい。その紫師の先駆として一定の業績を残したのであろう人のもとに其一は生を受けた、ということだ。

そのような環境で絵が好きだった子供が18歳になって酒井抱一(姫路藩主酒井家2代藩主忠以の弟)の内弟子に入る。
このとき先輩にいたのが鈴木蠣潭だった。
鈴木蠣潭は13人扶持の抱一の付き人だったのだが、26歳の時に狂犬病で頓死。抱一の取り計らいで、22歳の其一が鈴木蠣潭の姉りよと結婚して鈴木家を継ぐことになる(このあたりは小松帯刀を既に知っている我々はイメージしやすい)。
ちなみに、りよと其一の年齢差は不明だけれど、2人の結婚6年後に娘を嫁がせているところから、りよは再婚で連れ子がいたのではないか、と河野教授は書いている。
其一はこの婚姻で鈴木を名乗るようになり(それまでの姓は不明)、初めて武士になり、酒井家家臣として150人扶持をいただき、根津5丁目あたりの屋敷に終生住むことになる。

その後、其一は蠣潭にかわって抱一の代筆をしたり画業で生きて行くわけだが、晩年は酒井家6代藩主酒井忠宝正室(将軍家斉の息女喜代姫)に厚遇され(医師格に列せられることで別に30人扶持をいただく)、1858(安政5)年9月10日、63歳で没する。当時流行のコレラであったろうと推測されている。
墓碑は浅草正法寺から中野区沼袋に移され、現存しているらしいが、鈴木家は絶えた。
(つづく)

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