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自己の存在に意味を求めることの何が間違っているのか

山本直樹の新刊を読んだ。
相変わらず、である。
相、変わらずに良い。

ということで思考が宙を駆ける。
山本直樹の登場人物は、だれも自分の存在意義を求めたりしない。美しい線で描かれ、ただ存在していることを享受して、居るだけ。
えろ、という深遠なる側面はさておき、ただそれだけの漫画。
○○甲斐とか、自分に○○○○とか、そういう言葉は画面をかすめたりしないわけ(笑)。
しかし(ゆえに)、彼ら・彼女らは力強い。

力強い存在が正しいとするならば、自己の存在に意味を求めることは間違っているのだろうか。
自己の存在に意味を求めることは評価を求めることであって、自己の外に自己存在の基盤を認める他律性という側面では間違っているだろう。
そもそも、混沌から意味を取り出して、ほらほらこれが僕の骨だよ、と言語化しコミュニケーションを図る行為は、脆弱さを含んでいる。

ただ、脆弱さを含みつつ、後ろ髪ひかれつつはんでゆくのは、いたしかたないのだ。
個人の力強い存在は憧れではあるも必ずしも正しいわけではない。
人は個人でありつつ種としてのヒトにその存在は完全に乗っかっている。種の維持保存はときに個人を埋没させて個人のいのちの瞬きをほのかなものにさえする。

たいそうなタイトルで空虚なことを書いてしまった自分が
ああ情けない。
でもこっそり決意表明もしつつね。

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