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2012年2月

読む本がいっぱい

天気予報どおり雪の模様。
静かな朝。

Mimi Alford の本が届いた。
ケネディとの関係は棺桶の中まで持ってゆくつもりだたけど、数年前公にされてしまったので、これまでどういうことを考えてきたのか、自分の人生に多くの影響があった事実を記しておきたい、というようなことがいいかんじで最初に書いてあった。
面白そう。
でも、今の私にはもっと優先順位の高い読むべき本があるので、まだ読めない。

世界をリアルにとらえること、という意味は実は人によって違うのだろう。私にとっては、頭で認識していることを体で腑に落ちた状態になること、だろうか。そのあたりに関する読むべき本、というか事実を知るための資料がいま手元にたくさんある。
物心ついたころから、自分の中を子細に探せば世界の秘密が見つかるような気がしていて、そのカギがどこかの本の中にそっと記してあるような気がして、本を読んできた。
これは間違いとは言い切れないけれど、禅問答のようなもので、秘密はないというのが秘密だったようだ。息を詰めて覗き込んだそこに無があった時に、ニヒルにもなりうるのかもしれないけれど、喜びの気持ちが広がった私自身を見つけられたから、これからも生きて行ってもいいと思うことができた。

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地震のはなし

島村英紀先生の話を聞いてきた。
4年内70%は根拠がない(長期にわたる世界の地震の観測結果をあてはめても、東京という特定地域の確率はわからないし、3.11以降の値をそのままグラフに取り込むと直近に傾きすぎる)、しかし、直下型はいつでも起きうる、ということだった。
地震や津波の基本的なメカニズムを教えてもらった。
たとえば。
津波は地盤が上下にずれるときに起き、左右にずれた場合にはたいした規模にはならない。だから、地震即津波ということではない。←これは自然のメカニズムのはなし。
前回の大地震の15分後にM9.1が報告された観測所があったけれども、それはすぐには報道されず(情報の取捨選択は大手町が行う)大津波の警報も遅れた。たとえば仙台空港の津波は45分後であり大津波が来るとの警報がすぐ出ていれば多くの人が助かったかも。←これは役所のメカニズムのはなし。

2億年とか、数千年、数百年、という単位で話が進むと、ああ地震はほんとうに普通のイベントなんだなと感じられた。
人知ではいかんともしがたい部分がたいへん大きい。
ただ、最近は様々な観測データが集まってきて、わかった部分も多い(どこに断層があるとか、過去の地震の痕跡とか)。それはほんとに最近のことで、原発の指針ができた1978年時点の情報はあまりに古い。だのに、今もなおその指針で運用されていることが大変問題、との指摘。

自然災害に対する向き合い方が少し変わった。

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もえもえきゅん

って、写真撮るときに言うんだ。。。
ポーズをとるメイド喫茶の人たちに向かって、カメラのおじさんが言ってた。
ここまで自然に言えるなんて、ああその筋の人はやはり違うなぁといたく感心させられた。

掃除して買い物して食事作って・・・。ぜーたくな時間の使い方だと幸せな気持ちになる。
食料品店への往復は雪かきがしてある道を選んでゆく。どの道も脇に寄せられた雪は数十センチになっていて道幅も占めているから、人も車も多少の気を遣いながら行く。


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今日は細雪

今日は細雪

このあたりは本屋の規模が小さい。
ただ、おのおの個性が立っている。
アート系と足元見つめる系の2店によく足を運ぶ。
田中泯「僕はずっと裸だった」を購入。
こんなエッセイ集がでていたんだな。昨年の9月の発行。
このエッセイにも写真を寄せている岡田正人との写真集は、本屋で表紙だけ見たことがある。←高い。9450円。
エッセイのほうは2300円。文章も写真も強烈に面白い。
わけわかんないことが綴られているのかと思ったのは大間違いでした。ブトーは見られてなんぼ、ブンショウは読まれてなんぼ、当然でしょ。
田中泯の言うことはよくわかる。
意識的になににでもない人であり続けようとするのは難しいことだ。人は安住の地をめざす。でもそんなものはないんですよ、というのを自らの身体で示し続けることは険しく細い道を行くことだ。

視界が開けていたのに、こんな短い文章を書いているうちに、いまや窓の外は摩りガラスの世界。


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やや晴れ

やや晴れ

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ペレットストーブ

家具屋に行ったらペレットストーブが置いてあった。

やわらかい暖かさで、じっくり温まる感じで、気持ちよかった~。見た目もすっきりしていて、これが部屋にあったら素敵だろうなあ。
暖炉の魅力ってこういうものなのね。
テレビでペレットの製造過程とか見て、記憶にあったのだけど、これはいいかも。
でも戸建てがまずは必要。ペレットを備蓄する納屋も要るし。
でもいいなあ、ペレットストーブ。
あ

上のタイプは30~60畳用で34万円。重量が60キロぐらい。
小さい40畳タイプは24万円。さらに小さい住宅向けが近く販売される予定とのこと。
配管には2万円。
ランニングコストは石油ファンヒーターよりやや安いぐらい。テレビでは、ペレットは安定供給され価格変動がないのが業務用(ビニールハウスの暖房等)には良いのだと言っていた。

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しずかな休み

有給とって信濃川沿いの別邸(笑)に来ました。

120223_072626今日は雪ではなく雨なので、道はアスファルトがきれいに見えています。
しかし、雪は消えません。

川面を見ていると自分の中で細胞のひとつづつが変わってゆくような、不思議な新鮮な感覚があります。
川の水自体は自然のものですが、管理され尽くしていて、この風景は到底“自然”とは呼べません。
だからこそ脆弱な精神にはちょうどよいようで、水面が作る広々とした空間とあいまって、強く心が引かれます。

遠景で小さく見えるから、かもしれませんが、往く人は皆いとおしい存在です。
自分もこの土手に行ってそのような存在になりたいと思います。
実際、川沿いを歩いていると、どこまでも行ける心持になるのです。

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Mimiちゃん

Mimi Alford の本、注文した。
ケネディーの愛人だったという人の自伝。
いろんな媒体でインタビューされているのを見たけどまあ総じて好意的。
アルト声のMimiにはどこか惹かれるところがあるし、彼女のおさえたタッチの文章も妙に心に響く。
半世紀もたってしまえば、大統領の愛人という生々しさはさすがに薄れて、彼女のスタイル自体に関心が向く。

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論理にすがる

最近の日本人って馬鹿だな、と思うことがままある。
昔はよかった的に単に今ココ以外を志向するわけではなくて、同胞の懐は明らかに浅いと社会的事象から感じられる。
思うに問題解決の手法として論理に頼りすぎている。合理的で自分の望むものにもっとも近い道を行くのが正しいと、無意識気的にも思っている。
ゆえに誤った判断や決定がなされるわけで、まったくもって腹立たしいことである。

責任を取る腹づもりがない。精神のコアが明認できないから論理にすがっているという、根本的に脆弱な精神。
そういう精神は孤独に耐えられず、存在自体がコバエのようにうるさい。

言いたいこと言ってるなあ、>自分。


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足の指

たいへんトリビアなネタだが、英語には5本の足の指各々を特定する言葉がないらしい。
まあ日本でもあいつらに固有の名を与えているわけではなく、手の指と並行的に“足の人差し指”とか言ってるわけだけど、ただ北越雪譜に雪の名称が豊富なことにもなぞらえて、たぶん地球のどこかには足の5本の指に特有の名称を与えているところもあるだろう It depends on culture.と、アメリカ人の英語の先生と話してた。

shin splints というのは過労性脛部痛とか 脛骨過労性骨膜炎らしい(先生がいまこの状態)。日本語でも不可解なのだがなぜか英語ではよく使うそうだ。西洋人はスネが長いから?
その過労性脛部痛の話の中で、 shinはtoesから instepから上がってきてココ(向こう脛)と説明してくれて、左右でshins。対してtoesはtoeが5本。
そういうことらしい。
靴を履いて5人が丸めてひとつでtoeさん(ツマサキ)。靴を脱いでも足の指は同姓同名、個別だけど皆さんtoeさん(アシユビ)。
靴の文化と草履の文化で扱いが微妙に違う、という感じか。
まあそれだけのはなしです。

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ムットさんの料理教室

120219_123952
右上白い容器がサンバル、
黄色いのが大豆グルテンのカレー、
その右がチキン65、
その下、にんじんのアチャール、
真ん中の白いパコッとしたのはパートゥ(チキンキーマ入り)、
下に見えてる灰色っぽいのは丸干しイワシのウナカ、
バナナの葉に鎮座している半月形のはベラ。

アチャール、結構チリペッパーを入れてるので刺激的な味。
でもこれはフレッシュさが美味しいから毎日食べたい。

今日はムットさんの奥様にもお会いできた。
可愛らしい方でいつにもましてムットさんは幸せそうでした。

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疲れが抜けた

今月初めごろに個人的なイベントがあり、大いに疲れた。
これまでになく精神的にヘトヘトになった、といってもよいぐらい。
それが徐々にフェイドアウトしてゆき、やっと持ち直したかと思ったのが昨日。
自分では初めての体験だったので、記しておく。

もう本当に気持ちだけ、精神活動だけで肉体が疲労していた。
あたかも山登ったごとくの疲労感があるのだけど、自分をよくよく見据えてみると肉体は疲れていなくて、もっと体の奥の部分がヘドロ状化して疲弊しているのが認められた。
たぶん耳が私は弱いらしく、右耳が気圧の変化を受けたと同様の膜を張ったような違和感が生じて、眠りを妨げるほどの耳鳴りもしたり、これらはストレス性だろうなとは思うものの、その症状自体にさらにストレスを感じた。
そして、なんだか一挙に老人になったような未来志向ではない気力のなさ、よく言えば静かに死を受け入れる感じ、が気持ちの底に生じていた。

まあ、そんなこんなも疲労であり、無性に眠かったのでなるべくたくさんん寝てみたり、単純に心身を休めれば快方に向かうと思っていたが、それはそうではないらしく、オープンマインドにして精神的な呼吸を深くゆっくりすることがどうやら必要なようだ。
最近、私は、ヨガやったり、システマ(ロシアの護身術)の教室でも呼吸の重要性を教えてもらってきて呼吸を再認識しているのだけど、そういえば呼吸はもっとも原初的な交換活動で、人は何につけ交換活動・コミュニケーションで心身が保たれているのだろうと思い至っている。

付け加えるなら、新しいPCの軽やかさが大変楽しく気持ちも一足先に春になった。

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新入り

120218_073826


薄さにはもう驚かないけど、静かなのがとてもいい。
たぶんだからZEN。
操作性もgood。
すみれ色もお気に入り。

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専門家不審

大往生したけりゃ医療とかかわるな 」(幻冬舎新書)とか、あまり医者にかからない方がいいよ系はとりあえず読んでしまう。
自己判断を重視して、専門家からの過度な助力は避けるスタンスが好ましい。自分の身体のことだから、判断ミスがあっても最悪自分が死ぬだけ。
少し前、ジョブズのことが取りざたされてたけど、ジョブズの場合は自分で選択した方法を取っていたのだろうから、それを詳細を知らない他人がもっと早く手術をすれば延命できたのにとか批判的に言うのは煩いことだ。

医療以外でも、専門家と言われる人がいかに空虚か、痛切に感じるし、それと反比例するかのように専門家に対して過度な期待が寄せられることが多くて、個人的にはそちらの甘えの構造の方をより忌避したい。

とはいえ、自分の生き死にに直面することはそれほどあることではなくて、その時に自分がどういう対応をすることができるか、楽しみでもあり。

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ハッピー・バレンタインズディ

職場で小さなチョコがデスクにたくさんあるのは、やっぱり楽しい。
いろんな人がチョコチョコとチョコをくれる1日でした。
私も自分が好きなチョコを周りの人におすそわけ。イタリアのこじゃれたチョコ。ボスもデスクにいたから、おひとつお口汚しにどうぞ。

13日はオバマが予算教書について演説。
苦しい、もがいてる感じ。

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両親というもの

物語それ自体には価値がないという仮定から考え直したら、いろんなことがしっくりくるような気がした。

自分自身の両親への感覚(同じ種で一時保護されていたことでの共感はあるものの、それ以上の特別の感覚は無し)は、戦争に負けて精神的文化的に空しい昭和という時代によるのかと認識していた。けれど、それは少し違った。
敗戦は関係なく、単に両親の生活には私の求めていた美がなかったからあこがれが生まれなかった。
記憶の始まりのころから日々の居心地が悪く、家族でドライブやニュカマー系のイベントはアグリーだと思っていた。遠くの山々の稜線や小川の水土の感覚・・・が心の深い部分に届いていた。

いったい自分の求めている美とは何なのだろうという視点で、ずっと探していたのだろう。
単純には表現できないけれど、今思うのは、ひたむきさという感覚が近いだろうか。
無知によるひたむきさではなくて、身体に落とし込んでから出てくるひたむきさ(物語の因果関係を法則にしない)、が私にとっては美なのかと思う。
美、というかそれなしでは済ませられないもの。

論理は、単に自分の思考を解きほぐすときにつかうのだな。
論理で答えは出ない。
文化大革命とか17世紀ごろの魔女裁判とかそして両親も、問題に向かい合わず論理という名の迷信行動に沿っていた。

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超高齢化

数日前のCNNが、日本ではアーケードゲームに高齢者が興じていると報道していた。
ゲームはティーンのものだと言われているけれど、現在、日本では老人が子供の2倍、50年後には4倍になるから、経済原理として老人向け商品が若者向け商品にとって代わっていると。
アーケードゲームに高齢者が集っている風景がこの地によくあるものなのか、私は知らないけれど、日本の高齢化が妙にリアルに感じられた。
画面の70歳という男性が、ボケ防止だよ、みたいなことを言っていた。ありがち。

ものの本を読むと、死刑と無期懲役では受刑者の精神状況がものすごく違うらしい。
日本はまるで無期懲役の牢獄だと、最近とみに思う。
自分で壁作って、自分でセル作って、、自分でそこに入ってる。クレイジー。

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犬の人生

物語は貨幣(それ自体に絶対的な価値はなく共同幻想として流通する)であるという仮定に辿り着くと、物語に対して気負いが無くなり、また自分が村上春樹が得意ではないのも理解できた。
追い求めるのは思考の果てにあるかもしれない絶対的な真実ではなく、単純にいま現在なのだ。
犬の飼い方の番組ですごく面白いのがあって(下のCesarの番組)、人間も含めて動物ってこうなんだなあと深く納得させられる。

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за

選週末は反プーチン派と親プーチン派両方のデモがあった。
親派のデモで“за Путин(プーチン)”というプラカードを見た。
さんえー プーチン、とでも読んでしまいそうだけど、ここはもちろんロシア語なので、ザ・プーチン。
заは要望を意味する前置詞!なんだね。

ロシアは昨年の資本逃避がソ連崩壊後2番目に大きい842億ドルとなったそう。
国民の15%が公式にでさえ貧困ライン(月2万円)以下。
今日のモスクワタイムスには、モスクワの地下鉄に駅名の英語表記を記載して国際化を目指すとか書いてあったけど、知れば知るほどアメリカと宇宙開発競争をしていたっていうイメージとは違うなあと。

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青いビニールシート

東京は昨日今日と冷たい雨だった。
仕事に行く途中、まだシャッターの閉じている文房具店の軒先に、青いビニールシートを柏に巻きつけて眠っている人がいた。
ビニールシートは十分な大きさがなくて、彼の足首あたりの皮膚は雨にぬれていた。
一瞬、背中を丸めているその人を揺り起こし暖かいものを食べてくださいといくばくか渡したいと思ったけれど、眠る人の無心な表情に気おされて、傘も傾けずに職場へ向かった。
仕事中、いくどか心が痛んでつらかった。
1年ぐらい前、女性の物乞いを続けて2人見かけたことがあった。驚くほどに汚れた手をしていたけれど、2人とも声が素朴に美しかった。

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叔父の力

論じた書籍があったはずだが失念。
叔父がトリックスター的に登場してくる文学作品や演劇が多かった、ということで、叔父というのはある種特別な存在らしい。
さて、そのような叔父を登場させた物語は秩序を破壊され混沌と化し新たな誕生を見る。

語られたもの記されたものを見聞きすることは、知識になるけれどもそれは体験ではない。
知識レベルで知っていたことを自分で経験したときに、ああこれがあれか、と物語と自分が一体化する。

人は他人になることはできず、個々人の認識が正確に共有されることはない。
しかし、物語に対してフィジカルに共鳴するとき人は世界を共有できる幻想をいだき、それは形而上の世界の貨幣になる。
物語とは何なのか、それは私のテーマであったけど、物語は貨幣である、というひとつの仮定を得た。

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不合理のちから

今年が始まって、まだ1カ月しか経っていない。
でも、気持ちは去年の自分からもうずっと遠くにある。
北方の地震を経て、昨年の後半からは明らかに新たな局面を迎えていた自分の精神だったけれど、・・・それは新しいことを始めるとか、人とのコミュニケーションが濃密になるとか、そういう一見して楽しく感じられることだった。さらに年が明けて、自分の居住地での地震などがリアルになると同時に個人的なイベントが重なり、肉体的に疲れているものの、気持ちはさえざえとしてきている、ような気がする。

私は日本や日本人を愛している。この地で彼らと生きてはかなくなろうと意欲している。
でも、同時に隣人を嫌っている。日本人の生命力のなさが大嫌い。
と、
ずっと抽象的に思ってきて、いま、さらに認識しているのは、安楽なことをよしとする価値観がこの国を支配していて、それは間違っているということ。

重要なのは、間違っているとリアルに認識することだ。
それは、人が死すべき運命にあると知りつつ、現実にはそれをリアルに感じられていないのと同じで、知っているのとリアルに自分の内部から感じるのでは決定的に違う。

横道にそれれば、
死、については、余命3カ月とか専門家に宣告されれば、現実として感じる機会に恵まれるかもしれない。
そして死を感じると同時に「生」も感じるかもしれない。
でも、そんなイベント化された生はここでは関係がない。
イベント化されなければそれを慈しむことができないような者供は埒外だから。

閑話休題。
安楽至上の価値観はあまりに醜い。
そう認識したら、すべきことは何だろう。
唐突なのだが、ものがたりを紡ぐことなのか?
再度井戸掘り、いや水脈を探すべきか?
ちがうな。
いずれにしても、自己表現とか自己実現とかは価値ない。
ロシアの法律でも調べてみよう。

・・・・

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