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2016年7月

変わってゆくから愛おしい

言いたいのは、それだけ。

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エイミー・ベンダー「レモンケーキの独特なさびしさ」

菅啓次郎の翻訳が好ましい。

ローズは、9歳の誕生日ケーキを食べてから、味覚の中に食材やその調理過程の記憶を認知できるようになった。

まるでそれまでは自分の深いところに埋もれていたセンサーが潜望鏡を上げてまわりを見わたし、何か新しいものを発見したと私の口にむかって警告を出しているみたいで、材料の良さ--上等なチョコレート、新鮮なレモンーーが何か、より大きくて暗いものを隠していて、下に隠れているものの味がそのひと口を通じて浮かび上がってくるのだ。(14ページ)

戸惑い。
日常に隠れた複雑さ。
9歳の女の子が成長してゆくということ。その母が年を重ねて行くということ。父が家庭での居場所を確保しようとすること。そして、兄の欠落への過程。

久しぶりに読んだ純粋な小説。
なんて面白い!

50歳を過ぎて、それでも私は私の中に9歳の自分をはっきり覚えている。
根本的には何も変わっていないとさえ思う。
彼女は、9歳の私は、よくやっていた。
子供とはそういうものだ。
よくやっている、存在。
本書のローズも頑張っている。
子供がんばれ。

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ジュリア・マーガレット・キャメロン展@三菱一号館美術館

優雅。

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キャメロンは1815年生まれ。井伊直弼と同じ年(笑)。
48歳で、当時の先端技術だった写真撮影技術を手に入れた英国貴族夫人。
よく目にする日本の幕末の志士たちの写真と比べても明らかなように、彼女の作品は驚異的にアート。キャメロン自身と被写体の作る世界がそこには厳然と現れている。
内なる偉大なものを表現しようと明確に意図し、それが成功した痕跡が、彼女の写真。
優雅。
これこそが優雅というものなのだろう。

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写真は本当に不思議な媒体だ。

キャメロンは、それほど身長は高くなく、しかししっかりした体躯の持ち主で、かなりエネルギッシュな女性だったらしい。
どんな女性だったのだろう。
展示には彼女の手紙も展示されているけれど、流れるような筆記体はほとんど読解不能。
解説によれば、「それにつけてもカネの欲しさよ」的な手紙を書いている。貴族とはいえ世知辛い。
そんな彼女の写真アート。

彼女の被写体となった女性たち。

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9月19日まで。
金曜と第2水曜は20時まで開館で、第2水曜夜は女性割引あり。

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レイナルド・アレナス「夜になるまえに」

久しぶりに文学系を読む。小説ではなく、小説家の自伝。
1943年生まれのキューバ人。極貧生活、社会主義革命、同性愛、投獄、アメリカへの亡命、エイズ、死。
彼の半年が私の一生に匹敵するのではないかと思うほどのディープダイヴな人生。
暴力的で混沌とし泥にまみれた(彼の最初の味の記憶は土なのだという。空腹に耐えかねて土を食べていたのだと。)そのなかに、真珠の粒のように真実が言葉によって現されるのはあまりに美しい。これが、これこそが、人間の生だと思わずにいられない。
刑務所の場面。

悪臭と暑さは耐えがたいものだった。便所に行くのはもう大事(おおごと)だった。便所は一つの窪みに過ぎず、そこでみんなが用をたした。足やくるぶしが糞まみれにならずそこまで行くのは不可能だったし、おまけに洗う水もなかった。かわいそうな肉体。そんな状況では魂は肉体のためになんにもしてやることができない。(249ページ)

世の中の因果関係、たとえば本書に偶然出会ったことには意味はないけれど、読んで感じたことは得難いことを得たことであって、さかのぼって本書との出会いを祝福しても過剰な感情移入にはならないだろう。

ずっとキリスト教の本を読んだり、最近は先生と話をしたりして、少しかの世界の状況が分かってきた。
千年単位の期間をかけて人々が考えてきたことはおおよそのところどんなだったか、蓋然性としてそこには私個人が数十年考えたよりも真実に近い部分があるだろう。
キリスト教は愛の宗教といわれていて「神と私」に閉じない第三者を設定しているのだと思う。人との関係性こそが大事。それがキリスト教なのではないかと思っていて、だとすれば世界を良くするヒントがそこにはあるのではと考えている。

追記:いまググったら、なんだ本書は映画化されているんだ。しかもジョニディが少し出ているらしいから、メジャーなんだ。

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文月

今年も半分が終わってしまった。
早いのか遅いのか。
とにかく冥土の旅の一里塚をひとつづつ超えている。

楳図かずお「わたしは真悟」を20数年ぶりに読んだ。
楳図かずおは才能あるし好きなのだが、長編を書くほどの体力がない人だったことを思い出した。真悟も前半は素晴らしいが後半は失速する。プロットは良いのだけど、たぶん構想が広がりすぎて画を描きこみすぎて、そこに時間が費やされてしまって余裕がなくなってしまうのだろう。
エルサレムのシーンが東京タワーほどの緊張感をもって読むことができたら、と思わずにはいられない。
いや、とはいえ楳図は素晴らしいのだ。がしかし、カズオ・イシグロを読んだりしてしまうと、イシグロのは完ぺきに近いので、読み物とはすべからくかくあってほしいと思うわけである。

テレビをつけたら、大変に若い石橋蓮司らしき俳優が時代劇に出ていて驚いた。鬼平犯科帳(1971年製作)だった。
実際に石橋蓮司だったわけなのだが、これはとんでもなく面白かった。
良いモンと悪モンに分かれての太刀まわり、ここで負けるということは死ぬということなのだという、そこには良いモンと悪モンの差はないリアルを説得する力があった。演技もうまいのだが、演技とはいえない俳優や作り手自身のひととなりが、もう今とは格段にちがう。
蜷川幸雄が演出家としてできたころの演劇のちからが垣間見えたようだった。

弥生美術館で谷崎文学に出てくる衣装の再現をする企画展があった。
要はむかし着物の展示なのだが、存外にお客さんが多かった。こういう、いわゆる「おきもの」ではない自由な、でもちょっとオシャレな生活の中にある着物に関心がある人が多いということだろう。
でもこれはかぶいた着物の世界なのだから、これをまねて現代の日常に着ると「それはちょっと」の人になってしまうことに注意してほしいことであることよ。

手品を習いに行った。
これは面白かった。
心理学というか。

そう遠くもない親戚に、生まれて初めて会う。
これは人生で記念すべき出会いだった。

その前の週に、友達と明治神宮に行ったのは書いたっけ?
これもスゴイ経験だった。
その時に撮った写真をもらったのだけど、私の宝物になった。

書き出すときりがない。
たまにはブログを書かなくてはと思う。

ではまた。

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