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2016年10月

アトゥール・ガワンデ「死すべき定め」みすず書店

死は、たぶん100%の人が経験することだ。けれども、その経験を先人から伝え聞くことはできない。知りたいと思っても自分で経験してみるしかない。
初めて、死がその距離を狭めてきたとき、私は死を直視することさえできなかった。
自分と死の関係性が密接になることが信じられず、この状況は現実ではないように感じていた。
死は、その気になれば私すべてを飲み込み、私は私のすべてを何もかもを失う。そのような絶対性に私は馴染みがなかったのだった。
いったん遠ざかったように見える死は、去ってしまったわけではなくてやはりそこにある。次に彼の影を眼前に見るときには、きっと現実のものとして認識することができるかもしれないと、少し楽観的な気持ちが今はある。

さて。
死すべき定め」は、私に死の姿を満足できる形で見せてくれた。
多くの人の死への過程が、論文の紹介であったり、医師としての記録であったり、父をおくる息子としての体験であったりと、様々に描かれている。
現代の先進国で最も多いであろう、子供もしくは幼児・乳児のような扱いを受けた後に、医療機関で一定の延命を施されてから訪れる死。それは、私自身がたどる確率が高いものでもある。
敬意と配慮をもって、容赦のない真実が記述される。
100%の人は死ぬ。死は静かにゆっくりとやって来て、人の能力を奪いながら深く深く浸食してゆく。

太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ

絶対に人は死ぬ。
死は絶対の存在であるということに、いま生きている私はどのように対応すればいいのかを、私は思い悩んできた。
しかし、そこに正解はないのだ。死は何をもってしても必ず訪れるから、何をしても等価値に無意味だ。
ただ、死につながる生においては何をするかは意味がある。そこでの判断主体は私自身なのだから。
死は私たちに絶対を見せてくれる。絶対は人の存在をはるかに超えて在る。
宗教が死と結びつくのは、死そのものが絶対の存在だからだろう。
人は死によって絶対を知ることができる。

私はねむい。

そうだった。
この本は死を描いているとともに、死にゆく人に対して我々が何ができるか何をすべきかを描いている。むしろそちらこそが本書の主題なのだ。
著者は医師だからこのようなスタンスは当然かもしれないが、医師でない一般の人であっても死は自分の問題として、また、最も親しい間柄の人の問題として直接そこにあるのだから、対処し解決すべき対象なのだ。
この点において本書は、社会システムの改革、マインドセットの刷新、個々人の情報収取に大いに資する。
ただ、死をリアルとして受け止めることは難しい。医師である著者でさえ、みずからの父を送る段においてはその難しさを自覚させられる。
ここが問題解決を困難にする最初の最大の要因だ。
そして、この難しさには勇気(現実に向き合う強さ)で臨むしかないと著者はいう。
私もそう思うし、本書はその勇気を体感させてくれるのが素晴らしい。

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takeSomeCrime

何度見たかわからない。
I'm watching so many times.

演じることって何だろうとか、身体表現ってどういうこと、と考えながら自分が何を求めているのかわからなくて、ずっとずっとググっていて見つけたのが彼のダンス。
私は彼の表現方法が大好き。

カナダの空手キッズがyoutubeに動画を投稿して、takeSomeCrimeは誕生した。
日本語での情報はここが詳しい。インタビューも掲載されている。

上の動画ではわからないけど、彼の身体は大変に美しい。
美しい身体から最新の注意を払って動きが紡がれ、時間と音楽によってそれがダンスになる。

彼の膨大な動画ストレイジの中でも上記が特にお気に入りなのは、ダンス自体が広がり感があって宇宙をダイレクトに感じさせるのがすごくいいし、音楽もいいから。
A Selfish Man って曲のタイトル見て、太宰の「人間失格」が英語に直すとこれかなと思った。つかこうへいがビートルズの歌のタイトルから「郵便屋さん、ちょっと」を思いついたようなニュアンスという意味だけだけど。
それから、これはドバイ空港だと思うけど、このスィチュエイションも素敵。
彼はね、どこにでも自然に存在したいと思っているんだよね、きっと。ユビキタスを目指していて、それにほとんど成功していると私は思うよ。私は彼の中に神を見てるもの。

いつか彼の動きを目の前で見ることができると思っている。

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舞台 「The Curious Incident of the Dog in the Night-Time 」@ Gielgud Theatre

まったく予備知識なく見てきました。
ふと、お芝居でも観ようかとネットで演目一覧を見ていて、外れのないラ・ミゼラブルにしようかと思いつつ、いや、ここは少し冒険をしておこうと、タイトルのみで選んだのでした。
でも、劇場窓口に当日券を求めに行ったら、大きくトニー賞5部門受賞とか書いてありました、2015年作品賞・演出賞・主演男優賞・装置デザイン賞・照明デザイン賞!
しかもその後ググったら、原作本があって日本語訳が早川文庫に入っていて、日本で映画も翻訳劇も公開されているという、たいへんメジャーな作品だったのでした。
私が見たバージョンのトレイラーもありました。

動画からもわかるように、床とそれを囲む3面の壁面が電気仕掛けで光ったり一部がせり出したりハイテクノロジーな舞台で、それ以外の舞台装置はほとんどなくて、いくつかの箱のようなものをシーンごとに家具だったり電車の椅子だったりに見立てていました。
そして、俳優があるシーンではベットになったり扉になったりと舞台装置になるのは、不思議な鮮やかな印象がありました。

ストーリーとしては、
15歳のクリストファーはアスペルガーでお父さんと2人暮らしをしています。
ある夜、隣の家の犬が殺されているのを見つけ、パニックになったクリストファーは犯人扱いをうけてしまい、自分で真犯人を探すことにします。
探す、ということをしているうちに、実はお母さんが生きていてロンドンに住んでいることを知り、一人電車に乗ってロンドンに行き、お母さんに会いました。
というシンプルなものです。

完ぺきに魅了されてしまいました。
お芝居としてとんでもなくよくできていましたし、加えて、私自身が初めて一人でロンドンを訪れていて主人公クリストファーの心理に自分を重ねることができ、しかも当日券は最前列だったので舞台のふちに腰かけるシーンなどは目の前に役者がいて、お芝居を見ているというよりもその場に居合わせているという感覚に浸れたからでしょう。

演劇というものは何なのか、ずっと考え続けてきました。
ほのかですが初めて腑に落ちる感覚を得ることができました。

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