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2017年1月

東京芸術大学卒業・終了作品展

東京芸術大学卒業・終了作品展に行った。 
強烈に面白く、一日中上野で楽しく過ごしてしまった。
特に気に入ったのは、
久保万理子(漆という素材だからできる観念的な奥行き感が斬新に表現されていた)、
仲間一晃(身近な人々の存在を立体にくりぬいた面白さ)、
赤池龍星(画もいいし、スケッチを手に取らせる見せ方も、素朴なようで新鮮だった)、
三上晏子(ほかに類のないふしぎなリアルさ)、
中垣拓磨(小さな立体、ここに住みたいと思わせる魅力があった)、
佐々木敬介(既視感はある、でも新しくて心地よい)、
齊藤可那子(一番気に入ったかもしれない 笑)、
等。
 
作家が会場にいるのも良い。好むと好まざると彼・彼女の代表作となる彼・彼女自身の顔を見ながら制作を見るのは、やや悪趣味かもしれないけれど楽しい。
 
来場しているのは高校生や学生が多かった。
「(自分の表現方法を模索して)これだと思ってしばらくすると、10年前にかならず誰かがやっているんだよね。」と会話しながら歩いていた学生がいた。
なるほど、独自性を模索するとそれは獲得されず、類似性を探し求めると独自性に行き着くのか。当たり前のことが再度当たり前として認識しなおされる今日この頃。

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ロンドン、リスボン

PetShopBoysのLondonは私の中に深くしみこんでいた。
そして、ベーコンの画を受け入れるイギリス(=かつてチューリングが自殺した国)を垣間見たかった。
ロンドンに高くそびえるバベルの塔は、短い滞在でも体感できた。
語学学校によると、ロンドンでは300種にも分類される言語が話されている。
そして、シティと呼ばれる地域にいる人と、地下鉄でほんの少し外れた場所で出会う人では、身長や体形、歩き方や使う言語が異なった。

でも、そんなロンドンの空気は私にとって呼吸がしやすかった。
修辞的にではなく、空気は軽やかで、水道水は口当たりなめらかだった。
ロンドンの空気は基本構造がシンプルだと心身で感じていた。
 
ここでは、バベルの塔があるという事実が、まずはシンプルに認識されている。
そして、さらに重要なのは、そこで止まらずに話が展開することだ。
私は私、あなたはあなた。あなたと私は違う、そういう厳然たる認識があって、違うから憎むなのか違うから愛すなのか、それは大問題だけど、とにかくあなたと私は別の人格だというところから話が、始まる。
これはつまり、根本にフィクションがないという「誠実さ」を使って社会を見ているということで、それは「神」から来る誠実さだろう。万能の神からみれば、人は誰もが原罪を負う不完全な存在で、人は神のわざを誠実に受け止めるしかあるまいてという心情は、神が今いようがいるまいが思考背景にあると思う。
法と神の前での平等というのは、つまり、いつも我々は神や法の前にいるわけではなく、ユージアルな場面で人は不平等だという生の強烈な事実を受け止めることが前提なのだ。そういう事実を受け止めることのできるタフな精神がなければ主体としての個人になれない。
 
そう、ロンドンではなんとなく引っかかっていたことにケリをつけることができた。

人生は舞台ということば。
修辞的なオシャレな表現だと思い込んでいたけれど、地下鉄や街角で隣り合う市井の人々、ここは劇場ですかと思うような発声の良さ(笑)、表現力の豊かさ、強烈な個性を感じさせた。日本では芝居はかなり芝居がかって見えるけど、なのでロンドンの演劇は逆に日常っぽく感じた。
そして、空の色。
イギリスの多くの風景画の空は美しい。ガーリーなピンクに似合うスゥイートなブルーをしている。こんなチャーミングな空が描けるなんて、イギリスの画家は素敵な人格の持ち主なのだと思っていた。でも違った。雨上がり(これはしばしば遭遇する事態)、風景の奥のほうに見える空は画のとおりのスゥイートなブルーだった。本物の空自体がチャーミングだったのだ。なんだ見たまま描いただけかよと、この美しさを描きたくなる気持ちはわかるものの、すこしがっかりした。
 
加えて、ロンドンは論理と別の次元での共感も求める街だった。
たとえば、人がバイオレンスを愛する部分があるのは、破壊への連関とそこに感じられる嘘のなさと共感の容易さからだ。外部からの刺激が自己の感覚器官に痛みをもたらすことを人は知っているし、ほかの人も同様に知っていることを知っている。痛みは、実際に神経細胞で感じなくても、映画で視覚的に見せられるだけで、作り手と鑑賞者および鑑賞者同士で共感できる。論理思考は大切、でもそれは過度に信用してはいけないとドイツ人の多くの論文からも痛感させられる(最も説得的なのはミヒャエル・クンツェ「火刑台への道」)。
ベーコンの画を受容したいと願ってそれを成功させたイギリスには、そういう論理・神・法・慣習などなどオーサライズされた手法を過度には信用するまいとする個人主義を感じる。
 
結局。
私はリスボンではなくロンドンに行ったわけだが、ロンドンでも人が不平等で個々別々だということがデフォルトで、そこから対話が始まっているのが美しかったです、
ということでした(この美しさというのは、人は個々別々でもそれは孤独とは違うと感じさせるという意味です)。

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「リスボンに誘われて」

先に私はこの映画のタイトルがナンセンスだと書いた
それは、タイトルの主語は主人公だと認識していたからだった。「スイス人高校教師の私は、偶然の出来事からリスボンに誘われて、云々・・・」というような。
しかし、よくよく考えてみるとこのタイトルは秀逸なのかもしれないとも感じている。
原作とは明らかにテイストが異なるこの映画を、原作とは異なるタイトルにするのは正しいのではないかと。

気になる場面があったので、入手できる日本語版と英語版の原作小説でその個所を確かめてみた。
本作はドイツ語が原作なのだが、ドイツ語版はにわかには入手できなかったし、ドイツ語は読めないので、諦めた(悲しい)。
日本語版も英語版も、ドイツ語の原作を翻訳している。

映画では、主人公は訪れた眼科医で問題の本について熱っぽく語るのだが、眼科医は(なんと)自分の伯父が本の著者を知っていると言って主人公を案内する。フェリーに乗り、その伯父と初めて会ったのは老人ホームのパブリックスペースだった。
2人はソファーに座り、お茶を前に話し始める。
ポケットから出された老人の手は、独裁政権による拷問のためにパーキンソン病者のように震えて、なみなみと注がれたカップを取り上げることができない。
「カップに半分で良かったのに」。
テーブルの反対側に座る主人公は、わずかな躊躇をみせるも、思い切ったように老人のカップに手を伸ばし、一気に半分ほどを飲み込み、素早くカチャリとソーサーに戻した。
老人は瞬時目を見開き、「こんな風にされたのは初めてだ」とお茶を味わい、そして過去の誰にも話してこなかったであろう話を始める。

私はこの場面で激しく心が動かされた。魂が溶けるような共感でもって、私のなかの孤独の概念が根源から変化したのを感じた。
このゆさぶりと変化の理由は言葉で説明できるけれど、しかし必ずしも他人と共有できる感覚ではないだろう。

脱線するけれど書いておくと、まれ人がきっかけとなって特定の場所の文化や慣習を破壊する類のストーリ(日本の演劇では「叔父の力」とも呼ばれるジャンルがあるように)があるけれど、そういうお芝居なり小説が苦手だ。
本書の日本語原作では上記の登場人物は伯父と表記されていて(丁寧に父の兄とも書かれているが、英語版では単に father's brotherなのでここはドイツ語版をいつか確かめたい)、その辺も面白い。

さてこのような、個人的に狂おしい感覚を得た場面は、文字媒体でどのように記載されているのか、そもそもこのお茶ごっくんのエピソードは存在するのだろうか。

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東京国立近代美術館「endless 山田正亮の絵画」

今年から選り好みせず展示を見ることにした。
本展では219点の山田の油彩等が展示されている。
山田は56冊の制作ノートに克明に作品のことや日常の出来事を記載しており、その一部も展示されていた。

本展は副館長の中林氏が企画したものだが、氏は生前の山田をご存知のようで、この展示はどこか人の体温が感じられる印象があった。
展示の仕方ももちろんだけれど、デザイン性の高いフライヤや会場ガイドがかなり楽しくわかりやすいのは、作家を知っているからできることだろう。
図録にISBNがついているのも珍しい(図録が一般の流通に載るということの意味はしらない)。

山田の画がほぼ時代ごとにまとまって展示されているのだが、最も初期の1948年ごろからのいわゆる静物画、それが抽象化され、四角、ボーダー、升目状、ワントーン、と変ってゆくのは、自然な流れに見える。
数的にボーダーが多い。それらは、色彩が違うだけではなくひとつひとつ描き方が違っていて、線の見せ方を試行錯誤している。ずっと見ていると、山田が左から右へと太い筆を走らせる姿が見えるような気がする。
良いと思ったのは、抽象と具象の間ともいえる、青系の、極端に抽象化された身体がひしめき合っているような画。忘れかけていた自分の個人的な経験を思い出した。
数年前の冬の日、その季節初めての本格的な寒さの日、地下鉄の通勤客は皆オーバーコートを着ていたのだが、ふと、列車が大きく揺れて、私はバランスを崩し床に仰向けに倒れてしまった。黒いオーバーコートの人々が起立しているなかに、私の横たわった身体分の空間がひらいていて、そして私のいる床はとても静かだった。シュールな、でもふしぎな幸せな感覚があった。そういう個人的な体験を思い出したのは、画がひしめき合いつつ静かな印象をもっていたからだろう。

自分のペースで画を見ることはとても楽しいことだ。

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黒い本

やっと届いた画集。
本の形状自体にすでに存在感があって、その存在感を感じながらめくると、美術館で見たあのときの胸のざわめきが沸き起こってくる。
これはなんという。
耽溺してしまいそう。
こんなに魂が打ち震えることがあるとは。
世界はあまりに演劇的すぎる。これが世界か。

この画集を知らなかった私と知ってしまった私。

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ヴィクトル・ストイキツァ「影の歴史」平凡社

ストイキツアは面白い。
圧倒的な情報量が思考を豊かに自由にし、読み物としてちょうど良い頃合いのポジティヴな明るさにつながっている。
そんな明るで、「影の歴史」(A Short HIstory of The Shadow 1997)は絵画作品(写真やその他もいくつか含まれているが)における影の描かれ方とその意味を述べている。

見ることは光を感得することだから、絵も写真も光があってこそ成立する。
しかし、光には波長と別に強弱があり、また、光源が遮られれば遮蔽物の形に倣った影がおちる。
光の弱さや欠落は対象物の存在自体とは関係がないけれど、光で・視覚で認識することをデフォルトとしている世界においては、光の存在こそが対象物の存在として認識されやすい。
そういった人々の認識をベースに、絵画作品のなかに描かれた影に託された意図を探ってゆく。

キリコの例の「街路の憂鬱と神秘」やボルタンスキーの影絵、デュシャンの手法、悪魔に影を売った男の話の挿絵等々、古今の様々な作品が述べられてゆくのだけれども、私が最も興味深かったのはなんといっても印象派の部分だ。
ルノワールの「デザール橋・パリ」の下部に描かれた影は「絵画外の世界から絵画の領域内への侵入を示す」ようなものと分析され、モネが睡蓮を「水と反射の風景」と手紙で記していることにつながり、ナルキッソ神話に循環するのだが、自己投影の絵画史的再帰は自己愛ではなく世界への愛情だと述べられる。

Photo

印象派に関しては、本書全体350ページのなかの9ページ分でしかない。
ここだけをもっとたくさん深く読みたいと思った。

そもそも本書を読んだのは、口絵にベーコンのゴッホの肖像画のための習作が掲載されていたからだ。
ベーコンは、ゴッホの影を明示的にとらえて、色濃い死の影があるから描くべき生があるのだと認識していた旨が記載されていた。1ページ分のみ。

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解釈

クメールルージュの生き残りの人たちは、目の前の人間が信じられるかどうかを見抜く能力が極めて高いのだと、どこかのドキュメンタリー映画で言っていた。
ベーコンの素描は「永遠」を感じさせる価値がある。それは、著名な作家であるベーコンが描いたとか、経済的価値があるとか、そういうことではなくて、線が違うから。

このような評価が、なぜなされるのだろう。
これらの情報は、なぜこれらの判断をなさしめるのか。
ここを媒介する部分が「解釈」なのだと、改めて認識したのがこの正月。
とりあえず、ディルタイ、ガダマ、ヤウスとイーザーを並行的に読み始める。
大学1年生のような心地。

解釈に行き着いたのは、ストイキツアが「絵画をいかに味わうか」で2行ぐらいヤウスについて触れていたから。
解釈という言葉は知っていたつもりだったし、毎日その周辺の作業をしている。
でも、この解釈を独立させて精査することは私の思考次元にはなかった。
解釈に関する基本的な書籍はどれも、私のような思考次元の者への断り書きを冒頭に記載している。
たとえば2000年のイーザー「解釈の射程」は次のような序文から始まる。

本書は、解釈を精査する試みである。解釈という活動は自然に生じるものであるという意見が広まっていることが、とりわけこのような試みをする理由である。自然に生じないのが解釈の形なのである。
・・・
解釈とは、かつてと違い、もはや解釈学とは同一視されるべきではない。解釈学とは、理解へと開かれたテクストを基本的に扱うひとつの顕著なジャンルでしかない。しかし、文化、エントロピー、あるいは場合によっては同じ基準では測れないもののように、テクストでもなければ筆写されたものでもない何かを解釈するとなると、解釈の手続きが必ずや変化する。その変化に焦点を合わせるのが、以下の諸章の基本的意図である。

イーザーの見解を100%理解したとしても、なぜベーコンの線が特別なのかを論証することができないのは判っている。ベーコンも If you can talk about it, why paint it? と言っている(Andrew Sinclar Francis Bacon 1993)。
ただ、私にとっては思考のブレイクスルーが心地よかった。それだけの話。
いままでバラバラに私の思考の中に散在していたことどもが、有意な位置関係にあるのかもしれないと感じられたのは、個人的には大いなる楽しみだ。

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映画「リスボンに誘われて」

邦題はナンセンス。原題Night train to Lisbonのほうが硬質にミステリアスで良い。
ふしぎな面白さの映画。
なにがふしぎなのか。画面に描かれていない部分が説得的に描かれているという矛盾する状態が成立しているというふしぎ。
たとえば、主人公の高校教師は偶然1冊の古書を手に入れて、そこに挟んであったチケットでスイスからポルトガル・リスボンに向う。古書の著者を電話帳で探して会いに行き、すでに故人となっていた著者に関係する人々ひとりひとりから話を聞く。
ストーリーは偶然の出来事が積み重なってつながってゆく。
これがハリウッド映画だったら、ご都合主義にうんざりさせられたにちがいない。でも、ドイツ・スイス・ポルトガル合作の本作では、これら偶然の連鎖は描かれていない何ごとかによって必然に起きているのだと感じさせる。
これは素晴らしい技じゃないか。
巧みなシナリオと役者の演技と深い表現力あるカメラ。

たしかにセリフでも「偶然性」が語られるし、それら偶然性はすべて人を介在して展開してゆく(たとえば偶然古書を手に入れるのも、本屋で本を見つけたのではなく、投身自殺しようとしていた?女性を助けて、彼女が残していったコートのポケットから見つける。たまたま人と衝突して眼鏡を壊して・たまたまかかった眼科医の叔父が問題の中枢人物。など)のは、偶然性をそれとして語っているのではなく、その背後に「ある」ものを確実にかたっているから偶然性が必然として説得力を持つ。


この偶然性の基盤として登場人物は全員英語を話す(原作では逆に主人公が言語学の素養を持つ)。
英語が公用語でないスイスの学校やリスボンで英語が話されるのは、映画を見ている観客の便宜のためではないのだ。

主人公を演じるジェレミー・アイアンズやシャーロットランプリングの英語もいつもの英語とはどこか違う、のが私には理解できない(悲しい)。
でも、たぶんここで話される英語はバベルの塔が無かったら、というおとぎ話としてのえいごなのだ。EU統合の是非とは別に英語は一つのおとぎ話に説得力を持たせている。

本作については様々なことを語ることができる。ポルトガルの独裁政権や革命、それを知らなかった私の無知を含め。

しかし、本作中で語られたことを語ることは重要ではない。

語られなかったことが雄弁に語られていることを語るべきだ。

フランシスベーコンの絵画における背景の消滅、削られた顔面、描かれた穴。描かれるべきが描かれないことで、描かれている次元と別の次元を想像させその存在を確信させることができるのは稀有な能力だ。この能力を我々は共有するために語る必要がある。

ところで。

ニュースによると、ポルトガルの元大統領マリオ・ソアレスが92歳で亡くなった。

これも本題と関係ないが、去年のロンドン旅行のカード利用等の整理も終わって、改めていろいろなことがあったと考えていた。
最も美しい思い出はピアとの会話だったように思う。
お互い英語が拙くて、でもこのひとと話をしたいという気持ちが強かった。
私が彼女がドイツのなかでもベルリンに住んでいると聞き、ベルリンにあこがれている気持ちをつがえたかったけれども、歴史的な部分を適切に表現できる言葉を持っていなくて、
「ヴィムベンダースの天使の映画、日本ではベルリン天使の歌というタイトルの映画は印象深かった。ドイツには行ったことがないけれどベルリンは私にとって特別な場所だ。」という話をした。
言語的にはたいした情報は伝えられなかったけれど、ピアは何かを感じてくれてベルリンは素敵な街だと教えてくれた。そして、ソフィアコッポラのロストイントランスレイションを見て行ったことのないトーキョーが好きになった、とも話してくれた。

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謹賀新年

今年もよろしくお願いいたします

振り返ると、去年は私の人生の分水嶺になるのかもしれない。
京都もロンドンも、まるで遠い出来事のようにも思えるけれどつい先年の出来事。
あれから連続する今年は一体どうなるのか。
こんな楽しみな気持ちで新しい年を迎えられたのは幸せなことだ。

元旦は朝からベーコンの論文を読んだ。
改めて近代美術館の保坂健二朗氏のは実証的なアプローチが良い。ロジカルに詰めてゆく論述に好感が持てる。
ただ、論理を詰めていっても最後の評価部分の説得の力がほんの少し物足りないのは、氏がまだ比較的若いからなのだろうか。
この点、ドゥルーズ(「フランシスベーコン 感覚の論理学」)は抽象論を書いているようで理詰めで説得されてしまう。ドゥルーズ個人を超えた歴史ともいえる時間の重みによって私の認識はねじ伏せられてしまう。

昨夜、テレビを見ていたら、マタイ伝の「いと小さきもの」について映画監督スコセッシが話していた。
日本で一般的に述べられているアプローチとは全く違っていた。
ずっとわからなかった小さきものの意味が初めて腑に落ちた。小さな稲妻に打たれた。
遠藤周作は日本のキリスト教は何なのかとずっと考えて自分なりの答えを出していた。遠藤は正しいのだろうとやっと評価できた。

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