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ロンドン、リスボン

PetShopBoysのLondonは私の中に深くしみこんでいた。
そして、ベーコンの画を受け入れるイギリス(=かつてチューリングが自殺した国)を垣間見たかった。
ロンドンに高くそびえるバベルの塔は、短い滞在でも体感できた。
語学学校によると、ロンドンでは300種にも分類される言語が話されている。
そして、シティと呼ばれる地域にいる人と、地下鉄でほんの少し外れた場所で出会う人では、身長や体形、歩き方や使う言語が異なった。

でも、そんなロンドンの空気は私にとって呼吸がしやすかった。
修辞的にではなく、空気は軽やかで、水道水は口当たりなめらかだった。
ロンドンの空気は基本構造がシンプルだと心身で感じていた。
 
ここでは、バベルの塔があるという事実が、まずはシンプルに認識されている。
そして、さらに重要なのは、そこで止まらずに話が展開することだ。
私は私、あなたはあなた。あなたと私は違う、そういう厳然たる認識があって、違うから憎むなのか違うから愛すなのか、それは大問題だけど、とにかくあなたと私は別の人格だというところから話が、始まる。
これはつまり、根本にフィクションがないという「誠実さ」を使って社会を見ているということで、それは「神」から来る誠実さだろう。万能の神からみれば、人は誰もが原罪を負う不完全な存在で、人は神のわざを誠実に受け止めるしかあるまいてという心情は、神が今いようがいるまいが思考背景にあると思う。
法と神の前での平等というのは、つまり、いつも我々は神や法の前にいるわけではなく、ユージアルな場面で人は不平等だという生の強烈な事実を受け止めることが前提なのだ。そういう事実を受け止めることのできるタフな精神がなければ主体としての個人になれない。
 
そう、ロンドンではなんとなく引っかかっていたことにケリをつけることができた。

人生は舞台ということば。
修辞的なオシャレな表現だと思い込んでいたけれど、地下鉄や街角で隣り合う市井の人々、ここは劇場ですかと思うような発声の良さ(笑)、表現力の豊かさ、強烈な個性を感じさせた。日本では芝居はかなり芝居がかって見えるけど、なのでロンドンの演劇は逆に日常っぽく感じた。
そして、空の色。
イギリスの多くの風景画の空は美しい。ガーリーなピンクに似合うスゥイートなブルーをしている。こんなチャーミングな空が描けるなんて、イギリスの画家は素敵な人格の持ち主なのだと思っていた。でも違った。雨上がり(これはしばしば遭遇する事態)、風景の奥のほうに見える空は画のとおりのスゥイートなブルーだった。本物の空自体がチャーミングだったのだ。なんだ見たまま描いただけかよと、この美しさを描きたくなる気持ちはわかるものの、すこしがっかりした。
 
加えて、ロンドンは論理と別の次元での共感も求める街だった。
たとえば、人がバイオレンスを愛する部分があるのは、破壊への連関とそこに感じられる嘘のなさと共感の容易さからだ。外部からの刺激が自己の感覚器官に痛みをもたらすことを人は知っているし、ほかの人も同様に知っていることを知っている。痛みは、実際に神経細胞で感じなくても、映画で視覚的に見せられるだけで、作り手と鑑賞者および鑑賞者同士で共感できる。論理思考は大切、でもそれは過度に信用してはいけないとドイツ人の多くの論文からも痛感させられる(最も説得的なのはミヒャエル・クンツェ「火刑台への道」)。
ベーコンの画を受容したいと願ってそれを成功させたイギリスには、そういう論理・神・法・慣習などなどオーサライズされた手法を過度には信用するまいとする個人主義を感じる。
 
結局。
私はリスボンではなくロンドンに行ったわけだが、ロンドンでも人が不平等で個々別々だということがデフォルトで、そこから対話が始まっているのが美しかったです、
ということでした(この美しさというのは、人は個々別々でもそれは孤独とは違うと感じさせるという意味です)。

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