« 東京国立近代美術館「endless 山田正亮の絵画」 | トップページ | ロンドン、リスボン »

「リスボンに誘われて」

先に私はこの映画のタイトルがナンセンスだと書いた
それは、タイトルの主語は主人公だと認識していたからだった。「スイス人高校教師の私は、偶然の出来事からリスボンに誘われて、云々・・・」というような。
しかし、よくよく考えてみるとこのタイトルは秀逸なのかもしれないとも感じている。
原作とは明らかにテイストが異なるこの映画を、原作とは異なるタイトルにするのは正しいのではないかと。

気になる場面があったので、入手できる日本語版と英語版の原作小説でその個所を確かめてみた。
本作はドイツ語が原作なのだが、ドイツ語版はにわかには入手できなかったし、ドイツ語は読めないので、諦めた(悲しい)。
日本語版も英語版も、ドイツ語の原作を翻訳している。

映画では、主人公は訪れた眼科医で問題の本について熱っぽく語るのだが、眼科医は(なんと)自分の伯父が本の著者を知っていると言って主人公を案内する。フェリーに乗り、その伯父と初めて会ったのは老人ホームのパブリックスペースだった。
2人はソファーに座り、お茶を前に話し始める。
ポケットから出された老人の手は、独裁政権による拷問のためにパーキンソン病者のように震えて、なみなみと注がれたカップを取り上げることができない。
「カップに半分で良かったのに」。
テーブルの反対側に座る主人公は、わずかな躊躇をみせるも、思い切ったように老人のカップに手を伸ばし、一気に半分ほどを飲み込み、素早くカチャリとソーサーに戻した。
老人は瞬時目を見開き、「こんな風にされたのは初めてだ」とお茶を味わい、そして過去の誰にも話してこなかったであろう話を始める。

私はこの場面で激しく心が動かされた。魂が溶けるような共感でもって、私のなかの孤独の概念が根源から変化したのを感じた。
このゆさぶりと変化の理由は言葉で説明できるけれど、しかし必ずしも他人と共有できる感覚ではないだろう。

脱線するけれど書いておくと、まれ人がきっかけとなって特定の場所の文化や慣習を破壊する類のストーリ(日本の演劇では「叔父の力」とも呼ばれるジャンルがあるように)があるけれど、そういうお芝居なり小説が苦手だ。
本書の日本語原作では上記の登場人物は伯父と表記されていて(丁寧に父の兄とも書かれているが、英語版では単に father's brotherなのでここはドイツ語版をいつか確かめたい)、その辺も面白い。

さてこのような、個人的に狂おしい感覚を得た場面は、文字媒体でどのように記載されているのか、そもそもこのお茶ごっくんのエピソードは存在するのだろうか。

|

« 東京国立近代美術館「endless 山田正亮の絵画」 | トップページ | ロンドン、リスボン »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/11466/64781456

この記事へのトラックバック一覧です: 「リスボンに誘われて」:

« 東京国立近代美術館「endless 山田正亮の絵画」 | トップページ | ロンドン、リスボン »