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映画「リスボンに誘われて」

邦題はナンセンス。原題Night train to Lisbonのほうが硬質にミステリアスで良い。
ふしぎな面白さの映画。
なにがふしぎなのか。画面に描かれていない部分が説得的に描かれているという矛盾する状態が成立しているというふしぎ。
たとえば、主人公の高校教師は偶然1冊の古書を手に入れて、そこに挟んであったチケットでスイスからポルトガル・リスボンに向う。古書の著者を電話帳で探して会いに行き、すでに故人となっていた著者に関係する人々ひとりひとりから話を聞く。
ストーリーは偶然の出来事が積み重なってつながってゆく。
これがハリウッド映画だったら、ご都合主義にうんざりさせられたにちがいない。でも、ドイツ・スイス・ポルトガル合作の本作では、これら偶然の連鎖は描かれていない何ごとかによって必然に起きているのだと感じさせる。
これは素晴らしい技じゃないか。
巧みなシナリオと役者の演技と深い表現力あるカメラ。

たしかにセリフでも「偶然性」が語られるし、それら偶然性はすべて人を介在して展開してゆく(たとえば偶然古書を手に入れるのも、本屋で本を見つけたのではなく、投身自殺しようとしていた?女性を助けて、彼女が残していったコートのポケットから見つける。たまたま人と衝突して眼鏡を壊して・たまたまかかった眼科医の叔父が問題の中枢人物。など)のは、偶然性をそれとして語っているのではなく、その背後に「ある」ものを確実にかたっているから偶然性が必然として説得力を持つ。


この偶然性の基盤として登場人物は全員英語を話す(原作では逆に主人公が言語学の素養を持つ)。
英語が公用語でないスイスの学校やリスボンで英語が話されるのは、映画を見ている観客の便宜のためではないのだ。

主人公を演じるジェレミー・アイアンズやシャーロットランプリングの英語もいつもの英語とはどこか違う、のが私には理解できない(悲しい)。
でも、たぶんここで話される英語はバベルの塔が無かったら、というおとぎ話としてのえいごなのだ。EU統合の是非とは別に英語は一つのおとぎ話に説得力を持たせている。

本作については様々なことを語ることができる。ポルトガルの独裁政権や革命、それを知らなかった私の無知を含め。

しかし、本作中で語られたことを語ることは重要ではない。

語られなかったことが雄弁に語られていることを語るべきだ。

フランシスベーコンの絵画における背景の消滅、削られた顔面、描かれた穴。描かれるべきが描かれないことで、描かれている次元と別の次元を想像させその存在を確信させることができるのは稀有な能力だ。この能力を我々は共有するために語る必要がある。

ところで。

ニュースによると、ポルトガルの元大統領マリオ・ソアレスが92歳で亡くなった。

これも本題と関係ないが、去年のロンドン旅行のカード利用等の整理も終わって、改めていろいろなことがあったと考えていた。
最も美しい思い出はピアとの会話だったように思う。
お互い英語が拙くて、でもこのひとと話をしたいという気持ちが強かった。
私が彼女がドイツのなかでもベルリンに住んでいると聞き、ベルリンにあこがれている気持ちをつがえたかったけれども、歴史的な部分を適切に表現できる言葉を持っていなくて、
「ヴィムベンダースの天使の映画、日本ではベルリン天使の歌というタイトルの映画は印象深かった。ドイツには行ったことがないけれどベルリンは私にとって特別な場所だ。」という話をした。
言語的にはたいした情報は伝えられなかったけれど、ピアは何かを感じてくれてベルリンは素敵な街だと教えてくれた。そして、ソフィアコッポラのロストイントランスレイションを見て行ったことのないトーキョーが好きになった、とも話してくれた。

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