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2017年2月

John Okada 「NO-NO BOY」旬報社

昨年末に川井龍介の新しい訳で出版された版。
第二次世界大戦直後のシアトル。自分の日本人としてのアイデンティティに基づいて徴兵を拒否した日系2世イチロー・ヤマダの物語。
 
「この小説が、日系アメリカ人の文学作品であるという前提は、極端に言えばなんら本質とは関係がない。」と
あとがきで川井が書いているのは正しい。
本作は、特定の時代や国民性を超えた普遍性を獲得している。
誰かが誰かを嫌悪し差別し社会が階層化されること、の悲しさ。
 
1957年、東京のタトル書房がこれを発行した時はほとんど評価されなかった。
直近の英語版の前書きを書いているRuth Ozaki によれば本作は bad English で文学ではないと評されたそうだ。人々は戦争のことを自己の体験としてはっきり記憶していて、他人の体験に共感できる余地のない時代だった。
しかし、時代は変わった。
時代は変わって、明らかに次のサイクルに入っている。新しい、でも、同じことの繰り返しの。
これは読んでおくべき本。
 
 

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クロード・ランズマン「ショアー」作品社

初版1995年。
「ショアー」という1985年のフランス映画を文字に起こした書籍の日本語版。

映画は日本公開されていて、現在はDVD等を購入することもできる。
ただ私は、予告編(動画バージョン。日本語の公式サイトでは静止画バージョンだった。)の映像の力に身がすくんでしまって、本編動画9時間半を見続けることはできないと思った。
どうしようかと考えていたら、この書籍を見つけることができた。
 
500ページ近い厚い本だけれど、インタビューが詩のような形式の改行で記載されているから余白が広く、文字数的にはそれほどは多くない。1日で読むことは可能。
ナチスのホロコーストでどのようにユダヤ人が処遇されたのか、生き残ったユダヤ人、それに関わったドイツ人ら、収容所の近くで生活していたポーランド人などなどが証言している。インタビューはそれぞれのインタビューイーの言語、英語・ドイツ語・ポーランド語・イーディッシュ・ヘブライ語で語られている旨の注記がある。
 
各々のインタビューイーが自身の体験を語り、それをつなげることで観る者が客観的な状況を理解することができる構成になっている。
語られる過去の記憶は、必ずしも正確で真実とは限らないけれど、訳者高橋武智の解説(下記)は同意できる。
「各証言者が心のひだの奥深くに刻みこみ、事あるごとに反芻していた記憶は、少なくとも当人にとっては、文字通り肉体化したかけがえのない事実である。100%同一でなく、むしろ大筋において一致する複数の証言が共存することこそ、それぞれの記憶と証言された事実の真正性を証し立てるものではなかろうか。」本書462ページ
 
<メモ>
ルドルフ・ヴルバ:英語版ウィキ ルドルフ・ヴルバ
ヤン・カルスキ:関連日本語最新書籍「ユダヤ人大虐殺の証人ヤン・カルスキ
チェルニアコフ:日本語版ウィキ アダム・チェルニャクフ
 
下記は2015年3月の動画で、英語だけで関係情報を得ることができる。
ランズマンの紹介に続いてランズマン自身による説明、そして、長い沈黙を破ってショアーで語ったヤン・カルスキについての英語字幕と未公開部分映像。
 
 
私が知りたのは「今」というときであって、それが過去から連続してるという点においてすべての過去を知りたいという気持ちはあるけれど、それが不可能なのだとすればもっと情報に近い別の人に精査を任せたい。
ただ、知らなかったという責任放棄の場所に自分の身を置くことはしたくない。

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スコセッシ「沈黙」

日比谷のスカラ座で。
良い音響と大きなスクリーンは心地よかったし、土曜日午前11時の回はとても空いていた。

予想を大きく上回る素晴らしい映画だった。
たまたま日本が舞台の映画だけど、それはあまり関係ない。
ほとんど最下層の人々を、こんなに美しく愛おしく映画にすることができることに感動した。
これはキリスト教とは直接関係がない部分だろう、どれだけ人を愛してきたか愛そうとしてきたか、それが画面に表れているだけだろう。

ふしぎな160分間だった。
常に静かな緊張感があった。
観客たる私は第三者的なカメラの視線で映画を見る。
カメラの位置は、いくつかの場面で神の視点を意識させはしたけれど、新規な印象はない。そして当然に悲壮な場面が多い。
しかし、俳優の演技を超えた優しさと慈しみが画面にたたえられていて、予想していたような残虐さは皆無だった。
原作を知っていると、あまりの落ち着きはらった描かれ方に一瞬軽く肩透かしを覚えるほどで、しかしその壮絶なはずの場面は、丁寧に描かれることで悲しみの感情だけが深く突き刺さってくるものに昇華していた。
こんなことができるなんて、私は少しも知らなかった。

俳優は、2人ほどを除いて特筆すべきを感じなかった。
それは必ずしも悪いことではない。
この映画では俳優はうまく演じることが求められてはいないのではないだろうか。
特定の人物や出来事ではなく、普遍的な人たるものの存在を描くためには、俳優が俳優として存在してはいけない。
この映画は、あえて言うなら、登場人物としては出てこないイエスを描いた映画なのだ。
出てくるのは、稚拙な宗教画、踏み絵のすり減った磔刑図、言葉も真にイエスのものなのか定かではない、しかし、これほどにイエスの存在を近くに感じられる映画。
私はイエスを思って泣いた。

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ブループラーク

ロンドンのフランシス・ベーコンのアトリエあとにブループラークが付けられるとのこと。
だから、扉にペンキを塗っていたの?

大雑把には、私にとってのフランシス・ベーコンがなんであるのか、ケリがつけられたのであった。
ガラスのゆがみに気づき、ガラスが先にあったこと、でもこれがオリジナルであること、彼の目指したもの、画風の変化、ベラスケスとゴッホとピカソに彼が見たもの、不在の存在、悪魔的な題材、同性愛、マゾヒズム。なぜイギリス的なるものが彼を受容したのか。
彼を触媒にして世界を考えているときに感じたあの瞬間は、きっと彼と同じ瞬間だったのではないかと、なかば確信している。
さてと。

「リスボンへの夜行列車」は結局日本語版を読み始めてしまった。
作者パスカル・メルシエの思考に同調はできない。そもそも、話の核になっている人物アマデウが天才的な神的部分を持ち合わせていると設定されているのが、私の趣味にはあわない。ただ、本作のストーリーと直接関係しない部分の「描き方」が、わたしには興味深い。
たとえば110ページ、
「自分という人間を確かめる最良の道が、他者と知り合い、他者を理解することだというのは、あり得るだろうか?」
と主人公は自問している。57歳の十分哲学的な思考を経験してきた主人公が。
こんな、当然のことを自問していることが理解できなかった。が、当然と思うことを顕在的に登場人物に経験させることが必要なのだ、それが小説というものなのだ、そう考えることはできた。
なるほど、と。

これは、この本が特別なのではなくて、私のほうが変わったから、そういう読み方ができるようになったのだと思う。
いままでずっと、私にとって世界は探し物をする対象だった。何を探しているのかが把握されないまま、探さなければいけないという強迫観念にも似た内なるものに私は支配されていた。
本を読むときも、楽しむことや対話より、むしろずっと飢餓・渇望の感覚が強かった。強すぎる渇望は、かえって吸収・理解を妨げるし、結果、飢餓感はさらに強くなってゆく。
探し物をやめたとか、ぐるっと回って帰ってきたとか、そういうおとぎ話的結末ではなく、ごく自然に私という認識主体が時間の経過により変化したに過ぎない。
時間。主観的な認識であるところの時間。

若い時のベーコンは魅力的だったと、改めて思う。

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