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ブループラーク

ロンドンのフランシス・ベーコンのアトリエあとにブループラークが付けられるとのこと。
だから、扉にペンキを塗っていたの?

大雑把には、私にとってのフランシス・ベーコンがなんであるのか、ケリがつけられたのであった。
ガラスのゆがみに気づき、ガラスが先にあったこと、でもこれがオリジナルであること、彼の目指したもの、画風の変化、ベラスケスとゴッホとピカソに彼が見たもの、不在の存在、悪魔的な題材、同性愛、マゾヒズム。なぜイギリス的なるものが彼を受容したのか。
彼を触媒にして世界を考えているときに感じたあの瞬間は、きっと彼と同じ瞬間だったのではないかと、なかば確信している。
さてと。

「リスボンへの夜行列車」は結局日本語版を読み始めてしまった。
作者パスカル・メルシエの思考に同調はできない。そもそも、話の核になっている人物アマデウが天才的な神的部分を持ち合わせていると設定されているのが、私の趣味にはあわない。ただ、本作のストーリーと直接関係しない部分の「描き方」が、わたしには興味深い。
たとえば110ページ、
「自分という人間を確かめる最良の道が、他者と知り合い、他者を理解することだというのは、あり得るだろうか?」
と主人公は自問している。57歳の十分哲学的な思考を経験してきた主人公が。
こんな、当然のことを自問していることが理解できなかった。が、当然と思うことを顕在的に登場人物に経験させることが必要なのだ、それが小説というものなのだ、そう考えることはできた。
なるほど、と。

これは、この本が特別なのではなくて、私のほうが変わったから、そういう読み方ができるようになったのだと思う。
いままでずっと、私にとって世界は探し物をする対象だった。何を探しているのかが把握されないまま、探さなければいけないという強迫観念にも似た内なるものに私は支配されていた。
本を読むときも、楽しむことや対話より、むしろずっと飢餓・渇望の感覚が強かった。強すぎる渇望は、かえって吸収・理解を妨げるし、結果、飢餓感はさらに強くなってゆく。
探し物をやめたとか、ぐるっと回って帰ってきたとか、そういうおとぎ話的結末ではなく、ごく自然に私という認識主体が時間の経過により変化したに過ぎない。
時間。主観的な認識であるところの時間。

若い時のベーコンは魅力的だったと、改めて思う。

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