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負けの吸収の仕方

アトミックブロンドを見る前にダンケルクを整理しておかなければなるまい。
ノーランはこの歴史的事実を映画にしたいと強く意欲したのだと聞いている。個人的にはそのこだわりが何であったのかを知りたくて映画館に行ったわけだが、それは思うに負けの吸収の仕方はどうあるべきなのか、ということなのだろう。
そもそも何が負けで何が勝ちなのかという評価の点も問題なのだが、それはさておき、負けの場面をどうとらえるかは現実のなかでは大変に難しく、それを映画という客観的な「作品」にすることでとらえ方の一例を示す、という手法を試してみたのが本作ではないか。画になりにくいものをいかに画にしてその真価を説得的に描けるか、これまで成功体験を獲得してきたから、観客と作り手たちの信頼を得てきているからこそできる画期的な作品(成功体験を獲得するとその踏襲に陥ることが多いのに、そうはならず困難を目指して成功しているところが画期的)。

映画の終わりのほうのハイライトシーン(イギリスじゅうから民間船があつまってくるところ)ではつい「ああ、私はイギリス人で良かった」と思ってしまったのだが(おいおい)、私は生粋の日本人なのでイギリス人気質は持ち合わせていないし、それに、ダンケルクという地名もこの映画を見るまで知らなかったから、イギリスでこの歴史がどのように認識されているのかも知らない。
ただ、イギリスは勝ち負け問わず自国の関わった戦争を詳細に分析して後世に残すということをやっているし、チャーチルは古代からの戦記を丹念に読んでいた。だから、映画に描かれているような、この作戦は成功しなかったけれども我々は戦い続けるのだという俯瞰するマインドはとにかく存在はしているのだろう。そして、そういう国としてのマインドとともに、負けの状況で個々人が往々に直面する生きることと正義が必ずしも両立しないミクロの場面での判断手法。私はこの個人の判断様式を細やかかつ自然に描いていることに心を動かされた。
こういう個々人の葛藤はもちろん初めて描かれたわけでない。けれど、ダンケルクでの描き方は、オハナシもしくはオトギバナシではないリアルな私たちの生きる姿を映し出している点で格別に貴い。
私たちが生きるということは、それは私でいることを諦めないことであり、つまり、極限の状況でも思考を停止せず、考えることから逃げないで不可知は不可知として認識認容して次に行くということだと映画では言っている。リアルな生において、ぎりぎりまで私自身でいるということの表現方法は個々人で異なる。でも、「私」であらねば私がここにいる価値はないという強い信念は、名誉なりという言葉で共有される。
とはいえ、こういう考え方が絶対的に正しいのか、それはわからない。ヒトと昆虫と何が違うのか、一緒じゃないかということになれば、また違う考え方もある。
私個人の嗜好として、ダンケルク的な思考は正しいと感じている。

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