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2018年1月

サスカインド「プロフェッショナルの未来」朝日新聞出版

2015年の著作で、昨年10月に翻訳が出た本。
現状を踏まえた将来予測が記載されていて、目的的に読めば得るところは大きい。
というか、本書は英米の現状をかなりしっかり踏まえて、たとえば2050年にはこうなっているだろう、というようなことを書いていているのだけど、アメリカの数年遅れで日本もそうなる、という分野はあまりに多いわけで、そういう分野においては詳細に書かれているアメリカの現状こそが日本の近未来へののぞき穴のようなもので、まさに宝の地図のような本。
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さて。
今年は変化の年になるだろうと、なんとなく直観的に思って年賀状に書いたりしていたけれど、年初早々人生が複雑になって負荷がかぶさってきた。
心身疲労するものの、ここまでネリネリしてきた自分のセオリーを実験的に検証することができるわけで、その点では喜々としている。

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マルコとマタイによる、イエスが十字架の上で最後に言った言葉(我が神、我が神、なぜ私を見捨てたのか)は謎めいている。
そもそも、神はイエスを見捨てたのか、もしそうだとすれば、なぜ神は見捨てたのか。
この言葉のあと、イエスは「大声を出して」死ぬ。
なお、ルカによればこの謎の言葉の記録はなくて、「父よ、私の霊をあなたの手にゆだねる」と叫んで死んだとあるし、ヨハネでは聖書の言葉の実現として「私は渇く」「成し遂げられた」となっている。
さて、考えよう。
これより先だった捕縛の場面で、イエスは「父に頼めば助けてくれるが、聖書の言葉を実現するために起こっていることに従う」旨を述べてお縄になったとある(マタイ)。
ここからロジカルに理解できるのは、聖書の言葉が実現されてゆくリアルな世界と、これを任意に書き換えられる父たる神の世界の2つがあって、イエスはリアルに存在しつつ神の世界へのチャンネルを持っていると認識していた、ということだ。
これが最後の謎の言葉とつながるのだとすれば、イエスは十字架の上から今こそ父に助けてくれと頼んだのにそれがかなわなかったのだ、とも解釈できる。
だとすれば、神はイエスを見捨てたということになり、なぜ見捨てたのか、その答えとしては一般に人類の罪を背負うための通過儀礼として必要だった、ということになっている。
イエスの説いてきた愛は一対一の救済であって、イエスは多衆を救うことはできていなかった(だから民意で十字架に張られた)。
一対一を多衆にパラダイムシフトするためにイエスの絶望が必要だったというのだ。
ここで安直に、イエスが人類の罪を引き受けるための生贄になってくれたのだから我々は手放しに無罪なのだ、というのは違うだろう。
神の世界の作用として人類の罪が白紙にされたとすれば、あまりに神と人が接近しすぎる、神と人は依然峻別されていて、ただ体現者たるイエスは白紙化されたのだと理解すべきだと私は思う。
そのうえで、人において死にも等しい絶望だけが罪を開く道なのだという可能性の示唆こそがイエスの人類救済者たる所以だと理解したい。
キルケゴールは絶望は死に至る病だと言ったそうだが、良薬口に苦しということかと。
なお、死自体はそんなに意味ないですよ、というのが復活概念によっても示されている。

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ロック入門講義

ジョン・ロックについての本。音楽の本ではなく、ね。
人となりや裏話的なところから始まり、ロックが形而上学においていかに誤解されているかを豊富な原典を著者自身が日本語に訳して論証している。
講義を聞いているような、口語体でちょっとした軽口も記載されていて、なによりリズム感がよくて読みやすい。
まだ、読了していないのだが、資料性が高そうだし、ブレイクスルーを目指している点が好感を持ててて、なにより当ブログの更新を1週間していなかったので、まずは記載。

前の記事、内容的に間違っていると思うのだが、まずはブログに書いてしまうという愚行をやってみたのだった。
このロックの本については、読んでいる目的であるところのイギリス経験主義がまだよく理解できないまま。このまま読み進めてゆけば少しはわかるかな。
全然別の本、「図説 聖書物語 新約篇」は読了したのですが、ヨーロッパ絵画と聖書の解説が丁寧になされていて、たいへん良い本でした。
特に、救済とか終末についてC.H.ドットと同じように考えているのでしょうか、共感できました。
次は旧約篇を読む予定。

死は、望ましい事態ではないのですが、それほど異常な事態というわけではなく、適度に親しむことによって人生が楽しくなる、その手綱さばきの絶妙さに興味があるのですが、イエスの最後の言葉もそういうことかなあと考えているところです。
ちょっとまずいぞこれは、ということなのか、それは復活をどう考えるかということになるのでしょうが。

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存在と時間

10代のとき、ハイデガーの分厚い標記書籍と、同じぐらい厚い萩原朔太郎の全集の2冊が一番大事な本だった。
朔太郎の詩は、他人に説明はできないけれどどうしようもなく解る、という感覚があって大切だった。他方、ハイデガーはこれはどうしても解らない、たぶん一生解らないのだろうしそれで構わないと感じていた。

ざっくばらんにハイデガーを語る本(木田とか轟とか)がたくさん出ていて、なるほどとは思うのだけれど、実は私は自分の解釈が一番気に入っている。
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ハイデガーは神を識っていた。入口はもちろんキリスト教だけど、もっと普遍の神が彼にとって神だったから、いわゆる神という言葉はすでに使えなかった。
それは旧約では「有る」(出エジプト記3章)として記述されていて、ハイデカーもそう感じていた。要は万能の知り尽くせない対象、それはわかっていた。それでもその近くに居たかったから、彼はずっと考え続けていた。
語っても語りつくせず他人に伝えられない対象、ずっとそばに居たい対象。
人間の概念に直せば、永遠とか時間とかと言ってもいいだろうか。まるで合わせ鏡の中の世界のような。
彼はその世界を文字で固定してみようと試みた。
言語で説明して伝達するのではなく、文字で合わせ鏡を作り、そこに光があることによって視覚的に永遠に続く世界を認識できる装置を作る、それが「存在と時間」という書籍。上下巻揃ってひとつの装置。
ミヒャエル・エンデのネバーエンディングストーリーもたぶん同じ発想で、こちらは入れ子構造。
ハイデガーはある意味思い付きだけの人で(これは至極当然なこと)、結局上巻しか書けなくて書いた以上の深淵はなくて、それは逆に演算能力で神の存在証明はできるということの証左かもしれない。
私は、存在と時間に加えて、光が大切なのじゃないかと思う。三位一体の子たるの存在。
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最近読んだ本:
■ジョン・マクウォーリー「ハイデガーとキリスト教」
著者は「存在と時間」を英訳した神学者。ハイデガーから英訳についてはハンナ・アーレントに相談するように言われて、アーレントと対話する中での、ハイデガーのナチ党員だったことの意味も書いている。
日本語では「彼は実務家ではなかったから」という表現がされているのだけれど、pragmaticが原文だろうか。
■深井智朗「神学の起源」
カール・バルトの「中に入れ」という説が紹介されていて、まさにその通りだと思った。
自分の考えるたいていのことはすでに誰かが本に書いていて、説明をする際にはそういう先達の引用ができると話が早い。
いまは、チャールズ・ドットの、すでに神の国は実現されているという説を調べたいと思っているところ。
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「われわれは『天にいる神』をほんとうに信じていませんが、ほんとに信じていないことを口にしてはいけないというのが、キリスト教信仰の第一の前提です。」
という文章があった(もちろん上記の書籍ではない)。
非常にチャイルドリッシュな印象で、なぜなら、もしこの文章が真実だとすれば著者はキリスト教を信仰していないことになる(しかし著者はキリスト教者)。こういうプロトコルの外し方は、上位に位置する真理を述べるときにはいったん現時点を破壊する必要があるから使ってよい。しかしここではそのような真理を述べてはおらず、見てきたようなことを言っているとしか思えない(真理に触れていると認識したいという我慾があるだけ)。
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ということで、今年もますます勝手なことを書き散らかしてゆこうと思うのであります。

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オンブラマイフ 陰翳礼讃

淋しさやはなのあたりの翌檜

正月の休みを過ごしての心持がこの芭蕉の句。
何が起きても、生きている限り私はサバイバーであり続けることができると思うんですが、いかがでしょう。

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お正月なので、映画「細雪」を見た。ブルーレイにて英語字幕をひやかしながら。
パブリックな怒りをクリエイティブなエンタテイメントに昇華させる、もしくはプライベイトな怒りをパブリックに敷衍させる、そのエネルギーに心が揺さぶられる。
ヘンデルのラルゴのアリアがこの映画のテーマソングで、ときどき無性に聞きたくなる。
陰影礼賛という言葉だと重たすぎるのが、イタリア語の歌詞で愛おしい木陰を歌い上げられると(映画ではサウンドだけだけど)とても自然に谷崎の世界を感じることができる。
しかもこのシンセサイズされたサウンドが絶妙にこの映画に合っている(予告編でも使用)。誰がこの音を担当したのかと思ったら渡辺俊幸大橋鉄矢という人らしい。
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当時の市川監督は、映画「炎のランナー」の音楽(ヴァンゲリス作曲)をお好きで、「細雪」の音楽に関しては、監督が指定したクラシックの名曲(ヘンデルのラルゴやパッヘルベルのカノンなど)をシンセサイザーのみで映像に合うように編曲して欲しいという内容でした。」
録音の大橋さんが音楽に関して市川監督の女房役のような存在で、監督の要望を聞いては、私に伝え、私がそれを元に編曲・演奏を繰り返し、砧の東宝の録音スタジオに泊まり込み状態に近い感じで何日もかけて作り上げて行った事を懐かしく思い出します。
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そうか、炎のランナーから発想していたのか。
炎のランナーは走っているシーンをスローモーションで見せる画面にテーマ曲が重なる。一瞬という時間の流れをサウンドで表現している。
細雪も、自然の移り変わり、人々の加齢、蒔岡家の没落、戦争へ向かう、破壊へ向かう日本のなかの束の間を表現している。
ところで、
大河のような永遠とも思える時間の流れを、日本人は自然の移り変わりで感じてきたのに、その自然から離れて、しかもたいした宗教心もないとなると、どこで実感できるのだろうか。これは日本人に限ったことではないけれど、時間概念を喪失した存在は有機体としてはやばいだろう。
AIの最大の論点は時間軸かもしれない。

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ことしを生きる

1月1日。新年を迎えた。去年1年を生きることができた。
振り返ると、この365日の心理的長さに驚く。
ユベルマンの「イメージ、それでもなお」を読んだのは去年の初めころだったのだ、もう5年ぐらい前のことのように感じていたけれど。
仕事やらの日々のイベントが過ぎて行くのは早くて、あっという間に1週間が過ぎる。だのに、私の内心の深い部分の時間の進み方はとても緩やかに思えるのは、流れの時速が同じでも小川と大河では見た目の印象が異なるのと似ているような気がする。

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去年は9月はじまりの手帳を使っていたので、その冒頭はロンドン旅行の準備から始まっている。
旅行を受けて、1月に新規の方向性を半年内で決めることを決めて、4月から留学の準備を始めて、7月に外的要因でいったん延期して、宙に浮いた意欲を秋ごろからは半径50センチに振り向けて、成功体験を重ねている、いまココ。
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半径50センチへの意欲というのは、目の前の人との共感によって現状を変えて行くいうこと。
いわゆるパワーエリートが社会のヒエラルヒーの上部から、社会システムや法などによって変化を与えて行こうとしてるのは知っている。強制力だったり恐怖だったりで変化させる手法は全く否定しない。
ただ、私は私なりの手法でやってゆくというだけだ。
それは私独自の手法ではなくて、すでに2000年ほどの検証を受け続けてきた手法。
抽象的にはそういうことだけど、具体的には今年は数字を重視で行こうと思います。ありていに言えばキャッシュ重視。
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ところで、
去年観た映画でベストワンはアトミック・ブロンドで、最後に見た映画はカウリスマキ「希望のかなた」でした。

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