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サスカインド「プロフェッショナルの未来」朝日新聞出版

2015年の著作で、昨年10月に翻訳が出た本。
現状を踏まえた将来予測が記載されていて、目的的に読めば得るところは大きい。
というか、本書は英米の現状をかなりしっかり踏まえて、たとえば2050年にはこうなっているだろう、というようなことを書いていているのだけど、アメリカの数年遅れで日本もそうなる、という分野はあまりに多いわけで、そういう分野においては詳細に書かれているアメリカの現状こそが日本の近未来へののぞき穴のようなもので、まさに宝の地図のような本。
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さて。
今年は変化の年になるだろうと、なんとなく直観的に思って年賀状に書いたりしていたけれど、年初早々人生が複雑になって負荷がかぶさってきた。
心身疲労するものの、ここまでネリネリしてきた自分のセオリーを実験的に検証することができるわけで、その点では喜々としている。

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マルコとマタイによる、イエスが十字架の上で最後に言った言葉(我が神、我が神、なぜ私を見捨てたのか)は謎めいている。
そもそも、神はイエスを見捨てたのか、もしそうだとすれば、なぜ神は見捨てたのか。
この言葉のあと、イエスは「大声を出して」死ぬ。
なお、ルカによればこの謎の言葉の記録はなくて、「父よ、私の霊をあなたの手にゆだねる」と叫んで死んだとあるし、ヨハネでは聖書の言葉の実現として「私は渇く」「成し遂げられた」となっている。
さて、考えよう。
これより先だった捕縛の場面で、イエスは「父に頼めば助けてくれるが、聖書の言葉を実現するために起こっていることに従う」旨を述べてお縄になったとある(マタイ)。
ここからロジカルに理解できるのは、聖書の言葉が実現されてゆくリアルな世界と、これを任意に書き換えられる父たる神の世界の2つがあって、イエスはリアルに存在しつつ神の世界へのチャンネルを持っていると認識していた、ということだ。
これが最後の謎の言葉とつながるのだとすれば、イエスは十字架の上から今こそ父に助けてくれと頼んだのにそれがかなわなかったのだ、とも解釈できる。
だとすれば、神はイエスを見捨てたということになり、なぜ見捨てたのか、その答えとしては一般に人類の罪を背負うための通過儀礼として必要だった、ということになっている。
イエスの説いてきた愛は一対一の救済であって、イエスは多衆を救うことはできていなかった(だから民意で十字架に張られた)。
一対一を多衆にパラダイムシフトするためにイエスの絶望が必要だったというのだ。
ここで安直に、イエスが人類の罪を引き受けるための生贄になってくれたのだから我々は手放しに無罪なのだ、というのは違うだろう。
神の世界の作用として人類の罪が白紙にされたとすれば、あまりに神と人が接近しすぎる、神と人は依然峻別されていて、ただ体現者たるイエスは白紙化されたのだと理解すべきだと私は思う。
そのうえで、人において死にも等しい絶望だけが罪を開く道なのだという可能性の示唆こそがイエスの人類救済者たる所以だと理解したい。
キルケゴールは絶望は死に至る病だと言ったそうだが、良薬口に苦しということかと。
なお、死自体はそんなに意味ないですよ、というのが復活概念によっても示されている。

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