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2018年4月

ダブリン

フランシス・ベーコンは毎日見ていても飽きないよ 笑。
自分の子供の画を見るように、飽きるとかっていうレベルではなくなっているからかもしれないけど。

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ロンドンのアトリエあとに行ってみて、そこでペンキを塗っていたお兄さん(たぶんベーコン財団の職員)に絶対ダブリンのアトリエには行けと言われたし、自身でも行かねばならないと感じたけれど、アイルランド自体には必然性を感じていなかった。
というか、少なくとも半年とか住むレベルなら絶対行ってみたいけど、旅行レベルの滞在では魅力を逆に感じていなかった。
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ということで、ジョン・カーニーの映画を2本見たよ。
「ワンス ダブリンの街角で」「シングストリート みらいへの歌」
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両方ともと~っても良かった。
若者の感じる閉塞感、経済面・精神面・文化面での葛藤がリアルに伝わってきて、でもそこを切り開いて行く力がほんのわずかなきっかけで鮮やかに展開してゆく。
美しいストーリー。
結局はさ、何かを生み出さなければ自分が生まれないってことよね。
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シングストリートのほうは特に80年代のブリティッシュロック?ポップ?が時代背景で、その点「アトミック・ブロンド」と同じだけど、もっと音楽がメインなので、あの時代のMTVの雰囲気とかも分かる。
週一回のテレビ放送を楽しみにして、ミュージックビデオをみて、バンドの情報を聞いてうやうひゃ喜んで・・・なーんだ、日本の私たちとリアルタイムでおんなじことしてたんだあ、って思うと、映画の登場人物の気持ちにもぴったりシンクロできる。
もちろん、映画の登場人物たちのようなラフでハードなコアは私は持ち合わせていなかった。身体生命にかかわる問題は、一見して私の周りにはなかったからね。でも、むしばんで行く問題は在ったんだけど。
そして、この映画では、脇役のエイモン君がとっても素敵だった。ウサギ大好きのちょっと奇妙なキャラが魅力的で、これが演技なら本当にすごい。UKだと普通なのかもしれないけど。
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ワンスのほうは、もう少しおとなの、でもこっちも音楽を作ってゆく話。
主役は実年齢だと36歳らしいので、中年にさしかかった引きこもりが音楽という一点突破をしようとする話。
主演の男女はたぶん名前が出てこない。
そして最後も予定調和に落とし込まれない。
これがアイルランドっぽさかなあと、すんごくいいなあと思った。
最初のほうで、主演の女子が掃除機を転がして歩く姿が良くてもうあのシーンでやられたね。
それは、私がロンドンの住宅街で掃除機が転がっているのを見て、めちゃくちゃ面白かったのを思い出したからなんだけど(単に歩道に掃除機が転がっていた)、でもこのシーンはロンドンの風景なしても絶妙に素敵だと、一緒に見た人が言ってたよ。
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閉塞感とロンドンへのあこがれ、変わりたい自分。
吐きそうになるぐらいよくわかるよ。
海の向こうにイギリスの島影が見えるなら、私も絶対ポンポン船で行ってしまう。
ということで、気持ちの重ねられるダブリン、ダブリンに行きたい気持ちになりました。

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ライオン兄弟、ハイライズ

テレビで見たディスカバリーチャンネルのドキュメンタリLions of Sabi Sand: Brothers in Blood。
南アフリカのサビサンド動物保護区で産まれた6頭の兄弟ライオンが縄張りを広げ、分裂し、やがて台頭して生きた若いライオンに敗北するまでの16年間(詳細情報)。

これは秀逸。トラウマと言ってもいいぐらいに強烈に印象的。
人間以外の生き物について、これほど近しくリアルに感じたことはなかった。
生き物に対する感覚が塗り替えられた。
生きるということのエネルギー、それ自体が美しい。

対極ともいえる内容なのが、映画「ハイ ライズ」バラードの小説のほぼ忠実な映画化。
ロンドン近郊のタワーマンション、高層階ブルジョアジと低層階労働者に暴力闘争が起きて、混沌と化してゆく。
黒いごみ袋が積み上がり、プールは死体置き場になり、食料は尽きてペット犬を喰らう。
こちらには美はない。
ごみ袋はごみ袋のまま、ハイエナもハゲタカもいないから死体は形を保持したまま腐敗する。
役者の演技のうまさとボディの美しさ、加えて演出等のテクニックで、スタイリッシュな映画になっているけれど、どうもシナリオが浅い、もしくは、作っている人たちの間でのコミュニケーションが取れていない、つまり物語の共有ができていない感じがする。
映画の主題は階級の存在と相互の認知共感の欠如だけれど、そういう映画を作るためにはテーマを顕現化させるエネルギーがなくてはいけないのだろうに、それが十分には伝わってこなかった。

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プリーモ・レーヴィ

レーヴィの「溺れるものと救われるもの」は、やはり読まざるを得なかったのだった。
本書はここ数年、読めない、本だった。
何が書いたあるだろうかは解る、しかし、レーヴィの絶望の影が必ず落とされているであろう本書を私は読むことができなかった(1986本書発行、1987レーヴィ没)。
私はまだ楽しく日々を生きていたかったから。

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最近出た「反共感論」という本を読んでいたら、そこに気持ちを動かされる一文があって、引用文献一覧を見たらレーヴィの本書が記載されていた。
この反共感論も、趣旨としては興味深く、共感という言葉がマジックワードとして珍重されている現状を否定しているのは理解できたけれど、しかし、もう一つ奥の段階の考察がなされるべきだろうに、そこまではなかった。
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とにかくレーヴィを読まなければと、とはいえ購入することはまだできなくて、図書館に行った。
すでに手に取ったことのある本の表紙を初めてめくった。
レーヴィが体験したこと、しかし記憶に基づくことのおぼつかなさ、ハンス・マイヤーの死の意味。
生物という根源的部分での、とうてい一人個人では抱えられない、これは絶望と言ってよいものだろうか。
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山種美術館で桜の企画展をやっていた。
吉野や京都や東京の桜、場所ごとに分けられた日本画が美しい。
でも、私にはもう無理なのだった。
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そのレーヴィの本を読んでいたら、最後のあたりの一文にシャープペンシルで震えるようなラインが付されていた。
公共の財にわたくしの痕跡を記すのはまったく許容できないことなのだけれど、この細いラインには救われた感覚があった。
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ヘッダ・ガブラー

イプセンの作(英語)をシス・カンパニーが寺島しのぶのヘッダで。初日。
定評のある役者と演出家のオーソドックスな舞台。じっくり味わう楽しさ。
ただ、演出の意図はつかみかねた。
なぜヘッダは死んだのか。
彼女の死が直前のブラック判事の脅迫による突発的なもののように見えてしまって、それまでの、ヘッダのキャラクタの描写と有機的に結びつかない。
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若くて美しい女性の魅力というのは、彼女がまるで永遠に変わらないような硬質さを呈していることにある。
彼女の自分に訪れる変化を認識しない強さは愚かさゆえでもあり、その愚かな彼女が真実を受容する過程が普遍性を伴うならば、それは演劇的で描くに足りるテーマとなる。
しかし、舞台の上で起きる構造転換が、たんなる不安定な精神の発露で必然性を欠くものならば、それは彼女だけの問題で観客は理解することができない。
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本作では段田安則演じる判事が主役だった。
最後のセリフ God, people don't do such things. が判事のものでシナリオ上も判事を主役に持ってくることは可能であるし、それと、くわえて幕間に私のうしろの観客が「この芝居は段田さんが7役演じ分けてできるわね」とこっそりおしゃべりしてたのも頷けることだった。観客は段田演じるブラック判事を理解することができた。
判事はヘッダの死で跳躍していた。彼は彼のゲージから脱出した。
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というのが初日の感覚だったけれど、芝居は生き物なので回数を経ることで変化してゆくわけで、主役が変化する予感もある。
シンプルにヘッダが主役となるバージョンを夢想してみるのは楽しい。
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70歳近いイプセンは神を信じていたのだと感じる。

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