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2018年4月

プリーモ・レーヴィ

レーヴィの「溺れるものと救われるもの」は、やはり読まざるを得なかったのだった。
本書はここ数年、読めない、本だった。
何が書いたあるだろうかは解る、しかし、レーヴィの絶望の影が必ず落とされているであろう本書を私は読むことができなかった(1986本書発行、1987レーヴィ没)。
私はまだ楽しく日々を生きていたかったから。

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最近出た「反共感論」という本を読んでいたら、そこに気持ちを動かされる一文があって、引用文献一覧を見たらレーヴィの本書が記載されていた。
この反共感論も、趣旨としては興味深く、共感という言葉がマジックワードとして珍重されている現状を否定しているのは理解できたけれど、しかし、もう一つ奥の段階の考察がなされるべきだろうに、そこまではなかった。
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とにかくレーヴィを読まなければと、とはいえ購入することはまだできなくて、図書館に行った。
すでに手に取ったことのある本の表紙を初めてめくった。
レーヴィが体験したこと、しかし記憶に基づくことのおぼつかなさ、ハンス・マイヤーの死の意味。
生物という根源的部分での、とうてい一人個人では抱えられない、これは絶望と言ってよいものだろうか。
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山種美術館で桜の企画展をやっていた。
吉野や京都や東京の桜、場所ごとに分けられた日本画が美しい。
でも、私にはもう無理なのだった。
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そのレーヴィの本を読んでいたら、最後のあたりの一文にシャープペンシルで震えるようなラインが付されていた。
公共の財にわたくしの痕跡を記すのはまったく許容できないことなのだけれど、この細いラインには救われた感覚があった。
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ヘッダ・ガブラー

イプセンの作(英語)をシス・カンパニーが寺島しのぶのヘッダで。初日。
定評のある役者と演出家のオーソドックスな舞台。じっくり味わう楽しさ。
ただ、演出の意図はつかみかねた。
なぜヘッダは死んだのか。
彼女の死が直前のブラック判事の脅迫による突発的なもののように見えてしまって、それまでの、ヘッダのキャラクタの描写と有機的に結びつかない。
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若くて美しい女性の魅力というのは、彼女がまるで永遠に変わらないような硬質さを呈していることにある。
彼女の自分に訪れる変化を認識しない強さは愚かさゆえでもあり、その愚かな彼女が真実を受容する過程が普遍性を伴うならば、それは演劇的で描くに足りるテーマとなる。
しかし、舞台の上で起きる構造転換が、たんなる不安定な精神の発露で必然性を欠くものならば、それは彼女だけの問題で観客は理解することができない。
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本作では段田安則演じる判事が主役だった。
最後のセリフ God, people don't do such things. が判事のものでシナリオ上も判事を主役に持ってくることは可能であるし、それと、くわえて幕間に私のうしろの観客が「この芝居は段田さんが7役演じ分けてできるわね」とこっそりおしゃべりしてたのも頷けることだった。観客は段田演じるブラック判事を理解することができた。
判事はヘッダの死で跳躍していた。彼は彼のゲージから脱出した。
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というのが初日の感覚だったけれど、芝居は生き物なので回数を経ることで変化してゆくわけで、主役が変化する予感もある。
シンプルにヘッダが主役となるバージョンを夢想してみるのは楽しい。
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70歳近いイプセンは神を信じていたのだと感じる。

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