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プリーモ・レーヴィ

レーヴィの「溺れるものと救われるもの」は、やはり読まざるを得なかったのだった。
本書はここ数年、読めない、本だった。
何が書いたあるだろうかは解る、しかし、レーヴィの絶望の影が必ず落とされているであろう本書を私は読むことができなかった(1986本書発行、1987レーヴィ没)。
私はまだ楽しく日々を生きていたかったから。

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最近出た「反共感論」という本を読んでいたら、そこに気持ちを動かされる一文があって、引用文献一覧を見たらレーヴィの本書が記載されていた。
この反共感論も、趣旨としては興味深く、共感という言葉がマジックワードとして珍重されている現状を否定しているのは理解できたけれど、しかし、もう一つ奥の段階の考察がなされるべきだろうに、そこまではなかった。
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とにかくレーヴィを読まなければと、とはいえ購入することはまだできなくて、図書館に行った。
すでに手に取ったことのある本の表紙を初めてめくった。
レーヴィが体験したこと、しかし記憶に基づくことのおぼつかなさ、ハンス・マイヤーの死の意味。
生物という根源的部分での、とうてい一人個人では抱えられない、これは絶望と言ってよいものだろうか。
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山種美術館で桜の企画展をやっていた。
吉野や京都や東京の桜、場所ごとに分けられた日本画が美しい。
でも、私にはもう無理なのだった。
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そのレーヴィの本を読んでいたら、最後のあたりの一文にシャープペンシルで震えるようなラインが付されていた。
公共の財にわたくしの痕跡を記すのはまったく許容できないことなのだけれど、この細いラインには救われた感覚があった。
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