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2018年8月

ウエンツなにがし

他人の言葉にふと心が動かされる、ということはたまにある。

前にもたぶん書いたのだが、ウエンツ瑛士というテレビに出ている人がいて、彼のことはその名前の読み(えいじ?えいし?)もなにもほとんど知らない。

以前、たまたまテレビをつけたとき、彼が、暇なときは何してるの?と尋ねられて、「時間が少しでもあると海外に行く」というようなことを答えていたのを見た。
そのころ、私は体調が思わしくなくて、いったいどうしたものかと考えていたのだけど、そうか、海外というのは時間が見つかればサッと行ってしうものなのだなと、妙に腑に落ちて、直後にロンドンに行く準備を始めた。
念のための病院の手配とか、知人への依頼とか、していったのだけれど、いざ搭乗口に向かうときに不安感がのしかかってきた。このまま飛行機に乗っていいのか。
そのとき私の眼前にいるのが彼だと気づいた。
たんなる偶然ではあるけれど、この飛行機に乗ることが間違っていない気持ちがして安心した。
そして、つつがなく、というか明らかに格段に元気になって帰国して今に至っている。
ロンドンの水と空気が私の体質に合っている、という感覚は強くあったけど、あれは一種の転地療法になったのかもしれないし、とにかくひとつのトリガーだった。
.
.話としてはそれだけなのだが、
私としては、彼からロンドン的なるものへの渇望を感じ取って、それを共有したのだろうなあと感じている。
言語化されなくても、明示的に認識されなくても、伝わるなにがしかがあるのだと考えている。
同じことはフランシス・ベーコンにも感じていて、ウエンツ君がベーコンをどう感じているか、そこはちょっと興味がある。

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ローリー・スチュワート「戦禍のアフガニスタンを犬と歩く」

UKの刑務所の自殺率の激増が問題になっている。
刑務所担当法務大臣(というのか?)が、その原因である麻薬と暴力の監獄環境を改善できなければ辞任する、としゃべっていて、彼の顔つきというか歯並びの悪さが印象的で、ググってみたらこんな本を書いていた。
もうさ、UKはすごいよ。
こんな心身タフな男がいて、45歳ぐらいで大臣やってる。
この本は、2002年にアフガニスタンを歩いて横断したという体験談としてももちろん興味深いのだが、彼のマインドが強く心に突き刺さってくる。
29歳のスチュワートはアジア(イラン・パキスタン・インド・ネパール)を踏破したあと、タリバン崩壊の報に接して、自己の旅の間隙を埋めるべくアフガニスタンのヘラート・カブール間の、直線距離600キロぐらいの制覇に挑む。
格別の理由はなく、単に自分で決めて歩きとおす、そういう移動の過程だ。
たまさか旅程の半分ぐらいのところで大型犬を、なかば地元民に押し付けられるように連れて行くことになり、後半は犬と歩くことになる。
スチュワートも犬も、飼いならされていない性質が共鳴する部分もあるにしても、とにかく生命をつなぐために歩いて行く。
途中、何度も車に乗る機会があるのに、乗らない。
赤痢や極寒や餓えや暴力が、なんども彼らを死の淵に立たせるのに、歩いて進んで行く。
いやほんと、ある種の狂気というか馬鹿というか、ありえないよ、彼のマインドは。
しかも、それらを記述する筆は淡々としていて、おいおいここでは死にそうになっているのにこんなにさらりと書くだけでいいのか、と思わず読み返してしまう。
チャンネル4のインタビューで、アンカーパーソンが改善するにしても予算が圧倒的に少ないのでは、また、刑務所の環境だけを変えようとしても問題解決にならないのでは、と言っているのに対して、正しい対応を社会全体で進めて行くというような抽象的な答えをしているのだけど、しかし、彼には「逃げている」感はなくて、しぶとさというか、とにかく前に進むしかないというのはこの短いインテビューでも理解できる。
この人は注視してゆこうと思う。

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ダークツーリズム

井出明著、幻冬舎新書「ダークツーリズム」および美術出版社「ダークツーリズム拡張」を一読した。

たまたまであるが、ローリー・スチュアート「戦禍のアフガニスタンを犬と歩く」も今読んでいて、これもダークツーリズムと言えばいえる内容だ。
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ダークツーリズムとは、ポストモダンの文脈における人類の悲劇を巡る旅をいう(そうだ)。
何を持ってポストモダンととらえるかは「今」をどう認識するかとの関係性で決まるので、ダークツーリズムも主観的な関係性でカテゴライズされる側面がある。
同じひとつの被災地が、外部者からするとダークツーリズムの対象になるとしても、そこにかつて住んでいた人にとっては、土地と今との連続性が個人の生活レベルで存在していて、そういう側面ではダークツーリズムにはならない。しかし、かつて居住していた彼・彼女が歴史的社会的にその土地を捉えなおすとき、それはダークツーリズムに該当するのかもしれない。
また、単に物見遊山で悲劇の地を訪れるのも、これもダークツーリズムではない。
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このようにダークツーリズムは、真実探求の方法のひとつであるから、学術的なものである。
しかし、その学術性はツーリスト側に立証責任があることが、ほかの確立した学問分野と違う。
「ダークツーリズム」という言葉自体、できてまだ20年程度しか経っていないのだから、認知度が低いのは仕方がない。
くわえて、このようにほぼ直接人の生死や悲劇を学問対象とすることが可能なのか、という部分も、実は存在していると思う。
真実を探求し後世に伝えるため、学術的な目的である、興味本位ではない・・・実際にそうであって明らかに必要性が認められるツーリズムであっても、では悲劇の当事者の立場性はそこでは考慮されないのかという、別次元の観点が存在するからだ。
それは社会と個人の対立構造とパラレルであり、答えはない。
それでもツアーに赴くのであれば、そこには相応のパッションがなければならない。
「探し物なら他をあたってくれ」と言われたときに、「いや、ここにあるはずなんです、どうぞ見つけさえてください」といえるパッション。
ただ、これはどの学問分野にも内在していることだ。

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いちばんしあわせな日

今日は一番幸せな日だったかもしれない。
とくに変哲もない普通の日、だけど内心において私は私の人生に触れてたしかにそれを愛撫した。

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10代のころから、もし40歳を超えて生きていたら、幸せな日が訪れるだろうと思っていた。
その日が今日だったのかもしれない。
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知人の牧師が以前から言っていること、要は愛ということだけど、彼のいう意味がわからなくて、でも、それは言語的な意味を尋ねるという性質のことではないとは解っていて、ずっとずっと考えてきていた。
それが、ふわりと、ぱたりと、先日、解った。
人は変わり続けなくてはいけない、自分があるべきと思う方向に。
変わることで、私は私自身を発見し、発見は愛となる、自分を愛することができる、自分を愛さざるを得なくなる。
そして、人は自分を愛することができなければ他人を愛すことはできない。
まあそんなこと。
そんなことがあって、ドラッカー読んで、小さな何かが重なって。
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ごくごく変哲のないこの日にこんな質量が生まれようとは。
こういう日を私は望んでいた。
2018年8月23日木曜日。

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ドラッカー「経済人の終わり」

このところお金に関心がある。
ずっと数字とは縁のない生活だったのだけど、バチカンの前法王退任の件およびいわゆるme too運動が、そもそも資金の流れの解明をきっかけに起こったことから、お金の流れというものに関心を持ち出して、パタパタとお金に縁が出てきた。
ただ、これは自分の収入が増えたという意味ではありませんが。

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そんなこんなで、私のことだからまた古典的な本を読みだして、バフェットとかドラッカーとか、初めて読んだ。
バッフェットもマンガーもとても面白いけど、ドラッカーには気絶しそうなぐらいガーンときた。
数冊しか読んでないし、そもそも経営マター自体にはあんまり興味ないのだが、この「経済人の終わり」はもの凄かった。あきらかに20世紀の圧巻。
ナチズムが手に取るように明確に分析されていて、初めて深く深く納得できた。
これはドラッカーの29歳の処女作なのだけど、経営の本ではないし、まさに彼が命を懸けて出版したことは「傍観者の時代」に書いている。
バイブルについて感想文が書けないのと同じで、本書については感想的なことは書けない。
とにかく圧倒されるだけだ。
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ドラッカーという人がこの本を書いたというのが、ほとんど真実だと信用できるのであれば、キリスト教が存在して、あれが作り話ではないというのも等価に信用できるというものだ。
要は、人はこんなことがこんなすごいことができる、という意味で。
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ベーコンを知って、それまであんなにアートに心酔していたのが、とんと興味が失せた。信じられないぐらいに何を見ても色あせて見える。
たぶんこのドラッカーの書を読み込んでゆくと、もうほかの本(ただしバイブルは除く)、プリモレーヴィですら、きっと色あせてしまう気がする。
色あせる、といっても相応の価値があって、ただ、私にとっては確認作業になって流す感じになってしまうということですが。
アートと本が私の生活から失せたとき、私がどういう私になるのか、興味深いことだ。
「経済人」になるのかな。

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ダニー・ボイル「スティーブ・ジョブズ」

ジョブズの娘リサが9月4日に本を出すという記事があった。.

2人でジョブズの黒いポルシェに乗っていて、リサが軽く
「買い替える時は私にちょうだい」と言ったら、
「だめだ。お前はまだ何をもしていない、何もだ」と非常に辛辣に言われた、そうだ。
リサ自身、それが車のことなのかもっと抽象的なことを言っていたのかわからないと書いている。
親子の関係はあまり目にしたくないと思っていたので、ダニー・ボイルのジョブズはこれまで観ていなかった。
でも、このポルシェの逸話を読んでリサとの関係も観てもいいかな、と思った。

いくつか見たジョブズに関する映画のうち、ダニー・ボイルの作はもっとも良いものだった。
真実を描いているのかどうかは知らない、けれど、人間のある部分を誠実に描いていて
私は心を動かされた。
映画は、1984年Macintosh、1988年NeXT Cube、1998年iMacの3回の発表のまさに直前だけを描いている。
おおよそのジョブズの人生を了解していないと、映画の筋が追えない。
私はマックやジョブズのことに格別は詳しくないので、たぶん了解できていない部分が多々ある。
ただ、要は人は変わるということは、良く判った。
妥協とか矯正とか、そういうものではなく、経験は人を内側から変えてゆく。それはほんとうに美しいことだ。
いや、美しくあってほしいと願う。

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