« 2018年8月 | トップページ | 2018年10月 »

2018年9月

「はじまりのうた」

承前。
なんでも受け手の側からの受け止め方でしかないわけだけれど、私はこの映画ではポストキャピタリズムへのリアルで明確な方向性を感じた。
これならいける、と。

.
ナイトレー演じる女性は、偶然出会ったプロデューサとともに既存の音楽業界による流通とは違う方法を生み出す。これはネットを使ったよくある資本主義から抜けだす方法で、特に目新しいわけではない。
ただ、彼女がそれを成功させたたのは、要は人のマインドの力なのだと、この映画はささやいている。
大物ラッパーが彼女の音楽を支持するツイートしたから、彼女の存在は世界に知られることになったわけで、このラッパーが本物を見ることができて、マインドを持っている人だったから、ここの部分が映画の展開として成立している(瞬く間にたくさん売れて良かったね、という映画的な展開)。
女性は最初普通に恋人とニューヨークにやって来て、一緒に住んで、彼のアバンチュールに腹を立てたり、まあ型通りの時間を過ごしている。
でも、本物が見つけられずギリギリの部分で生きていたプロデューサに出会って、型通りから脱皮してゆく。
そう、資本主義は「型」なのだ。あまりに自然に存在しているから当然のようにその型通りに生きている私たちだけど、必ずしも型から外れる必要はないにしても、型にとらわれることのない自由さを持っていなければいけないのだ。
女性はプロデューサと明らかに恋に落ちる。プロデューサもすべてを捨てて彼女と過ごそうとする。でも、二人は恋人になることや結婚につながるルートに乗ることは型であって、その型には乗っからない関係性を無言で選択する。
この選択は、精神的にはかなり、かなりツライ。でも、彼らは型にはまって既成の流れに乗っかって安穏と時間を過ごすことをやめたのだ。もっとひりひりする本当の生の時間を生きてい行くことを決めたのだ。本当を見つめて生きることでしか彼らは生きて行けないから。嘘の人生なら、その人生はいらないと、すでにどこかで決めている彼らだから。
映画には描かれていない多くの過去を彼らは経験していて、そこから彼らは強い意欲を持った人になったのだろう。
私は彼らは本当に正しいと思う。
この映画の監督は、「ダブリンの街角で」でも本作と同じように型にはめないストーリーを描こうとしていた。そしてそれは成功していたけど、まるで、偶然のような、はかない感じだった。
でも本作は違う。とても力強い。
そういうことで、私はこの映画を100%支持する。
ただのイギリスマインドが好きなだけかもしれないけどね。
.
資本主義の次に行くことは、以前から思っていたのだけど、要は産業革命みたいな、一つの革命になるのだろう。
では前の産業革命は一体なぜ成功したのか。
私が思うには先立って農業の生産性が上がって、食料の余剰が生じたことが、最も重要なファクターだと思う。そこで初めて都市が形成できることになる。
とすると、一番の謎は、なぜ農業の生産性が上がったのか、だった。
なだらかに向上してきたのではない、勃興する力があったからそこから産業革命に連なったのではないかと考えていた。
この予想は当たっていたみたいだよ。
これはまた後日。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ジョン・カーニー「はじまりのうた」

ダブリンの街角で、と、シングストリートを見ていたので、同じ監督の本作も迷わず視聴。
時系列としては、ダブリン→はじまり→シングの順だけど、これはダブリンとシングを足して2乗したような内容。
すごいいい。
キーラナイトレーの歯並びの悪さが、やっぱり素敵。
登場人物のファッションも好き。
何より、ポスト資本主義の雰囲気がいい。
ちょうどポールメイソン「ポスト・キャピタリズム」を読んでいて、本のほうは日本語訳が酷いみたいでよくわかんないのだけど、この映画はとても解りやすい。
ポスト資本主義が何なのかはおぼろげながらも見えているとしても、それが成立するにはどうすればいいのか。
DONOTPAYとこの映画を見てわかったけど、本物が認識できることが要件みたい。
自分のやるべきことが認識できて、それを形にして生み出すことができること。大量生産に飲み込まれずに、自分の目で世界を見る力。正しいことが分かっているから、他人を信じることもできる。他人を信じることができるなら、特別な家族や恋人やそういう既成の関係性に縛られることもない。
もちろんポスト資本主義を論じるには経済学の分野も重要だろうけど、最も大事なのは人のマインド。時代の雰囲気。
この映画はポスト資本主義の鍵になるのはキリスト教かもと思っているのだろう。
キーラナイトレーの演技は的確だった。お仕着せの関係性ではない、自分自身の人間関係を営んで行くことを能動的に選択する姿は美しい。
こんな100%同意できる映画を見ることができたのは僥倖だわね。
細かいとこも、すごく良かった。
主人公の音楽プロデューサーがジャガーの古いのに乗ってるのが良くて、そういう感性の彼だから、イギリスから来た女性(ナイトレー)のギターの最初の出だしで引き込まれてしまう。
そのイギリス女性と恋人、そして友達の男性3人はともにブリストル大学での友達で、ニューヨークに音楽をやりに来ているのだけど、ブリストル大学の自殺率は有名で、だから、主人公の女性の最初の歌が自殺を歌っていたのも、彼女にとっては自殺は身近だからなんだろうなと感じた。
そしてさすがだと思ったのは、音楽事務所のオフィスのシーンが何度か出てくるのだけど、うまい具合に耳障りになるように電話のコール音が鳴っている。低い音量だけど、巧みに耳障りになる音。ゴージャスでクールなオフィスを視覚では見せつつ、サウンドで辟易させる。若干サブリミナル的に、うまいわ。
そんなこんな、ミクロもマクロもいい映画だったわ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

松原望「ベイズの誓い ベイズ統計学はAIの夢を見る」聖学院大学出版会

ベイズ統計学の最もわかりやすい本はないかと思っていたら、たまたま新刊本のコーナーで見つけた。

未知の著者だけど、統計数理研究所からスタンフォードでドクターとって東大という経歴。いちばん引っかかったのは、本書の発行所が聖学院大学出版会という点。
これは非常に面白い本だった。
.
コストの面は考慮外とするなら、どの標準治療を受けるのか受けないのかは、受けることで享受しうるメリットと可能性としてのリスクとを比較考慮して判断することになる。
医師は医療過誤(による訴訟?)を恐れているし、こちらも一応そういうことは頭の片隅にありつつ、検査の数値を統計値に照らして最終判断は患者側が行うわけだが、これは非常に興味深い体験だった。
私の人生で確率がこれほど大きな意味を持ったことはなかったかもしれない。
自分の腫瘍のタイプがマトリックス的に類型化され、その類型ごとの無病生存率の曲線が描かれていて、たとえば、3年後の無病生存率が28%だとこれはやばいと治療を進めることになるのだろう。
ただ、そもそも「無病生存率」って何よ、ということもあるし、統計の数値の意味が理解できず、医師がふとこういう方法もあるはある、と言った内容が身体への侵襲のないお財布だけの問題だったのでその数値を加えて見たら、全く評価が変わって、まったくこの統計表はなんなのかと、思ったのだった。
(抽象的すぎる話ですみません)
まあとにかく、
あの時は、統計って確率って何なのか、初めて真剣に考えたということです。
標準治療の文献はそこそこ読んだし(ただし自分に関係あるとこだけ)、標準治療以外の選択肢もざっくりとは調べたけど、どうも説得的な情報はあまりなくて、たまたまちょうどその時公開されたカナダのアルバータ州のパブリックな報告書が私の場合には最も役立った文献だった。
バイアスのかかった統計ではなくマクロな視点からのコスト面でのアプローチというのが、私には非常に説得的だったわけですね。
とにかく、統計として示されている数字は信用できないことが多い、その数値から導かれる確率なんて本当に嘘くさいと思った次第。
.(治療の過程で、「これは副作用があったらすぐ電話してください、でもほとんど出ないから大丈夫」、と言われた薬が滅法副作用があって、たしかに調べたら副作用の出る確率が5%程度だったのだけど、その5%に自分がはまったわけで、あの時の医者の「いやー、これはめずらしい、僕、初めてですよ」と人の不幸を嬉しそうに笑顔で言われたのは、じつはいやな感じではなかった。
ただ、95%安全と言われても、自分が5%の側になって最悪死んでしまったら、たとえ十分有意な確率値であっても主観的には意味ないともおもた。)
.
とはいえ、確率は重要ではありますよね。
雨の確率が10%なら傘はいらないけど、40%で素敵な服を着てくときはやっぱり折り畳みをバックに忍ばせることになります。
あと、本書ではAIとか自動運転とかコンピュータの話につながって、シンギュラリティの話になって、邦訳があまりに悲惨ということで形而上的な話になって、もう素晴らしい展開です。
さすが聖学院大学出版会。望外の面白い本を私にアクセスさせてくれました。
ただ、そもそもベイズ統計を知りたいと思ったのは、訴訟での立証行為をロジカルに検証したかったからなのですが、確率ってなによ、という点を少し考えてから、本筋に戻りたいと思いました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「ゲッベルスと私」紀伊國屋書店

同じタイトルのドキュメンタリ映画の書籍版。

ナチス宣伝相で秘書をしていて、ヒトラーたちが自殺したあの総統地下壕に勤務していた女性ポムゼルへのインタビュー。
2013年2014年に収録され、2017年に映画と書籍が公開、ポムゼルは17年1月に106歳で亡くなった。
.
ポムゼルは戦争のころ、若くてカワイイ女性だったのだろう。
彼女の容姿の美醜はさておき、いわゆる"カワイイ"だったのだろう。
彼女は本書で一貫して、私は何も知らなかった、私には罪はない、と言い続けている。
水晶の夜事件がいかに戦慄であっても、ある日突然いなくなった友人のユダヤ人女性については「きっとここでよりも安心な生活をしてるのだろう」と思い込み、ヒトラーのちょっとしたジョークを言った同僚が処刑されても、・・・彼女は私は何も知らなかったという、そしてだから自分に罪はないと。
いわゆる「合理化」という簡単な言語で理解してはいけない事実がここにある。
.
本書に対しては、様々なスタンスがあるだろう。
本書には日本人監修者の文章も掲載されている。ハンナアーレントを引いて説明したりしている。無思想性を批判し、民主主義下でも類似の状況が起きうるという。
.
ポムゼルは1911年1月生まれだそうだが、ドラッカーが1909年11月生まれなので、彼らはほぼほぼ同年齢だと理解してもいいだろう。
ドラッカーは14歳の誕生日の直前のある日、デモの隊列から離れた、そのときから彼は自身を「傍観者」として体現してゆく。
ポムゼムは1943年2月のゲッベルスの演説に際し自らの「傍観者」たるを認める(本書108ページ)。しかし、彼女は「ゲッベルスの真実の顔を私はゆっくりと発見していった。」(106ページ)だけだった。
ポムゼムはあの時代に逆らうということは直接の命の危険があり、それはできなかったのだともいう。
いいですか、問題はそこではないのですよ、ポムゼムさん。
あなたに、あなた一人に行動を求めてはいません。
あなたの自己欺瞞、あなたの逃避する精神に、同じ人間としてそれは間違っていると言いたいのです。
あなたは間違っている存在として歴史に刻まれます、ほかの多くの孤独な人々と同じように。
.
ポムゼムが愉快な思い出として述べているのが、犬の話だ。
ゲッベルスがベネチアに滞在しているときに、飼犬が恋しい、とか言ったのを、側近が宣伝省に連絡してきて、大臣に犬を届けろ、ということになり、どうにかこうにか犬を飛行機で送り届けたら、ゲッベルスが激怒し、繊細なこの犬を飛行機に乗せて送ってくるなんて、とすぐに送り返した、という話。
ようは忖度という話。
どこかの国と全く同じ。
素敵な話。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2018年8月 | トップページ | 2018年10月 »