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2018年12月

The Banksy stunt

今年はたくさんの印象的なことがあった。

思うところあって、職場のほとんど全員と、ご飯を食べに行ったりじっくり1人づつ話す機会を持った。
これは意外に得ることが多くて面白いことだった。
結果として仕事のレンジがぐんと広がった。
マレーシアで知人の家族と親しくなれたのは良かった。
など多々、プライベートは満足の1年だった。
世界の出来事でいちばん大きなイベントは、バンクシーの風船少女の裁断の件だ。
サザビーズのオークション会場で、ハンマー音を合図に額縁から縄のれんのようにピラーっと落ちてくるのを最初見たときな意味が解らなかった。
案の定、あの画はほぼ倍の価値を持つようになり、バンクシーは自分のブランド価値を高めつつオークションシステム等の批判を成功させるという、まったくすごいことをやってくれた。
ちょうど画の真ん中あたりで刃がストップし半分ピラピラというのは、バンクシーが言うには「全部切るつもりだったのが失敗した」ということだけど、下記PBSの番組の通りバンクシーは計算して半分っで止めたのだろうな。
ということで、今年も有難うございました。
来年もどうぞよろしくお願いいたします。

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ミスター・ロボットの意味

ボヘミアンラプソディが及第点だったので、ラミ・マレック主演の「ミスター・ロボット」をシーズン2まで見たところ(アマゾンプライム)。

ストーリー自体は、チャック・パラニューク(Chuck Palaniuk)の「ファイトクラブ」そのまま(類似点の詳細はここなど)とそれが成功した後日譚。長い期間を様々なエピソードを折りませながら、描いている内容はもっと普遍性を持った部分までに至っている。
原案・製作のサム・イスマル(Sam Esmail)は、ファイトクラブ(1996年)のストーリはもちろん、パラニュークの実生活をもここに押し込み今日的にアレンジしている。
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世界を変える主人公エリオットは化学薬品を扱うのではなく、PCや携帯電話を操るハッカー。Fight Clubではなく、Fソサエティというハッカーグループを組織して、金融企業Eコープのビルディングではなくデータを消しドルの価値を崩壊させる。
ここまでがファイトクラブと同様の構造でストーリーが進むところ。父性の喪失、強迫観念、ドラッグ、不眠、人格の分離、世界秩序の破壊のための組織化。
このあと、既存通貨が崩壊して社会が混乱するけれど、資本主義はデジタルマネーに移行するだけという現実が現れてくる。
さてどうしようか、というのがシーズン3以降(未見)。
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これはラミ・マレック(Rami Malek)という異形ともいえるエジプト系キリスト教徒の俳優がいたから実現できたストーリーで、マレックはボヘミアンラプソディでフレディを演じるよりずっとナチュラルにフィクションを演じていた。
コンセプトさえマッチョに存在していれば、あとは適切な俳優がいれば面白いドラマができてしまうということなのかもしれない。少なくとも私はストーリーはそれほど気にならない。
気になるのは、なぜこのドラマは緊張感を保っていられるのかということだ。どこからこの力が伝わってくるのか。
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特に延々と続くエリオットの幻覚、にわかにはそれが現実ではないと気づかないシーンもあれば、すぐにこれは幻覚だと解るものもあるが、つまりそれらは単に彼の内心の、必ずしも現実と因果関係のない妄想であって、それをずーっと見ていられる、見ていたいと感じさせるのはどういうことなんだろう。
ここに何らかのリアルがあると感じているから、見ていたいと感じるのか??
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たとえば、マトリックスには影響を受けたとイスマルは言っているけれど、たしかにあの世界観だとバーチャルの方が観客にとってのリアルだからバーチャル部分を熱心に見てしまう(パウロのように世界を新たに見る)のは当然だろう。
それに、バーチャル世界は物理の法則や因果律が支配して人類で共有する構造になっていたから、観客も共感できるストーリーとして成立していた。
そういうマトリックスをすでに知っている観客であっても、ドラッグによる個人の妄想に付き合わされるのはまったく別なのだが、しかしエリオットの幻想には観客を引き込む力がある。エリオットは自分の居場所がわからず困惑しているけれど、幻想の見せ方には迷いがない。
この製作側の自信はどこから来るのか。
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と思っていたら、ファイトクラブのチャック・パラニュークの実生活、彼の祖父・父・本人のを一人の人物として現代に置き換えたらエリオットになるのだと気づいた。
もし、ある小説がとても気に入ったなら、なぜその小説が書かれたのか、作者の人となりや経験してきたことを知りたいと思うのは当然だ。
圧倒的に魅力的な世界の終わり、これまでなかったリアルな世界の終わりのパターンを目にしたとき、その作者パラニュークというリアルの人物の記憶と感覚、それは読者の共感の源となり、そういう人物であれば幻覚にさえも観客は喜んで付き合う気になる、ということだ。
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1962年生まれのパラニュークの実生活は、日本語ウィキからリンクされているいくつかのサイトによると、下記のようなものだ。
まず、祖父。
ウクライナ人の祖父ニック・パラニュークは息子フレッド(チャックの父)が3歳の時、妻を撃ち殺し自分も自殺した、フレッドはベットの下に隠れて助かった。
ニックはクレーンのアームで頭を殴打されてから変になったとも、いや前から暴力的だったという人もいて真実は解らない。いずれにしてもチャックは父方の祖父母を知らない。
チャックの両親は14歳の時に離婚するが、それまではワシントン州のバーバンクでトレーラーハウスに住んでいた。非常に貧しかった。
バーバンクはマンハッタン計画が進められていたハンフォートサイトの隣町で、母は核施設で事務職をしていて(2000年時点)、2009年に死亡。
父は大陸横断鉄道の支線で勤務していたが(ガーディアン紙によると、チャックは子供のころの思い出として、鉄道事故が起きると夜中に家族で現場に出かけて盗みをしたのを鮮明に記憶している。)、離婚後、雑誌の出会い広告で知り合った女性の元夫のストーカーに、女性とともに殺害された。
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ミスターロボットのストーリーになっている要素が、モザイク的にちりばめられている。
頭部の強打と常軌を逸した行動、明らかにならない因果関係、父親の喪失、貧困、川沿いの町、土地の汚染、魚の汚染、巨大組織に勤務する親、ファミリービジネス、他人の物語にもとづく死・・・。
そして、これらからファイトクラブが醸造されたのだという因果関係。
こういう現実を丁寧に取り込んで、そこで動いた感情をやり過ごさずに現代のストーリーに反映させればミスターロボットになる。
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ミスターロボットというタイトルは、人間の自律性とは何なのかという意味なのだろう。
人格の分裂、見えない他者との会話、自律的な決定をしているつもりでも他者や自己のDNAや既知に支配されている。
我々が自律的でないとするならば、対置する概念として自律する存在を措定することができるわけで、それを神という名で呼ぶかはさておき、ミスターロボットは神ともいうべきなにがしかを措定するための対概念と定義できるのかもしれない。
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イスマルは映像も音楽も素晴らしい。
映像は若干やりすぎ感があるけれど、今回はこれでいいのかもしれない。サウンドは本当にセンスがあるとしか言いようがない。このドラマで最も素晴らしいのはサウンドだと思う。映像へのサウンドの合わせ方はハッとさせるものがある。単に私の好みなのか?とにかく素晴らしい。
対して、彼が苦手なのは子供の描き方、それと宗教がやっぱり良くわからないんだよねという感じが伝わってくる。

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グレイヘア

14日付ガーディアン紙に、早晩白髪を隠さなくてよい風潮になるでしょう、みたいな記事が掲載されていて、ちょっと驚いた。
私はとっくにそういう時代になっているのかと思っていたから。
記事には、とくに黒髪の人はたいへんなので、うまくカラーリングでカモフラージュしながら乗り切るしかない、ともあって、そうなのか、とさらに驚く。
ガーディアンの記事冒頭にあるとおり、UKのVOGUE編集者サラ・ハリスやアメリカ生まれのモデル、クリスティン・マクメナミーはたぶん日本でもすごくよく見かけるグレイヘアの著名人だ。
しかし、どうやら彼らはエッジな人らしい。

とすると、もしかすると日本はグレイヘアに最も寛容なのかもしれない、現時点だと。
私はそこそこ若い時期から白髪があって、黒髪は重いという流行りの感覚があったのもあって、なんとなく全体をアッシュっぽい茶色にしていた。
でも、UKでテレサ・メイが首相になって少し経ったときに、これもなんとなく染めるのをやめた。
髪の痛みが気になりだしたのもあるし、年齢も若くはない年になって、まあそろそろいいかな、というのと、おこがましいことではあるけれど、この自分でやってゆくという気持ちを24時間365日貫いてみようという底意もほのかにはあった。
自画自賛で申し訳ないが、結構うまくいったと、およそ1年かけて染めた部分がすっかりなくなってそう思う。
朝の支度のときに、ほとんどいつも「次はいつ染めなきゃいけないかしら」と鏡をのぞき込むということが無くなった。そして、この自分の髪を健康的にしておくためにブラッシングしたりオイルを塗布したりすることの楽しさは、とってもいい感じだ。
職場でも周りの人が慣れて、来客もこの人はこういう人なのね、と思ってくれるようになった、と思っている。
たしかに、服や靴に少しお金はかかるようになった。それはすでに手持ちだった曖昧なテイストのものが似合わなくなって、どこか攻めの部分のある服しか似合わなくなったから。攻めといっても、色や組み合わせを少しだけ挑戦してみるという程度だけど。
さて、ここまで来て、思うのは、白髪にするなら筋トレしないといかん、という点。
何歳であっても筋トレは必要だけど、とくに白髪は姿勢が良くないと似合わないと思うのよね。下半身と背中の筋トレ。
ということで、このブログもそろそろテイストを変えようかと思っている。
乞うご期待??

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ボヘミアンラプソディ

やっと見てきた。
フレディ・マーキュリーの話なんていったら、もう見るのが当然で、有無を言わさず見てきた。
ほぼ予想通りという映画だった。
よくできてはいたけど、画面はあんまり見ないで、頭の中の印象と音声を合体させて見ていた。
だって、ホントのフレディのほうが100倍存在が強烈で、映画で劇的にしてもエッジが弱いなあと感じてしまうのだもの。仕方ないよね。

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ただ、1点気になったのは、この映画すごくエロい。
性行為を直接描いている場面はないけれど、フレディのどうしようもない性への衝動が画面に現れていた。
これは凄いと思ったし、このゆえにこの映画は存在する意味があると思った。
で、なぜこの映画はそんなエロさを獲得できたのだろうか。
役者の演技のうまさではない。エロく演じようとして演じた、というのではない。そういう余裕のあるエロさではない、傷に塩を塗るようなエロさだもの。
これは、フレディという存在が役者に与えたプレッシャーが良い方向に働いて、エロさにつながったのだろうと思う。
このエジプト系の役者ラミマレックを連れてきて、良い方向にプレッシャーをかけたのは誰なのか、もちろんビジネスベースの仕事だろうけど、そこにボックスオフィスとは別に、フレディやクイーンに対する畏敬があったであろうことが感じられる。
そういう大きな規模の真実に向けられたプレッシャーは演技を超えた役者自身のぎりぎりの生を画面に映し出し、それは本作では性的なエロさになって伝わってきたのだろう。
伝えたいパッションが渦巻くという、良い映画のセオリーどおりの良い映画なのだ。

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変化の年

この正月を迎えると、ココログを始めて丸15年になる。
英語圏でホームページとは違う形式の面白い記事がネットに出てくるようになって、これは何かと思っていたら、ブログの創始者シックス・アパートが日本のニフティに来て、ココログがサービスを始めて、それが2003年の12月。
きりのいいところで14年元旦を待って、このブログを始めたのは、そうか15年前なのだな。

最近、世界がすごい速度で変わっているのを感じる。
それはテクノロジの進歩で、変わる速度が速くなって、かつ、それを知るすべがあるから感じられることだろう。
それとは別に、個人的な理由で、とくにここ数か月はあまりに劇的な変化だった。
頭と気持ちがついて行かずに、興奮状態で眠れなくて、こんなに寝ない日々は初めての経験だった(今日は久しぶりに7時間寝た!)。
小さな絶望、比較大きな絶望、そういうこともあったけど、まあ現在のところリカバリできていて、少しはタフになってきたかな、と思ってる。

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考えると、個人的変化については、やっぱり2013年5月のベーコン展が起点だった。
それと、ずっと傍らにあった聖書なんだよね。
要は、私は日本の価値観を信じていないし、いまここの価値観を信じていないので、時空を超えた何かを知りたかった。
ロンドンの空気と空、あそこにいたロシアやブラジルやコロンビアやシリアから来た彼らの運んできた世界の空気に触れて、その何かが何かを抽象的に獲得できて、その後の2年をかけて、やっとそれら何かが具体的に了解できるに至った感じがした。と同時に、リアルな客観的な事象として押し寄せてきて主観が客観で論証されてゆく感じに気持ちが高ぶり眠ることができなかった。

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考えたら、来年は平成が終わる。
オリンピックや民法改正やリーガルテックや、私の周りでリアルが大きく変わり始めている。
そういう、今。

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