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2024年10月

書くこと

最近、ジョージ・オーウェルを考える。これもフランシス・ベイコンつながり。
ベイコンはオーウエルの配偶者のサロンにしばしば参加して、この配偶者と絵画論の本を出そうとしたことがある。それと、ベイコンのもっとも熱烈な批評家シルベスターは、若いころオーウエルに薫陶受けて一緒に仕事していた。
ベイコンとオーウエルの直接のつながりはあまりないけど(オーウエルは早死にしてるから)、どう考えてもベイコンはオーウエルに影響されている部分がある、と感じる。
オーウエルの先見性は、彼が比較的若い時に世界を見たからだろう。
早川文庫の1984の解説はピンチョンなのだが、それを教えられてこの解説を読んだ。ぐわっと突き刺さる解説だった。

私は、自分には知らないことがあまりに多いことは知っている。
この一事をもって私は私を愛することができている。

ヒトの社会性というときに、すぐに考えるのは他人との関係とか平面的な広がりだけど、じつは縦軸というか時間的なつながりが大きいというのは、社会学とか文学とかの世界ではたぶん当然なのだろう。
絵画とか文学とか音楽とか、論理で説明できないものを表現する世界は魅力的だけど、直截な伝達手段をいま、欲している。
社会性が失われた人間は社会に反逆する。その結果、社会はすべての構成員を失うことになる。
いまのところ、それでもいいとも思う。

さよなら、ベルリン

気づいたら、前の記事から数か月たっていた。
これはいけません。

アマゾンプライムで「さよなら、ベルリン」というドイツ映画を見た。1931年のベルリンを描いている。
「ヒトラーのための虐殺会議」を勧められて見たところ、とても面白かったので、またドイツ語映画。
これもとても良かった。人生のベスト5に入りそうな勢い。
原作がケストーナーとあったので、流石と思って原作も読んでみた。
びっくり。
映画ですごいなあと思った部分は全部、原作と異なっていて、映画オリジナルなようだった。
たとえば、映画の最後への流れは本当に素晴らしくて、精神活動がどんなに尊いか、よ――くわからせてくれた。
主人公が見えなくなる場面は、これだけでゴハン1杯食べれます、という語りつくせなさ。
しかし、これはモノを作る人が頭ではなく身体を通して表現した場面だというのは、シンプルに伝わる。
これが原作ではびみょうに違っていて、このびみょうさが圧倒的な凡庸を決定づけているのね。

長い映画なので躊躇するし、ちょっと悠長さも感じるけれど、
当時のベルリン(今に似ている)の雰囲気が経験できるし、生きることにも死ぬことにもタフになれる(かもしれない)ので、また見ようと思う。
ありていに言えば、フランシス・ベイコンが22歳のころ(1932年)にベルリンに滞在して強い刺激を受けたらしいので、それを少しでも知りたくて見たのだけど、予想外の収穫だったということでした。
ではまた。

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