私を離さないで、の雰囲気。
講道館の地下のレストラン、外国からの団体選手の食堂みたいになっていて、その日は30人ぐらいのティーンエイジの若者たちがご飯を食べてた。
何度かこういう光景は見たことがあるのだけど、その日は若い男女なのに妙な静けさがあり、それは既視感のある、どこで見たのだろうと考えたら、カズオイシグロの小説「私を離さないで」の心象風景だった(映画は見ていない)。
お店の人に尋ねたら、ウクライナから来ている若者たち、ということだった。
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講道館の地下のレストラン、外国からの団体選手の食堂みたいになっていて、その日は30人ぐらいのティーンエイジの若者たちがご飯を食べてた。
何度かこういう光景は見たことがあるのだけど、その日は若い男女なのに妙な静けさがあり、それは既視感のある、どこで見たのだろうと考えたら、カズオイシグロの小説「私を離さないで」の心象風景だった(映画は見ていない)。
お店の人に尋ねたら、ウクライナから来ている若者たち、ということだった。
2025年になりました。
幼いころに憧れていた21世紀も、すでに四半世紀になるのかよ、と。
シンギュラリティが来るか否か、あの論争はどうなったのだろうか。
そもそもシンギュラリティの意味が確定してないから、各自が好きなことを言ったままだろうか。
演算能力や記憶能力と複製力は当然、マシンが上だろう。でも、人間を超えるって意味が解らないよね。
例えば、人間という種が50年生きても、ミケランジェロみたいにすばらしい絵を描けるひとは稀なのであって、しかも、その素晴らしさは時間の流れの中で評価されることであって、時間軸のない存在としてのマシンが人間を超えることはあり得ない、と私などは思う。
年末年始、いい気になってテレビやネットを見ていた。
恒例の高齢歌手や今年死んだ人の映像とか見てて、やっぱり老化は死ぬ方向なんだなと感じた。当たり前だけど。
人は常に老化してゆき、死に向かってゆく。その当たり前を当たり前に過ごしているのは美しくないわけで、美意識を持つなら(神に近づきたいと思うなら)、今いるところ、社会性というか全体の一部としての認識を持つことが必要になる。
美には距離が必要。美を感じるには、距離が必要なのだ。
そして距離があれば不可避的に遠近法=偏見が介在する。自分の視点をわかっていないと、距離を設けることができても美ではなく単なる偏見になるだけ。自分の視点を知るには、自分が全体の中で動いて比較してみるしかない。
この自分が動くことがとても大切。
醜くくなりたくなければ動くこと、失敗し、間違い、くじけること。
ゲオルグ・ジンメルが腑に落ちなくて、すこし離れて時間を置いていた。彼の言う「距離」がややわかってきた、かな。
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