思いつきを書き留めておきます。
精神的に疲弊している人は着物を着るといいと思う。
針金細工のオブジェを与えられて人工飼育されたサルと毛布で同様に飼育されたサルでは、後者の方が精神的に安定した個体になるという心理学の実験があったけれど、たっぷりの軟らかい暖かい存在にくるまれるのはどうやら良さそうなことだと思う。
仕事で疲れたときに着物を肩から掛けてじっとしていると、落ち着くものである。ただ、その際、化学繊維では効用が薄いようにも思う。
自分が何者であるかわからない人は着物を着るといいと思う。
着物を眺めていると、この色が好きだとか柄が苦手とか感じるわけだが、実際に羽織ってみるとそれらの概念がグシャと押しつぶされる感覚を味わう。
自分に似合う着物は似合う。ダメなものはダメ。
そして、それらが自分の表層的な嗜好とは一致しなかったりするわけだ。
顕在的な意識だけが自分ではないことが分かり、自分は無数の無限の局面を有しており、したがって何者でもないのだと理解できる。
(ただし、これは多少着物になれないと見えてこないところかも。そして、これが見えてくると着物にはまってしまうのかも。たいへん危ないことですね~(笑))
自分の正しい姿勢が判らない人は着物を着るといいと思う。
着物は帯の位置で固定され他は布に覆われているだけだから、たぶん身体が解放されてあるべき場所に戻りやすい。そして、着物を着ると必然的に草履なりを履くことになるけれど、これも鼻緒だけで固定されて歩行することになるから、裸足に近い。
着物で歩行する際に力が入るのは、丹田あたりと足の親指の付け根になり、足や腰や背中の大きな筋肉が伸びやかに使われるのを感じる。心地が良い。
洋服+靴だとこれがまったく違うし、同じようにはできないのが面白いところ。姿勢とはそういうものなのだと理解できる。
あとは、裁縫が楽しくなったり、お金の使い方が変わったり(士農工商=こころざし・そざい・さいく・りゅうつう、の順番でお金を掛けたくなる)、いろいろ効用はありますね。
それと、呉服屋に出入りするようになるには気丈でないとダメなのだと、感じます。
一定の知識と自分で判断する能力がないと辛いです。当然一朝一夕では対応できません。呉服屋が『最近の方は皆さんこうされていますよ』な~んていうのは絶対にアテにならないです。着ている自分が居心地悪くなるようなことはしたくないのです。
核家族化により自分自身の歴史をしょえない私達は、書籍なりで日本の装束の歴史をフンまえて呉服屋に対峙しないと買い物もできないというのは寂しいかぎりですが、ここは時代のしっぺ返しを甘んじて受けるしかありません。戦争に負けるというのはこういうことなのかと思ったりもしながら。。。
おっとと、とりあえずこんなところで。
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